〈幕間〉 夜空の星か、手のひらの中の宝石か

【セロアというキャラを作成・提供してくれた友人からの、寄稿の短編になります。私が書いたものではありませんが、宜しければお楽しみくださいませ。】



***



 

 指先にまで染みこむような夜闇の静寂が満ちる、夜更け。


 それほど広くはない船室で耳を打つのは、波に揺さぶられる船がどこかしら軋む音だけだ。

 しん、と寝静まる世界に気を遣った小さな灯りが、今、セロアの手元を頼りなく照らし出している。

 そこに開かれている分厚いノートは、彼がルベルとのこの旅に出る時、使い始めたものだった。すでに三分の二以上のページが、書き付けの群で埋まっている。旅の間、見聞きしたり何か感じたりしたことを雑多に記してきた。


 その旅ももう、終わりに近づいている。


 まだ漕ぎ出したばかりの航海で、どこまで順調に進んでくれるか分からないが、バイファル島に着いてさえしまえば、後はルベル自身が願いを叶えるために動くだけだ。

 そこまでの道のりに自分の手助けは必要だったかもしれないが、最後の瞬間には、他人である自分に出来ることなど、恐らくないだろう。

 見るともなしにノートを眺めていたセロアは、ペンを持つ手を口元に寄せて、ふと、息を吐いた。


 己の見聞を広げようと、旅をはじめておよそ十年。

 これまで星の数ほどの出会いと別れを繰り返し、互いの人生におけるほんの一時の交錯を心に残してきた。だが、こんな大所帯で旅をしたのは初めてかもしれない。

 良い出会いもあれば最悪の遭遇もあり、思い出すのさえつらい出会いもあった。

 そして、やがては訪れる別れの後、彼らの人生にまだ関わっていたかったと思ったことも多々あったが――、


「皆と別れるのは……惜しいですね」


 思わず言葉をこぼしてしまったことにも気づかないまま、セロアは、思いを巡らせながらゆっくりと目を閉じた。


 今回ほど仲間たちと別れがたく感じているのもまた、初めてのことかもしれない。

 何とも個性的で、興味深い顔ぶれが集まっている。


 誰もがおのおの魅力的で、この先の生き様を見ていたいと思わせる。

 関わっていたいと、思わせる。

 長く、それでいて短い人生という道のりの中で、さらに短い一時の共有。そんな関係のままで終わらせたくないという気持ちが、ひたひたと心のうちに満ちている。

 しかしそれでもこの旅が終われば、自分は新たな旅に出るのだろう。そしてそれぞれが、それぞれの人生の道のりに戻っていくのだ。

 共に創った消えない絆と、未来での邂逅を信じて。


 今までのように。


 それは人生という旅路での、少し切ない決まり事だ。


 思わず、ため息がもれた。


「……セロアさん、どこか具合でも悪いですか?」

「え? あ、ルベルちゃん?」


 セロアの背後、二つ並んだベッドの方から気遣うような少女の声が聞こえて、セロアは驚いて目を開けた。

 振り返れば、ほとんど灯りが届かず暗がりになっているベッドの上、確かに小さな姿が身を起こしている。

 セロアはかすかに苦笑した。


「すみません。起こしてしまいましたか」


 問えば、ルベルは首を横に振った。


「いいえっ。セロアさんのせいじゃありません。のどが乾いたんです」


 言いながらルベルはベッドをすべり降りて、とことことセロアの傍に歩いてきた。

 セロアは灯りのある卓上に据えてあった水差しから、コップに水を注ぐ。それを手渡すと、ルベルはコップを両手で包み持ちながら、じっとセロアの顔を覗き込んで、


「セロアさん、本当に大丈夫ですか? もしかして、フリックくんみたいに船酔いしちゃったですか?」


 心配げに眉根を寄せて、小首を傾げた。

 そのあどけない仕草に、セロアは思わず微笑する。


「いいえ、大丈夫ですよ。昔から、乗り物には強い方なので。さすがに、草原を全力疾走する馬車に数十分揺られ続けた時には、気持ち悪くなりましたけど」

「ええっ? それって、どうしてそんなコトになっちゃったんですか?」


「はは、話すと長くなってしまいますから、またそのうちに機会があればお話しますよ。それより、今は寝ましょう。寝不足は乗り物酔いの元です」

「はい。でも、少しくらいならお話ししたってヘーキです! そういえば、セロアさんは何してたですか?」


 言いながら、ルベルは、卓上に開かれたまま置かれているノートを覗き込んだ。


「日記ですか?」

「ああ、いえ。そんな大層なものではないんですが。日々、残しておきたいと思ったことを、つれづれに、ね。書き留めてたんですよ」

「それじゃあ、今日のはまだ途中なんですか?」


 そんなことはないですよ、と答えながらセロアは、ルベルが見つめている場所に気づいて、納得した。


「ああ、そこは……今、考えていたところです」


 ノートの見開きの左側、上半分につらつら書きつけたところで、ペンが止まっていた。

 その下にわざわざスペースを区切ったところがあるのに、空白のままだったからだろう。


 不思議そうに首をひねるルベルの頭に手を乗せて、セロアはこぼすようにささやいた。


「毎日、どんな些細なことでも構わないので、何か驚いたり、発見だと思えたことを書き留めるようにしているんですよ」


 いつもならすらすらと出てくるのに、今日はなかなか思いつかなかった。

 好奇心の塊――という自覚は充分にある――の自分にしては、珍しい。何もない一日ではなかったと思うのだが。


 今までだって、本当に些細なことを書きつづってきた。


 空の青さがいつもと違って見えたことや、前回の船旅より潮の香りが強いと感じたこと。

 船の造りの工夫に感心した箇所については、昨日書いてしまった。

 それ以外にも、フリックが奇跡的に一日を安泰で過ごせた原因と結果の推論とか、リンドが女性だということを再確認したことで変化するだろう自分自身の認識の相違点とか、海上のせいでゼオの覇気のなさがどれほどの心身的ダメージに繋がっているのかの精霊的考察とか。


 逆にアルエスの生き生きとした活動力が、彼女自身の統率力に対してどの程度影響を及ぼしているかの数値化比較、とか。

 ふと見て、感じて、思ったこと。考えたこと。

 もっと、当たり前のように思えることでも構わない。


 ところがなぜか今日は、それがどうしても思いつかなかった。毎日、苦もなくひとつは書いてきたことだから、何もないというのは少し居心地が悪い。


 そうしてあれこれ考えているうちに、思考が脇道へ逸れてしまった――というようなことをセロアが話すと、ルベルは、真剣な眼差しでじっと話に聞き入っていた。

 そして、セロアが話し終えた後も、眉根を寄せて動く気配もない。

 そのあまりの真剣さに、セロアは笑みをこぼす。


「あの、ルベルちゃんがそんなに悩まなくてもいいんですよ。別に書かなくても問題はないことです。それより、そろそろ寝ましょうか。明日もきっと晴れますよ――」

「――今日のセロアさんは、考え事してるコトが多かったです!」

「……はい?」


 唐突に目を輝かせてルベルは、セロアの、椅子から立ち上がりかけた袖を掴んだ。


「だから、周りのコトにあんまり気づかなかったんです! 今日は昨日よりちょっと風があったかくて、白い鳥さんがたくさん飛んでいって、その時に羽を落としてくれました」


 一息に言ってから、ルベルはぱっと手を離し、ベッドサイドにあった小さな机に向かった。

 引き出しのひとつから大事そうに白い羽を取りだして戻ってくると、セロアに差し出す。


「なんて鳥さんなのか聞こうと思ったんだけど、聞きそびれちゃったんです。それから、今日はフリックくんとゼオくんが、おいしいウサギの食べ方について話してました」

「それはまた、自虐的な……」


 苦笑するセロアを、キラキラした目で見上げていたルベルは、さらに何かとっておきを思いついたというように、ぱちんと両手のひらを合わせた。


「そだっ! セロアさん、周りのコトとか、みんなのコトは見れても、自分のコトって分かんないですよね? だから今日からは、ルベルがセロアさんのコトで気づいたコト、報告しますっ。そうすればこれからはゼッタイ書くことに困らないし、今日も大丈夫です!」


 言ってルベルは満面の笑みの中にもきりりと眉を上げ、意気込み充分にセロアを見つめた。

 その、まだ愛らしい眼差しの映し出す意志の強さと真剣さ。

 この旅の間、幾度となく見てきた『彼女らしさ』。


 ――本当にこの娘は、自分の予想の外を動きながら、なんて予想を裏切らないことを言ってくれるのだろうか――


 セロアは、申し出にも眼差しにも不意をつかれて、声もなくルベルを見つめ返していた。

 突然の沈黙に、ルベルがちょっと困ったように首を傾げる。


「あの、ルベル、何かへんなコト言っちゃったですか?」

「……あ、ええ、いえ。おかしなことは何もありませんよ。ただ、少し驚いてしまって。これから私のことを気をつけてくれるというのは分かりますが、今日の私の事も、覚えてくれているのですか?」


 もちろんですっ、とルベルは大きく首を縦に振った。


「ずっとずっと、セロアさんがどんなだったか、分かってるですよ。セロアさんは、ルベルの『運命のヒト』ですもん」


 にっこり笑ったルベルの髪が――いつもツインテールに結ばれているその髪は、今は解かれて肩に背に流れている――さらりと揺れた。


「セロアさんはたくさん考えごとするとき、目をつむります。今日は朝ごはんのときも、お昼ごはんのときも、ときどき目をつむってました。あごのトコロにこうやって左手をつけるのも、セロアさんのクセです」


 言いながらルベルは、実際に真似をして見せた。

 そんな癖はあっただろうか、と思わず考え込んだセロアの左手が確かに動いて、小さな笑い声が二人分、静かな船室を満たす。


「それに、夜、甲板で星空を見上げてたセロアさんは、ルベルがそばに行っても考えごとをしてて振り向いてくれなかったけど、頭は撫でてくれました」


 はて、そんなことがあっただろうか? ――そう思う辺りで、完全に無意識だったのかもしれない。

 学生時代から親友に、しょっちゅうそれをやって怒られていた記憶がある。


「それから、セロアさんの目はいつでも優しいです。怒った時でも、優しいです。怖くても、フシギに優しいです」


 ルベルのまっすぐな眼差しに、セロアは、不意に胸があたたかくなった。

 自分をそれほどにも見ていてくれた幼い少女が愛らしくて、その頭をそっと撫でる。


「ありがとうございます、ルベルちゃん。そんなに教えてもらえれば、充分ですよ。自分のことを書くのは少し気恥ずかしい気もしますが、ちゃんと書いておきます」


 良かったです、と少女は笑った。その笑顔が少し――ほんの少しだけ切なげで、はっとするような大人びた表情に見えたのは、一瞬のことだった。


「じゃあルベル、セロアさんが書き終わるまで待ってます」

「では、ちゃんとベッドに入って、体を暖かくして待っていてください。……もしかしたら、少し長くなるかもしれませんから」


 ルベルはじっとセロアを見上げて、それから、こくりと頷いた。

 ベッドに戻るルベルに付き添って、横になった彼女のベッドを整えてから、もう一度頭を撫でる。


「眠くなったら、寝てくださいね。おやすみなさい、ルベルちゃん」

「はい、お休みなさい」


 そう言いながら、ルベルの目はしっかりと開いていて、果たして先に眠っていてくれるかどうか。

 彼女のためにも、今日は早めに日記を切り上げてしまわなければならないだろう。

 日記の、あの空きスペースをすべて使っても書ききれないほどのことに、出会ってしまったけれども。


 セロアはゆっくりと灯りの下に戻って、ノートに目を落とした。

 そして、おもむろに目を閉じる。


 彼女の人生との交錯も、あと、果たしてどこまで続くものか。


 夜空に輝く星のように未知数の輝きを秘めたこの少女。

 不意の申し出は、困っている大人の役に立ちたいと思った彼女の、子供らしい純粋な願望の表れか。

 それとも、『運命のヒト』という大人びた言葉の裏側にある、やはり大人びた何らかの感情のかけらがさせたことなのか。

 どちらにしろ、彼女の保護者として、彼女の成長過程は微笑ましくて驚きにあふれていて、目が離せない。


 そんな彼女の未来に、私はどこまで関わって、その先を見届けられるのだろうか。


 分からない。解りたい。いっそ、引き寄せてしまおうか。


 いや、彼女の未来は彼女が決めるものだから、きっと自分がどう動こうと必要があれば残るし、なければ離れるのだろう。

 今までのたくさんの出会いと、同じように。


「夜空の星か、手のひらの中の宝石か……」


 手が届かないものなのか、それとも間近に置いておけるものなのか。


 どちらにしろ彼女の輝きはきっと、薄れることはない。強い想いに裏打ちされた、その輝きは。

 そして、そんな彼女が一度選んでしまえば、周囲は否応なしに巻き込まれていくのだろう。

 きっと、諸手を挙げて降参するしかないのだ。


 これから出会う、彼女の父親も、きっと。

 きっと、未来の、自分も。


「……セロアさん、星とか宝石とか、ソレって何ですか?」


 ベッドから小さな声がセロアの耳に届いて、セロアは慌てて目を開いた。

 考え事を始めると長いのは、悪い癖というか、仕方ないというか。


「いえ、すみません。また、考え事をしてしまいました」

 ペンを取って書きつけながら、セロアは、ふと口元に笑みを浮かべた。


 みんながみんな、諸手を挙げて降参する、輝かしい彼女の人生。

 それに巻き込まれるのがどんな形でも。


 ――きっと、悪くない。


 口元に浮かんだ笑みがその色を濃くして顔中に広がったことに、セロア自身は気づいたのかどうか。


 そんな彼の胸のうちをそっと包み込んで、夜はただ、深々と更けていく。








 To be continue...?

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