短編集

椚田ツルバミ

ある旅人の追憶

 ある夜の日の事だった。私はとある事情で旅行へ行き、各地を転々としていた。その日は大変冷え込んでいたようだ。宿に身を寄せた物の、窓に張り付きこまかな水滴に姿を変える雪の粒に落ち着かなくなった。私はそぞろと街路に繰り出すことにしたのだ。

 街角には少女がいた。少女は身長が低く、ぼろぼろで継ぎ接ぎばかりの衣服を身につけていた。左腕につるした籠には燐寸マッチの箱が大量に詰まっており、右手には空の缶筒を持っている。道行く人の中には少女の佇まいをみつけて哀れなこどもだと囁き、悲しげな表情を作りながら彼女の前を通り過ぎて行った。それを目で追いながらも少女は無表情である。防寒頭巾を目深に整えている為、目元だけがぎらぎらと浮かび上がっている。こぼれた長髪は油脂でしっとりとしていた。

 どこの街にもこうした者たちはいるもので、私は関わらないように距離を取って歩いた。天候は依然変わらず、埃のような雪は大きさを変えない。昼間日差しをいっぱいに浴びた石畳に落ちると、綿埃は暗色の染みとなった。しかし舞台装置のように舞い続ける雪は、傘をささずに歩く私の頬を確実に冷やしていく。少女を見ないようにして前に進む。ポケットに突っ込んだ手を握りしめる。どうしても、少女に対して無関心になりたい。私は善良な人間ではないからだ。

 小さな街だ。大通りと言ってもたかが知れている。馬車が一両通るのもやっとな程だ。

 案の定、私は少女に声を掛けられた。

「そこな紳士よ、燐寸はいらんかね」

 妙に老獪な物言いに聞こえるのは、恐らく少女の声がひどくかすれているからだ。にも関わらず彼女の声がハッキリとこの耳に届いたのは、中天を覆う雪雲の所為だろうか。このような雲の日は、不思議と明るいものだ。ついでに、ひどく静かになる。音が吸われる所では呟きも肥大化する。どこかで誰かが音の通り道を捻じ曲げているのだ。私は胸が苦しくなる。私の言う事を、誰かが吹聴している。そいつは目には見えない癖に簡単に信頼されるから、誰も嘘だと信じてくれない。

「私は煙草を服まないんだ。お嬢さん」

 出来るだけ柔らかな口調に聞こえるように気を使って、そう言った。

 振り返ると、少女は一層みじめな身なりに見得た。その瞬間、私は自分の両目をえぐり出したくなった。眉と眉の間に皺が寄るのを、精一杯食い止める。

「燐寸の使い道は煙草ばかりとは限りませんぜ。例えば洋灯ランプなんかはどうだい。あんた観たところ大変な勤勉家だな。ひとつ貰っていきなよ、暗い所で本を読むと目が暗むぜ」

「いらないよ。生憎、私は暗いところでは本を読まないんだ。夜は寝るに限る」

「なあんだ、だったら暖炉の口火に使いなよ」

「いらないさ。生憎、私の泊っている宿は種火を残してあるんだ」

「おや、あんた旅人かい。だったらなんでもかんでも燐寸は持っておくといい。野宿の時は便利だぜ」

 少女はきひひ、と初めて三日月に唇をひきつらせ、歯の間から音を漏らした。笑っているのか。目は見開かれたままだから、滑稽だ。過酷な環境な少女から自然な顔のほころばせ方を失わせたのかと脳裏に過り、私は頭部の半分を切り離したくなる。薄い紙を一枚挟みこんで、後頭部から顔までを輪切りにされてしまいたい。指がわなわなとふるえた。

 問答に疲れた私は、そこで黙り込んだ。仕方なく財布を出そうと胸元に手をやると、少女は燐寸を一箱空いている手に握らせた。

「まったくあんたは役得だ」

 そして意味不明なことを言った。

「金はいらねえよ。どうせあたしももうすぐここから立ち去る。使えねえ金なんざ、いらねえさ」

 滑稽な笑顔のまま表情は変わらなかったが、少女はどこか満足そうだ。

「――君は、燐寸を売って生活しているんじゃないのか」

「いいや、友達の手伝いさ。とにかく燐寸を誰かに渡したくて仕方がねえ奴がいるのさ。そいつは世界的なストーリーテラーで、中身の無ぇ話をつくっちゃ誰かに聞かせて回っている。作られたもんが完璧に偽物ならよかったんだけどな。まぎれもねえ現実なんだから始末が悪ぃ。だれか聞いてやる奴がいねえと、あいつは自分の思考に押しつぶされてどうにかなっちまう」

「作家の友達がいるのか。燐寸とどう関係があるんだ」

「ああ。あんた、あの童話を知らねえのか? そいつは悪かった」

 もちろん知っていた。少女はあの悲しい話を――と表現するのも躊躇する、あれはそんな偏見で以って語られる話でもない筈だ――模倣していたのだろうか。けれど、精々あの話と合致するのは少女の外見くらいなもので、他はなにも符合しない。少女は確かに貧しいのだろうが、私と同じようにこの街の者では無いらしい。金もいらぬと言う。彼女は何をしたくて、こんな行きずりに燐寸を押しつけようというのか。

「まさか、こいつの中身は素敵な御薬なんじゃないだろうね」

 こういう事は確認しなければならない。口が裂けたらどうしよう。私は唇に手を当てた。

「そいつは愉快な話だな。だったら分捕るよ」

 少女はまた喉をひきつらせて肩を震わせた。愈々訳が分からない。焦点が定まらなくなってきた。この少女を理解したい――否、理解しなければならないと思うのに、どうやらそれは一度の邂逅では難しいらしい。当たり前だ、出会ったばかりの人物のことが手に取るように解ったならば、そいつは神の目を持っている。視界の揺らぎはそのまま眼球の渇きとなり、瞬きをするとじんわりと痛んだ。痛みは全身を掛け巡り、腹に集中する。もはや痛みで無くなったそれは、ぶよぶよと固まった気持ちの悪いなにかになった。固くならない内に吐きださなければならない。だが、道端にぶちまけられるわけがない。それがまた私を縛りつけるのだ。

 唐突に、少女に話しかけられる前に彼女をどんな目で見ていたかが思い出された。私は少女を浮浪児だと決めつけてかかっていた。精一杯の同情と見下しで持って少女を見ていたのだ。その卑しい視線と憶測が憎たらしくて堪らない。泡立つ肌もそれに張り付く雪も、全てが刃のような鋭利さで私を責め立てる。

 うめき声をあげてここから走り去っても、誰も助けてくれないだろう。私はここに留まることにした。立ちん棒をしたまま硬直した私に、少女は優しく声をかけた。

「あんた寒いんだな。随分余裕がねえようだ。だったら燐寸を擦ってあげよう」

 少女は自分の燐寸群のなかから一箱取り出すと、慣れた手つきで一本を取り出した。叩きつけるように赤い頭薬を箱の側面で擦った。空気が燃やされたような、炎の音がした。ちいさな灯りは少女の右手に持たれ、彼女の顔をハッキリと照らし出す。黒く燃やされていく持ち手を、少女は無表情に近い笑顔で持っている。

 ぎょろりと、少女の目玉が改めて私を見つめた。

「あたたかくなんて、ないじゃないか……」

 反発するようにしぼりだした私の言葉に、少女はなだめるように左手を差し出した。燃え尽きた燐寸を缶に放ると、追加でもう一本、燐寸を灯す。

「まあ聞けよ。いいや、観て行けよ。あんたは随分優しい化け物だからな、こんな話がお似合いさ。言うだけならタダだろう」

 そして少女は、滑稽な物語を私に語って聞かせた――

 指先に灯った炎の先には、鮮やかな景色が朧に揺れている。

 

 雪はまだ止まない。

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