第25話 黒い影

「どうしたんですか」

 どこか怯えている私を、細井さんはすぐに察してくれた。

「う、うん・・」

 細井さんのやさしくて温かい眼差しが、私を包み込むように抱しめてくれる。今日も私は細井さんとお店へ同伴していた。

「前に言っていたストーカーですか」

「・・・」

 私は黙ったまま小さく頷いた。

「僕が守ってあげます」

「はい・・」

 私はその言葉だけで、心が温かく安らいだ。

 まだ日のある夕方。少し裏路地に入ると、繁華街とはいえ辺りに人気はなかった。お店までのこの短い時間が永遠に続けばいいと私は思った―――。

その時、突然黒い人影が私たちに向かって突進してきた。

「えっ?」

 見ると、それは桐嶋だった。

「あっ、桐嶋」

 しかし、桐島はどこかおかしい。桐嶋の目は完全にロンパっていた。

「なんで先生が」

 私は驚いて声も出ない。 

「誰だ。その男は」

 口角に泡のような涎をためながら桐島は叫んだ。その姿は完全に狂った人間のそれだった。

「前も別の男と」

「別の男って・・?」

「この前、角で話していた男だよ」

「知りませんよ」

 多分、元少年のことを言っているのだろう。

「お前は俺の女だ」

「何言ってんですか」

「俺がお前にいくら使ったと思ってんだ」

 桐島の目は完全にイッてしまっていた。瞳孔が開き、白目には稲妻のごとく毛細血管が無数に走っていた。いつも身だしなみだけは良かったのに、それも、髪型から服まで惨憺たる状態だった。

「知りませんよ」

「お前、俺を捨てる気か」

 桐島は極度に興奮していた。しゃべる度に大粒の口角泡がびゅんびゅん飛んでくる。

「何言ってんですか。捨てるも何も、拾ってないじゃないですか端から」

「よく言えるなそんなこと」

「言えますよ」

「お前は俺の人生を無茶苦茶にしたんだぞ」

「自分で勝手に壊れたんでしょ」

「お前のお陰で、俺は高校をクビになった」

「自分の責任でしょ。私は関係ない」

「お前は俺のものだ」

「はあ?」

 完全に支離滅裂だった。

「お前は俺だけのものなんだよ」

 桐島は狂ったように再び叫んだ。

 私は桐嶋の尋常じゃない剣幕に怖くなって、横にいた細井さんにしがみつこうと、身を寄せた。

「あっ」

 しかし、そこに細井さんはいなかった。

「あれ?」

 見ると、私を置いて、ものすごい勢いで逃げていく細井さんの背中が見えた。

「・・・」

 私は唖然としてその背中を見つめた。 

 その時、突然、桐嶋は右のズボンのポケットから何かを取り出した。それは小さなナイフだった。私は恐怖で声を出す事さえ出来なかった。

 桐嶋は小刻みに震え、完全に目が別の世界にイってしまっていた。私は逃げなければと思ったが、恐怖で体が言う事を聞かない。

「俺はお前を愛しているんだ」

 桐嶋の口からは涎がだらしなく流れ出ていた。

「愛しているんだよ」

 心底感情のこもった言い方だった。だが、それが更に不気味だった。

「俺と一緒に死んでくれ」

「えっ?あっ」

 有無を言わさず桐嶋が突っ込んできた。

「あっ」

 もうだめだ。私は目を瞑った。

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