12-3 この世界にふたりだけ


 氷月の言うことを理解してないんじゃない。

 要するに彼は本気で自分を守るつもりなのだ。彼にとっては出自の知れないよそ者である自分を、この島で遭遇し得るであろう一切の危険から。

 彼はそういう人物なのだと、漠然と理解した気分だった。


 湯船に沈み込み、アルエスは気持ちを落ち着かせようと目を閉じる。

 海の魔物に襲われて、船が沈んで、海を必死で泳いでムルゲアと出逢い、島に辿り着き、魔族ジェマと戦って殺されかけて、助けられて――……。


(そうやって、逢いに来たんだよ?)


 不意に眦が熱くなり、アルエスは慌ててタオルを顔に押し当てた。ここ数日の波乱に、涙腺が大分弱っているらしい。


(ボクが泣いちゃダメだ)


 平静になるどころか、これじゃ逆効果だ。

 温かな湯は鬱積した緊張感を溶かしてくれたが、頭の隅に押しやってた不安も一緒に溶け出してしまった気がする。今ルベルは、他のみんなは、どこでどうやってどんな想いで時間を過ごしているのだろう。


(逢いに、来たんだよ?)


 観光でも極秘任務でもなく、貴方に逢いに。ほんの十年しか生きてない小さな器に、あふれるほどの想いを詰めこんで、もしかしたら旅の途上に壊れて、全部消えちゃうかもしれないのに。

 手を伸ばせば届く位置。だから絶対、逃がしちゃいけない。

 あの子が追いつくまで、絶対に見失っちゃいけない。


(だから、逢いたいって思ってよ)


 湯船から上がって、備え付けのタオルで身体を包む。濡れた水色の髪が、ドレスを着せてもらったティスティル王宮のパーティを思い出させた。

 長い長い旅をしてきたわけじゃない。

 でも、ここへ来るまでに分けてもらったたくさんの、願いと祈り。


 ――逢わせてあげて。

 最後の食事の時に、震える声で女中たちが囁いた言葉を忘れられない。

 方法なんか知らないけれど、世界が人のために在るものなら、誰でもいいから叶えてあげて。

 ……そう、種族王とか精霊王とか姿も知らない大きな何かに、彼女たちは祈ってくれたのだ。


 だから。

 逢わなきゃよかった、……なんて結末は、絶対に嫌だ。

 逢いたいって思って欲しい。

 逢えてよかったって、逢いたかったって、……そうじゃなきゃ嫌だ。

 だってそうじゃないと、ルベルがあんまりに可哀想だ。本気の想いを受け止めてもらえず、あの子が泣いてしまうことになったら、もうどうしていいか解んない。


(逢いたくないの?)


 父親なのに。想像してたより性格は悪いけど……見ず知らずの自分にさえこんなに親切で。ルベルにはそれ以上だったろうって解るのに。どうして、忘れちゃうなんて思えるんだろう。

 それが解れば、どうすればいいかも解るんだろうか。


「あぁもうっ」


 絡みつく不安を払拭するように、タオルでガシガシ髪を拭き、部屋着を纏って風呂場を出た。どことなく怒った表情で戻ってきたアルエスに、氷月は不思議そうに首を傾げたが、何も聞かず立ち上がる。


「入ってくるね」


 テーブルの上にはナッツと水差しと広報誌。紙面に書いてある地名も人名もさっぱりだったが、幾らか暇つぶしになるし余計なことを考えずにすむ。

 そうやってぼんやりしていたら、しばらくして氷月が戻ってきた。

 風呂上りのせいか、髪を束ねずそのまま流している。ほとんど癖のない藍白の髪は、そうしてみると本当に長い。

 自分も人のことは言えないが、絶対日々の生活で邪魔になりそうだ。


「ただいま。服は洗っておいたから、明日までには乾くだろうよ。もう寝るかい?」


 着ていた物全部、洗ってくれたんだろうか。申し訳なさと気恥ずかしさが迫り上がったが、さっき言われたことを思い出して素直に感謝することにする。


「スミマセン、ありがとうですっ。……寝るって」

「もちろん」


 恐る恐る尋ねたのに、氷月は屈託ない笑顔で即答だ。


「一緒にね」


 押しやった羞恥心が一気に戻ってきて、顔が熱くなる。アルエスは半笑いでふるふると首を振った。


「いえ、……ここでいいです」

「魔力も体力もちゃんと寝ないと回復しないだろう。さ、来たまえよ」


 悪戯っ子のような笑顔を貼りつけた氷月に有無もなく腕を掴まれ、そのまま奥へと連行される。

 狭いベッドを前に硬直していたら、彼が隣で大袈裟に溜め息をついた。


「面倒だなぁ。だって女の子を床に寝せるわけにはいかないし、でも僕だって床では寝たくない。君を襲わないし虐めないって約束するから、ね」


 どうやら自分は彼にとって異性ではなく子どもで、彼の言葉に偽りがないのも解ってはいるのだが、それでもやっぱりためらってしまう。

 無意識に後退りしたら、いきなり腕を回され身体が浮いた。


「ひゃっ」

「面倒だから強制執行」


 愉しそうにくすくす笑う氷月の顔が近すぎて、ますます身体が熱くなる。

 だからって暴れるのも滑稽に思えて、結局そのまま済し崩しにベッドへ連れ込まれてしまった。

 やっぱり怖くなって抜け出そうと身体を捩ってみるが、さり気なく阻止されてしまう。


「ちょ、くっつき過ぎッ」

「煩いなぁ。何もしないんだから、暴れないでくれるかい?」


 長い腕が全身を抱き込み、指の先がゆっくり髪を撫でた。衣服を通して感じる体温と、自分のものではない体臭。

 緊張と恥ずかしさで拍動が上がって、どうしていいか解らない。


「やっぱ、ダメ、……眠るドコロじゃないもんッ」


 無理やり吐き出した声はかすれて震えていて、彼が隣で笑うように息を漏らしたのが解った。


「大丈夫だよ。人間フェルヴァーの体温は鱗族シェルクよりずっと高いから、安心するんだってさ」


 それは知っている。鱗族シェルクはあたたかいものが好きだ。だからアルエスも小さな頃、父親に抱きしめてもらうのが大好きだった。――でも。


「それに、この方が何かあった時に君を守りやすいしね」


 囁き声で言い含められた。そこを突かれると嫌とは言えない。

 アルエスはゆっくり呼吸をしながら、硬くなった全身から力を抜こうと意識した。緊張に、申し訳なさが入り混じる。


「……ゴメンなさい」


 誰かを守りながら、というのは簡単じゃない。

 彼が諍いを避けて岩の合間に住んでるのだとしたら、ここまで付き合ってくれてるのは自分への親切心からなのだろう。

 なんとなく謝らずにいられなくて、口に出したら、氷月は息だけで笑った。


「別に。こうしてると、思い出すし」


 どくりと心臓が拍を打つ。加速する心音が背中越しに聞こえてしまいそうで、意味もないのに呼吸を押し殺してしまう。


「僕にはね、この世界でふたりだけ、すごくすごく大切な存在があるんだ」


 鼓膜を震わす低い声。

 唄うように語られる言葉は、隣にありながらどこか遠い。


「ひとりは母親の違う弟。もうひとりは僕自身の娘。どちらも遠い場所にいるけど、僕はふたりのためになら、世界中を敵にしたって構わないし、ふたりを傷つける相手には容赦しない。大好きなんだ」


 弟が誰かは知らないけど、娘というのはルベルのことだろう。

 彼がなぜそれを自分に語るのか解らないが、聞き逃したくなくって、アルエスは声が震えぬよう息を詰めて聞き返した。


「そんな大好きなら、逢いに行ったらいいのに」

「行けないよ。僕は罪人だからね」

「ヒヅキさんは、何をしたんですか?」


 緩く抱かれた身体が熱っぽくて、意識がだるい。

 低く優しい声が、子守唄のようだ。


「世界を終わらせようとしたんだ」


 自己紹介と同じ軽さで返された、答え。

 なんだそれ。スケールが大きすぎて、意味が解らない。


「でもまだ終わってないですよね」

「うん、失敗したんだ」


 世界の終わりってロッシェの口癖だろ、と言ったゼオの声。違うといきり立った、少女の瞳。五年前に起きたという世界危機の話。

 いろんな記憶が頭をぐるぐる巡ってく。侵食する眠気に抗えず、答えた言葉が声になったか解らなかった。



 ――嘘ばっかり。

 世界なんて、人間フェルヴァーひとりの力で壊せるわけ、ないじゃない。







 to next.

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