12月のリング

千ヶ谷結城

12月のリング

 私が彼の告白を受けたのは大学4年生の冬だった。

 そこから5年間、何度も大きな喧嘩をして、何度も彼との交際を止めようと思った。

 しかし、その度に思い出すのだ、彼の優しさを。

 彼には彼なりの考えがあって私に主張しているのだと思うと、不思議と心が和んで、いつの間にか怒りが収まっていた。

 ーーしかし、今回ばかりは彼に同情する気にはなれなかった。


『クリスマス、一緒にいられなくなった』


 直接顔を合わせず電話で、1ヶ月前からの約束をキャンセルしてきたのだ。

 クリスマスに会おうと言い出したのは、もちろん彼だった。

 電話で告げられたときはショックのあまり、逆に彼を責めることができず、明るく「大丈夫」と返事をしてしまった。

 電話を切った後は、怒りと後悔が入り交じって気持ちが悪かった。

 ほぼ毎日長時間していたメッセージのやりとりが、電話があった日から激減した。

 1日に1回一言ばかりのやりとりがあればマシな方だった。


 クリスマス当日、彼との約束が無くなったことを忘れたくて、私は友達を誘ってショッピングをした。

 案の定、友達との買い物は楽しくて、彼のことなんて一切思い出さなかった。

 友達と夕食までして帰宅し一息ついたところでメッセージ受信の着信音が鳴った。

 それは彼からのものだった。


『今日は一緒にいられなくてごめん 埋め合わせしたいんだけど27日あいてる?』


 とのことだった。

 少しだけ心が軽くなった。

 私のことがどうでもよくなったのかと思い込んでいた。

 埋め合わせをしようとしてくれている彼に、ほんの少しだけ温かい気持ちになった。

 彼からの優しさを無駄になんてできるはずなくて、私はすぐに返信した。


『あいてるよ!』


 彼からキャンセルの電話があってから、明るく返事をしておいたのだから、私の落ち込んだ雰囲気は彼に伝わっていないはずだ。

 だからここで怒りを露わにして断ったら逆に不自然かなとも考えていた。

 同時に、断ったら彼との関係が終わってしまうと思われて少し寂しかった。

 彼に対して怒りを抱いているとは言え、関係を終わりにさせたい訳ではない。


『27日の2時にいつものカフェに来てほしい』


 私の返信から数分おいた後に既読がついた。

 その次の彼のメッセージで、彼がどうにか埋め合わせをしようとしてくれているのがよく伝わって来た。

 だんだんと怒りが静まって、代わりに温かい気持ちがわいてきた。

 私は彼からのメッセージに「了解!」というスタンプを送った。

 すると彼からも「よろしく」というスタンプが返ってきた。

 会うのはまだ先だが、今から会うための服選びをしようかという気になった。

 彼に会えるという幸せに、大きかった怒りが数ミリまで小さくなっていた。


 当日。

 私は急いだ訳ではなく、そこに待ち合わせ時間より30分も早く着いた。

 彼が言っていた“いつものカフェ”とは、私が大学入学当初から通っている穴場だ。

 あまり人がいないということもあって、図書館よりそこで読書や課題をする方が好きだった。

 もちろん、長く通っているせいでマスターとも顔見知りだ。

 店に入ったとき待ち合わせだと伝えると「ごゆっくり」と微笑んでくれた。

 それに微笑み返して、入口から一番遠い席に腰を下ろした。

 マスターは、私がまだ注文をしていないのにホットココアを持ってきてくれた。

 しかも、いつもより少しだけ量が多めだった。

 指摘しようとマスターの顔を見上げるとウインクをされた。

 待ち合わせだと聞いて長居になると思ったのだろう。

 ありがたく思って、銀のお盆を抱えてカウンターの奥に切れていくマスターを見送った。

 さて、待ち合わせ時間まであと20分。

 スマホのスリープ画面に自分を映して髪型などのチェックをした。

 それでもまだ時間があるようで、残りはずっとSNSを見ていた。

 そんなことをしていると、店の扉がキィィと鳴った。

 ハッと顔を上げると彼が閉まった扉の前に立っていた。

 彼は一瞬申し訳なさそうな表情をしてから、急ぎ足で私がいる席まで歩いてきた。

 そして、ゆっくりと私の前の椅子に座った。

 マスターが再び呼んでもないのに来て、そして注文していないのに彼の分のコーヒーを置いて行った。

 マスターが黙って去って行ったので、あとは私たち2人だけの空間となった。

 何の用事だろうと考えていると、彼が口を開いた。


「ずいぶん来るのが早かったんだね。もしかして待たせた?」


 抑揚のない彼の声が聞こえた。

 クリスマスを一緒に過ごせなかったことを、そんなにも引きずって申し訳なく思っているのだろうか。

 そろそろ彼が可哀想に思えてきた。

 彼は椅子に座ってからずっと俯いていた。


「ううん。私が早く来すぎちゃっただけだから、気にしないで」


 私も俯きがちに言った。

 私の返事を受けた彼は一言だけ言った。


「そっか……」


 それ以上は何もなかった。

 更に言うと、数分間互いに互いの出方を伺って、自分から話そうとしなかった。

 互いの沈黙を先に破ったのは彼だった。


「あの……。クリスマス、は、一緒に過ごせなくて、ごめん……」


 そう言う彼は、これでもかというくらいに体を小さくしていた。

 今の私は特に怒っていないのだが、彼は余計に重く責任を感じているようだった。


「それで……その……。急で悪いんだけど……」


 彼が歯切れ悪そうに続ける。

 そして、ぎこちなくカバンの中を探り始めた。

 そこから出したものは青色の箱だった。

 婚約指輪でも入っていそうな、高級感あふれる箱だった。

 彼の手中にある箱が気になって、私は無意識に顔が上がっていた。

 話の続きを求めて彼の目を見つめてみると、彼は頬を真っ赤に染めて言った。


「ぼ、僕と結婚してくださいっ……!」


 ぱかり、と箱のふたが開いた。

 そこにはキラリと光る指輪が、綿の中にすっぽりと収まっていた。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 私たちの関係に終焉が訪れたのかと錯覚してしまったくらいに驚いた。

 しかし、目の前にある指輪が私たち2人の未来を物語っていた。


「へ……? 結婚、するの……?」


 とぼけた表情で聞くと、彼は小さく肯いた。

 私は状況の整理ができず、冷め切ったココアをぐびっと飲んだ。

 それでも口の中はカラッカラに乾き切っていた。

 彼の目を見つめていても正解なんて分からなかった。

 返事をするまでに長い時間を要したが、彼は急かすことはしなかった。

 だから、落ち着いて話すことができた。


「……私で、いいの? 私と結婚して、何かいいことあるかな……?」


 私はとにかく不安で彼に問うた。

 すると、彼はまだ赤みが残る顔ではにかんだ。


「僕が幸せになる。幸せになった僕が、きみを幸せにしてみせるよ」


 プロポーズの一言目のおどおどした態度から一変し、自身があふれていた。

 そんな彼に胸が弾んだ。

 ここで肯いておけば、あとは彼に任せれば幸せで順風満帆な家庭が築ける気がしてくる。

 しかし、そんなことを考えるにはまだ早いと心の中で首を振った。

 それでも、彼との生活が楽しみになっている自分がいた。

 自身の顔がだんだん熱を帯びていくのが分かった。

 その温度と比例するように言葉が口からあふれた。


「分かった。こんな私で良ければ……!」


 彼の勇気に応えるように、精一杯笑った。

 せめて、プロポーズを受けた日がまず幸せであるように願いながら。

 私の返事を聞いた彼も、微笑んでくれた。

 その後、私の左手の薬指にリングがはめられた。

 私から彼への指輪のプレゼントは結婚式でのお楽しみとなりそうだ。

 私たちの会話がひと段落したところで、店のマスターが紅茶を2人分持ってきた。

 カチャ、カチャ、と丁寧にカップを置くと、机の隅に紙を置いて去って行った。

 注文をしていないのに金を取るのかとマスターの行動にがっかりしかけたが、紙の文字を読んだ彼が笑っているのに気がついた。


「どうしたの?」


 気になって彼に聞くと、彼は紙を裏返して書かれている文字を私に向けた。

 そこには『サービスだよ! お幸せに!』と記されていた。

 お茶目だなぁと思いながらカウンターに視線を向けると、そこにマスターはいなかった。

 なぜいなかったのかは心の奥にしまって、今は彼との幸せを噛みしめることにした。

 指輪をはめた左手を机の上に置いていると、彼が手を重ねてきた。

 心臓が大きく跳ね、拍動が速くなった。


「クリスマスプレゼント、遅くなっちゃったけど、喜んでもらえてよかった」


 クリスマスプレゼントで婚約指輪とは大層な、と思ったが、口にはせずに飲み込んだ。


「嬉しかったし……、今は、すごく幸せだよ」


 私は彼の指に自分の指を絡ませながら言った。

 彼の手は温かくて大きくて、この人が自分の夫になるということが未だに信じ難かった。


「実はさ。一緒にクリスマス過ごせなかったのは、指輪を買うお金がほんの少し足りなくて……。バイト、してたんだ……」


 私の手を握る力が少し強くなった。

 心配になって彼の顔を凝視した。

 彼は私の視線に気づいて苦笑いをした。


「今じゃ、もう言い訳だね」


 苦しげに言う彼を見ているのがつらくなって、思わず目を伏せてしまった。

 しかし、何か言わなくてはと思い、口を開く。


「そんなことない……。私との幸せのために、一時の苦労に耐えたきみはすごいよ……」


 語尾が消えかけるくらいに、彼を励ますことができたのか不安になった。

 しかし私の思いは伝わったようで、彼の顔から苦しそうな表情はなくなった。


「ありがと。ちゃんとクリスマスの埋め合わせしなくちゃ、だね」


 そしてまた、こればっかりは仕方ないという風に笑った。

 私は、彼をもっと笑わせたくて少し違う話題で話し始めた。


「じゃあそうだな。最初は買い物に付き合ってもらおうかな。それから駅前のカフェでケーキ食べたいな」


 次々と埋め合わせでやりたいことをリクエストすると、彼は笑うどころか、おろおろと慌て始めてしまった。

 そして、逆に私が笑うこととなった。


「冗談だよ!」


 私がそう言うと、彼はほっと息をついた。

 単なる私のわがままに付き合うのは相当嫌だったらしい。

 そう考えると複雑な気持ちだが、恋人と楽しいデートがしたいのは私も同じだった。

 ふと彼が真剣な眼差しを向けてきた。

 驚いたが、私も一応真剣な顔つきに直っておく。

 数秒間あいて、彼の口が開いた。


「僕と付き合ってくれて、結婚してくれて、ありがとう。ずっと死ぬまで愛してるよ」


 いつの間にかクサいセリフも照れずに言う彼が眼前にいた。

 彼が照れないから、代わりに私が照れてしまった。

 悔しくなって、私も言い返した。


「私も……、愛してる、よ」


 目線は合わせられなかったが、気持ちは伝わった、はずである。

 恥ずかしさのあまり、顔がものすごく熱くなっていた。

 それを隠すように紅茶を飲んだ。

 そわそわした私を見て、彼が何を思っていたかなんて、想像に難くないが、容易にできる想像も今はしたくなかった。

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