君が何であっても
俺たちは無言だ。菊川雪乃だけが喋り続ける。
「決まりがあってね、私たちはこの星の生き物と関わってはいけないことになっているの。研究などの目的があれば別だけど。でも許可をとるのは相当厳しいわ。そして私はあなたを研究材料にしたいわけじゃないし……」
研究材料、という言葉から、手術台に縛り付けられている梶本を想像してしまった。室内はやたら綺麗で、ぴかぴか光ってて、先端にドリルなんかが付けられた機械の腕が、ウィーンという音とともに降りてくる。……梶本、大ピンチなんじゃないか!?
「――私はあなたの伴侶になりたいわけだから、あなたにひどいことはしないわ。そうじゃなくて、ずっと二人で幸せになりたいだけなの。私はあなたが好きで――部室で、あなたが書く小説を読んでいたわ。私はこの星の文字は読めないけど、あなたの心に入り込んで、あなたが書くものを「見る」ことはできる。今こうして、あなたたちの心に直接話しかけてるみたいにね。
あなたが愛情持って描いていたヒロインのような、そういう女性になりたかったの。だから頑張って、分身を作ってみた。ね、上手くいったと思わない?」
菊川雪乃は立ち上がった。生暖かい風が吹いて、彼女の髪とワンピースを揺らした。ふと、辺りがずいぶん暗くなっていることに気付いた。なんだかひどい夕立が来る前のようだ。
「植物になって養生していたから、分身を作れるくらいまで回復した。そうしているうちに、私たちの船も直ったの。だから私は帰らなければならない。でもあなたを残して去るつもりはない。さあ、一緒に行きましょう」
風に吹かれながら、菊川雪乃が手を伸ばす。俺たちは今までずっと黙っていたが、ようやく、声が聞こえた。低い、白石の声だった。
「……何を言ってるの。いまいち何がなんだかよくわからないけど、梶本を勝手に連れていかないで。まず、彼の意志を尊重して」
「もちろんよ。ねえ、梶本くん、あなたは私と一緒に来るでしょう?」
梶本は黙っている。辺りはさらに暗くなっていった。夕立、レベルの暗さじゃない。時間が早回って、もうすぐにでも夜が来るかのようだ。そして俺はもう一つ、変なことに気付いた。やたら静かなのだ。帰宅する生徒やら部活に向かう生徒やら、この時間はなんだかんだと賑やかなはず。それなのに声一つ聞こえない。人っ子一人見えない。
薄暗さの中、急に不安が込み上げてきて、俺は助けを求めるように、白石と梶本の顔を見た。白石は怒っている。梶本は――固い表情のままだ。辛そうに、魅入られたように、菊川雪乃を見ている。
「――時間がない。もう仲間が来るわ。さあ、梶本くん、早く。私と一緒に行きましょう」
菊川雪乃がさらに促す。梶本の身体が動いた――と思ったとき、俺は空にとんでもないものを見た。
薄暗い空を、昼でもなければ夜でもない、そんな奇妙な薄暗さの中を、何かが移動している。ものすごく大きな何かだ。ラグビーボールを、うんとうんと巨大にしたようなものだ。楕円形で、灰色のそれは、あちこちに光を放っている。表面に窓のような丸いものが並んで、そこから光が漏れている。それがこちらに近づきつつあるのだ。ゆっくりと。
音も聞こえてきた。今まで静かだったのに、ごおごおと耳の奥を揺さぶるような音がする。巨大なラグビーボールは今、校舎の上空にある。校舎を圧倒せんばかりだ。菊川雪乃の表情に焦りが見えた。
「早く。仲間たちはあなたを連れていくことに反対しているの。でも私があなたを取り込んでしまえば、強引に母星に運ぶことだって可能かも。さあ、私の手を取って!」
最後の方は、大きな声で、命令に近かった。しかしそう言い終えた途端、驚くべきことが起きた。謎の巨大ラグビーボールから、光線が放たれ、彼女の身体を直撃したのだ。そして――見ると、彼女は、菊川雪乃は、そこにはいなかった。彼女が今までいた場所には、どろどろとした青緑の、ゼリーのようなものが広がっていた。そしてゼリーは震え、その一部を起こした。
「――もう上手く形を保ってはいられない。さあ、早く……早く、私の元に……」
その言葉は青緑のゼリーから聞こえてくるのだった。そしてぞっとすることに、菊川雪乃の声なのだった。青緑のゼリー、大きなアメーバのようなそれは揺らめき、梶本を誘っていた。
梶本がふらふらと身体を動かした。「梶本!」隣にいた俺は、咄嗟に叫んで、彼の腕を捕まえた。
「待て! 行くなよ! あれは菊川雪乃じゃない! あれはどう見ても、お前が好きな小柄で清楚な黒髪ロングじゃない!」
「雪乃さんだよ!」
梶本が乱暴に俺の腕を振り払った。そして怒りに満ちた声で言う。
「雪乃さんだ! 姿がどうであっても雪乃さんだよ! 俺にはわかる!」
梶本は怒っていた。普段温厚な奴が、珍しく、ひどく怒っていた。俺はショックだった。梶本からこんな乱暴な仕打ちを受けたことが今まであったろうか。いや、ない。
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