サクライ

第1話


 子供頃の夏の日、公園の遊具のコンクリートの上でそれはそれは美しい蝶が、死んでいたのを見たことがあった。頭上の空よりも一際蒼い羽をたたみ、しずかに横たわっているそれに、子供ながらに飛んでいたときの方がもっと美しかったのだろうと想像した。紙のような薄さしか無いそれは余りに繊細で、触れて仕舞えば砂となって崩れていく。そんな妄想をした。


 不思議なことに死んでしまった蝶をかわいそうとは思えず、ただ何故神様はこんなに美しかったのに死なせたのかと疑問に思った。

「どうしてなの」と小さな自分は母に聞いた。母は美しく聡明で、分からないことは聞けば大体教えてくれたが、その質問に母は困ったように微笑むだけだった。

 疑問は成長していくなかで消えることはなかった。


 高校生になってから父が俺や母に暴力を振るうようになった。病気で仕事を辞めざるを得なくなり、また死期が近いことを知ると恐怖から逃れたがるように拳を振るったのだ。

母は殴られるたびに悲鳴をあげ、傷付き、憔悴していった。俺にとってもその行為はとても恐ろしいものではあったが、父親を憎むにはあまりに死に怯える顔が憐れだった。

 元々ラグビーで鍛えたという筋肉質な肉体は、その頃には見る影も無かった。痩せこけた頬も、目の下に染み付いてしまったかのように濃く残る隈も、薬の影響で抜け落ちる髪も。病気は彼を変えた。

 高2の夏に父は死んだ。結局死から逃れられず、怯えながら。

 父が居なくなってからも母はやつれていった。虚ろになっていく姿を見て俺は全力で元の姿に戻るように手を尽くした。

 見た目はやっと美しいあの頃に戻った。上向きにカールした睫毛、それらに縁取られた瞳は深い闇色。烏の濡羽を思わせる艶やかな髪。雪の肌も、細くたおやかな体つきも、凛とした声も、全てが元どおりだったのに。それなのに、彼女の心は耐えられなかった。


 だから毒を盛って最後まで見届けてあげたんだ。


 見開かれた目が俺を捉えた。信じられないといった顔をした母を忘れることはないだろう。そして彼女の目は次第に恐怖に彩られていった。父と同じような色に。それも、目の中の光が消えていくにつれて無くなり、ガラス玉のようになった。それでもなお、美しい。


 苦しみでのたうち回ったことで乱れた彼女の髪を丁寧に梳る作業を再開する。

 次は服へ。悩んだ末に彼女が大切にしていた、白のドレスを着せた。肌を滑る柔らかさを持つ絹のそれは、昔父が贈ったものだったらしい。それならきっと、母も満足だ。

 苦悶で歪んだ顔に手を添えた。無理やり筋肉を動かして、ああ良い顔だ。ガラス玉がじっと俺を見上げた。

「喜んでもらえて嬉しいよ母さん」

 唇に紅を引こうか。真っ赤な、血の色だ。白い肌に鮮やかなそれはきっと良く似合う。


 仕上がりを見て自然に唇の端がつり上がる。くすくすと笑いが漏れた。

 そうか。これほど単純な答えだったとは。

 そっと母の頬を撫でる。爪で傷つけぬように、手の甲で表面だけを撫でることを意識して。

 冷えた温度さえ、愛おしい。


 何故神様は蝶を美しいまま死なせたのか。


 それはきっと美しいまま終わらせたかったからなのだ。


 天敵や子供に捕まり殺される前に。

 脚を羽をバラバラにされる前に。


 俺が子供の頃から飛び続けた美しい蝶が、飛べなくなった今もなお、ここに美しく横たわっているように。

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サクライ @sakura_kura

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