世界の明日を、君と。

安崎旅人

第1話 その日、君はぼくに銃を向けて。

 ヨハン・ケッセルは凍えるような寒さの中ひとり街路を歩いていた。昼間だというのに人影はなく、ただ無言の廃墟が延々と延びているだけだった。建物の大半は三階程度までしかなかったが、それが前の大戦の爆撃によるものか、それとももとから三階までしかなかったのか、ヨハンにはわかりかねた。空は曇りがちで、雪でも降りそうな気配だった。

 戦車の残骸をまたぎ、大きな倉庫の廃墟を抜けて裏通りに出た時、彼は血の跡が道路に点々とついているのに気付いた。振り返ってみるとそれは道路の真ん中で唐突に始まり、だんだんと大きくなっていきながら小さな事務所に続いていた。ひびの入ったガラス戸をそっとくぐって事務所へ入ってみてから、彼はしまったと思った。盗賊のねぐらかもしれないではないか。彼は恐る恐る事務所の中を見渡した。ところが、ソファの上に軍服を着た男を発見した時、彼の不安は恐怖に変わった。内務人民保安部 の黒い制服だったからである。彼は慌てて振り向いて扉から外へ出ようとした。ところが、床に散らばった瓦礫に足をすくわれて無様に転んでしまった。耳を聾するような音がして、戸棚が中身ごと彼の上に倒れてきた。

 三十秒後、彼はやっとのことで戸棚の下から這いずり出た。軍服の男は倒れたままだった。完全に死んでいる。その時、ヨハンの頭に驚くべき考えが浮かんだ。彼はそっと男の死体に近づくと、死んでいることをもう一度確認してから拳銃をホルスターごと取り外し、コートの下に隠した。財布も失敬した。男の胸ポケットをまさぐっていると、中央局 発行の国庫引き出し命令書と通行許可証があった。驚くべきことに両者とも無記名、写真なしだった。この男は何か非常に重要な任務を負っていたに違いないとヨハンは思った。

 死人の所持品をあらかた頂戴すると、ヨハンはそっとその事務所を離れた。あの男はなぜ死んだのだろう、とふと思った。派閥対立か、外国のスパイの仕業か。あるいは自殺かもしれない。彼は大通りに戻ると、遠回りして自宅へ帰った。

 彼の家は中流の人々が住むアパートの五階にあった。彼は部屋に入ると窓から外を見やった。雪が降り始めていた。雪空の向こうに、ロンドン中心部の超高層ビル群がくすんで見えた。中でもひときわ高いビルが、ユーロニードルと呼ばれる政府庁舎だった。優に千メートルを超える高さを誇るそのビルをぼんやり眺めながら、さっきの男はあの建物のどこかで働いていたのだろうと彼は想像した。

 その日以降その週は何も特別なことが起こらなかった。彼の勤める工場には海軍の新造潜水母艦の仕様が決まったので大きな部品がいくつも発注されてきた。海軍は兵器の詳細を秘密にするためにいくつもの工場に無作為に部品を分配するのだが、今回の部品はどれも非常に大きかったのでこの新造潜水母艦はおそらく既存のどの母艦より大きなものとなるだろうとヨハンは思った。彼のオフィスからは工場内の様子が手に取るように見えた。数か月前に(おそらくこの新造空母のために)国防省から指示を受けて取り付けた大型クレーンが巨大なパイプを運んでいる。黄色いヘルメットをかぶった作業員たちがその周りを取り囲んでいた。

 準市街区に指定された区画にあるこの工場は海軍の軍艦をはじめとする比較的機密指定の高い部品の製造を請け負っている。したがって、事務所なども憲兵の警備下にあった。ヨハンのオフィスも警備区画の中ほどにあり、建物の外から入るにはセキュリティ・チェックを受ける必要があった。だから、自分の後ろに人の気配を感じたとき彼は恐怖よりも驚きを感じた。ヨハンははじめ内務人民保安部が彼の盗みを感知して武装警官をよこしたのかと思った。彼はすばやく考えを巡らせると、ゆっくり振り向いた。正式な逮捕の場合警告なしに発砲はしないだろうし、暗殺に来たならすでに殺されているはずだと思ったのだ。

 振り向いて「敵」と向き合ったヨハンは、先ほどよりも大きな驚きに襲われた。小型の拳銃を構えて彼を見据えていたのはまだ二十歳にもならない少女だったのだ。

「ヨハン・ケッセル、両手をあげなさい」

 ヨハンは彼女の声が震えているのを感じて、驚くというよりむしろあきれてしまった。俺を殺すのにこんな小娘をよこすとはいったいどこのどいつだ?彼は手の震えで照準の定まらない彼女の拳銃をひったくると、それをポケットにしまった。

「手は上げなくていいから名を名乗れ」

 そういいながらヨハンはデスクに腰掛け、じっくりと彼女を観察した。工場の事務員を装ったのだろう、薄茶のスカートに白いブラウスを着ている。うちの制服によく似ているが、大方素人が記憶を頼りに誂えたものだろう、ところどころに些細な違いがあった。整った顔立ちを縁どる長い黒髪が数束彼女の顔にかかっていたが、銃を取られて呆然とした表情が、ひどく頼りなげにのぞいて見えた。

「あたしはリーナ・フェイエール、ジョナサンの妹よ」

「悪いが君も君の兄貴も知らんな」

「うそよ!あなたが兄さんを殺したのよ!」

「待てよ、君の兄貴は内務人民保安部の武官か?」

「ええ、そうだったわ。でも、この国を変えようとしていた。あたしたちみんなが幸せになれる国に。それなのに、あなたが兄さんを殺したのよ!」

 ヨハンは考え込んだ。あれから一週間になる。この少女はいつ兄の死を知ったのだろう。今までの話からするとどうやらジョナサン・フェイエールは同じ内務人民保安部か、それに類する機関によって殺害されたのだろう。遺体が回収されなかったのは偶然ではあるまい。おそらくジョナサンの「敵」も今頃死んでいるはずだ。

「君たちは『党の敵』なのか?」

 ヨハンはおもむろに尋ねた。彼女は重々しくうなずくと、じっとヨハンのほうを見た。

「あなたは?共産主義者には見えないけど」

 ヨハンは苦笑した。

「私は人民工科大学で学んだし、海軍工廠で働いている。子供のころは少年共産団の会計をやっていたよ」

「でも青年共産団には入らなかったのね?」

 何気なく投げかけられたその言葉に、ヨハンは即答できなかった。忌まわしい記憶が胸の底からせりあがってくるのを感じながら、彼は当惑した目で彼女を見つめるだけだった…

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