ひみつ

田中ビリー

ひみつ

 軽い頭痛でほとんど無理矢理に起こされた、起こされたと言ってもベッドのなかではなくてテーブルのうえに広げた書類の束に頭を突っ込んでいて、「重要!」と赤字で書いた付箋をくっつけた報告書の隅にこぼしたらしいコーヒーは乾いてしまっていた。


 窓の向こうは太陽が朝を持ち上げようと躍起になっているみたいで、カーテン越しの白い直線のなかに小さな埃がゆらゆら漂っているのが見えた。

 セミの声は聞こえない。ほんの少し前までは騒々しく思ったのに、聞こえないとなると今年もまた夏が終わってゆくことを寂しく思う。

 浅はかすぎる感傷だけれど。


 夏休みはきっと始まる直前くらいがいちばん楽しい。キャンプの予定や花火大会、誘い合う約束をしたプールの予定。気づけばそれは思い出になる。それから思い出は遠く置き去られて思い出すことも少なくなる。


 思い出すのは今日みたいな朝だけ。疲れて少し調子も悪くて、なのに、やらなきゃいけないことを溜めてしまった気分の悪い日。


 つけたままのパソコンは開いた憶えのないページがどこかの海に繋がっていた、リアルタイムの映像なのか、定点カメラはひたすら波だけを映し続けていて、そのフレームのなかに水着のふたりが見えた、ふたりは遠くへと走ってゆく。ひと気の減った海水浴場はまだ残る夏の熱と冷たくなり始めた秋の風が波のように交互に寄せて返していた。


 いつから海に行ってないんだっけ……。


「忘れちゃった?」

 モニターから聞こえたような気がした、でも、そこには誰もいない。姉妹なのか友達なのか、遊び疲れた揃いのワンピースの女の子たちは砂のうえで私に背を向けている。秘密を打ち明け合っているみたいにぴたりと寄り添い、耳たぶを手で覆いながら何かを話している。


「来年の約束のことも憶えてない?」

 あのころ、私は、私たちはたくさんの約束をした。明日も明後日も、来年も再来年も、未来はずっといまのまま続くものだと思っていた。


 とても叶えられないようなことからすぐにでも果たせるようなことまで、なんだってひとつひとつを約束した。特別なことばかりだった、私たちは私たちにしか分かち合うことのできない秘密の約束をたくさん持っていた。

 思い出そうとすることもなかった、指折り数えた手のなかにそれはいつも確かにあった。


「約束をしよう」

「うん、秘密の」

「それはきっと……」

「私たちだけの」


 幼いふたりはそこに映ってはいない。ほんの少しだけ早く次の季節へと走ったんだろう。追うことなんてできないとわかっていながら、私はその背中を画面のどこかに探し続けた。


 秘密でよかったんだ。


 私たちはいつも好都合に勘違いして、好都合に奇跡を思って、好都合に夢を見る。そんな自分とは無関係だった子供のころを美化ばかりする。


「バイバイ」


 そう言って電源をオフにする。波音も風も消え、どこかへ繋がっていたパソコンがただの四角い箱に戻る。少し残る頭痛が私を現実へと引き戻す。

 もう、「またね」とは言わなかった。


 ふと握りしめた砂の感触を思い出した、指の隙間から零れて流れた、一粒一粒に砂金がキラキラしていたことはずっと秘密のままでいいんだとなぜか思った。

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ひみつ 田中ビリー @birdmanbilly

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