第26話 「闇の胎動」

 長髪の男がルメンシスの裏通りを駆け抜けていく。


 もし他人がそれを見たのなら、それを俊足の人狼か、夜だったならば幽霊にでも例え怯えたに違いない。


 しかし、そんな形而上的生物よりも、つまり思考の中から吠え立てるしかできないものよりも、それはもっとリアリティのある危険性を内包していた。見た目だけの化け物なんぞよりも、より実世界的であった。


 何故なら、彼は手に血の付いた、オリカルクムで作られたナイフを握り締めていたからだ。今、ルメンシスの一市場でそれを使ったばかりであった。


 一人の少年によってそれが「ナイフの使用目的の一つ」を達成することは阻まれてしまったのだが、しかしそれは彼にとっては、またそれとは別の目標を達成することと同義であったし、今までにそのナイフで何人ものルメンシス市民や探りをかけてくるもの全てを殺してきたのだから、ナイフが――無論彼も――全く無罪になることは有り得なかった。


 とにかく、いつものように追っ手の警官を振り切るために、そこらの体格のいいルメンシス人よりも幾分か背の高い彼は息を切らせて、全力で走っていた。


 いや、これは正確ではない。彼の平生の体力から言って、この程度の運動は息を切らせることにはならないはずだ。間違いなく、肉体の酸素消費量の急激な増加による酸素不足による呼吸の変化とは別に、何かしらが彼のフィジカルに影響を与えていた。


 彼自身はそれを誰よりも理解していた。


 ただ、それというよりは、実のところ、その何かしらは彼自身しか理解し得ないものなのだ。


 男は何度目かの曲がり角を曲がった。いや、曲がろうとした。その動作は完了されなかった。その曲がろうとした先はこの街に来た初日に頭の中に入れたはずの地図とは違って、行き止まりであった。


 あれ? と通り魔は首を傾げた。全く計算外のことに、彼は足を止めてしまった。


 彼の体力ならば、そのそびえ立つ塀を乗り越え、姿を消すことだってできただろうが、それは急には思いつかれなかったのだった。


 それより、この壁がいつ作られたかについて思考のリソースを割いてしまった。彼の悪い癖の一つである。


 目の前で今起きたことに対する必要な対応よりも、それが何故かを考えてしまう思考回路は、ひょっとすると魔導師や科学者向きなのかもしれないが、もちろん、それが逃亡者向きでも殺人者向きでもないことは明らかだ。


「ハァ……ハァ……全く、どこまで逃げるつもりだったんだ? えぇ?」


 彼から数瞬遅れて、彼を追っていた市場にいた警官が彼に追いついてルメンシスの街並みと彼とでこの街と住人とを脅かす通り魔を包囲した。通り魔は振り返ろうとするも、動くな、と指示されたので素直に従った。


「両手を挙げろ、ナイフを置け――もう逃げられないぞ、お前」


 彼が一歩踏み出すと同時に、布と布が擦れる音がした。腰から何かを取り出したような、そんな音だった。


 拳銃――か?


 オートマチックかリボルバーかまでは分からないが、ナイフを取り出すような動きではなかった。右手で右腰側面にある何かを取り出したようなのだから、ナイフにしては不自然だ。


「そんなものを取り出して、ひょっとして僕を殺すのかな?」


 などと、通り魔は探りを入れてみた。対する警察官は少し驚きを覚え、一瞬沈黙してしまったが、しかし平然とした口調で返した。


「いや、殺さない。殺してもいいとのお達しは出ているが――生け捕りにして、公の場に引きずり出してやる。ああ、もちろんのことだが、見せしめ刑は痛いらしいぞ? そりゃ股裂き刑だからな。機装巨人で引っ張って、真っ二つだ……」


 そう言いながら、両手で構えた回転式魔導拳銃の照準器に通り魔の頭をしっかりと重ねて、一歩ずつそれに近づいた。念のために、撃鉄を起こして、すぐに発砲できるようにしておく。


 一歩、二歩、三歩……。


 五歩目ぐらいで、通り魔の頭に銃口はたどり着いた。両手を挙げた通り魔の頭に右手でホールドして押し付けると、空いた左手で左腰の手錠――オリカルクム製の非常に頑丈な品で、ルメンシス教国の皇帝陛下の、末端ながらも臣下の一人だという証明の品――を手探りで探す。


 しかし、カチャカチャと音が鳴るばかりで、中々取り出せない。当然のことながら次第に苛立ってくる。ただでさえ、恋人のサンドイッチ屋の娘との逢瀬を邪魔されたのだ。そこに、この大罪人を捕まえられるという功名心が加わって、つい、警官は左後ろを見てしまった。


 その瞬間、通り魔は身を翻した。タイトな右回転で、拳銃を持つ右腕を絡め取り、さっきまで自分のいたところへ相手を引き出す。


 警官は不意をつかれたものの、しかしそれでも訓練はされているようで、次の瞬間には相手を目で追っていたし、足を踏ん張って、壁に叩きつけられないようにした。


 が、それは仇となった。背中側に回り込んだ相手は警官の肩に手を掛けると、撫でるようにそれを後ろへ促した。たったそれだけの優しい動きで何ができる。


 ならばこれは何かのフェイントと警官は考え警戒していたが――その直後に地面に叩きつけられたのは彼自身だった。あれそのものが攻撃動作であった。


「なっ……」


 地面に背中が吸い寄せられるように、彼の体は落ちていったのだった。受け身が間に合ったのはほとんど奇跡だっただろう。


 魔術でも使われたようであったが、しかし常識的に人間の持つ魔力では、ほとんど何もできない。だから魔導エンジンなどが生まれ、携帯用には魔導カートリッジが使われるようになったのだ。


 しかしこの男はどちらも持っているようには見えなかった。ナイフだって、あんな小さいものに仕込んだところでこれだけの力を生み出すのは不可能だ。


 とすれば、何か肉体の技術的神秘があるに違いない。アレを一種の格闘術とするということだが、それは「この世界にそれは存在するのだろうか」?


 通り魔は地面に倒れた警官の頭に足を振り下ろした。踏みつけるのではない。遠心力と重力を込めて、全力の踵を顔に向かって投射するのだ。


 しかしそれを警官は予期していた。反射的に手足を振り回して転がりかわす。ルメンシス伝統の石畳が砕け、頬に切り傷を作った。それを気にせずに、警官は回転の勢いで腰を立ち上げ、右手で腰のナイフを抜いた。銃なんかよりもそれの方が得意だったからだ。


 ……右手? それはおかしい。確か、魔導拳銃を握っていたはずだ、ならナイフを握れるはずがない……。


 その瞬間に、彼は目の前を向いた。通り魔が何かを確信したにやけ面でそこに立っていた、腰だめに構えられた無機質な銃口と共に――!


 ――衝撃。


 さっきのように、彼は後ろにのけぞって、土煙を立て――石畳みに自分の血液を染み込ませていく。そして、地面と縫い付けられたように、立ち上がれない。左肩と、右上腹が熱くて重い。中で術弾が解けて中を滅茶苦茶にかき乱したのか、滝のようにドボドボと、穴からは血が吹き出している。


「いえーい、命中命中、百てーん満てーん!」


 対する通り魔は、右手に魔導拳銃を握って……その、踊っていた。細い四肢がウネウネと動いていて、その元々の容姿と相まって、気味の悪い虫を想起させた。さっきの投げ技のときスリ取られたのだ、とそのとき初めて警官は気がついた。


 フェイントに見せかけた、投げという攻撃動作に見せかけたフェイント。言い換えれば、フェイントをフェイントと思わせることがブラフであったのだ。そうすれば、投げこそが目的であったのだと思わせることができる。そして、警官はそれに見事に騙されたというわけだった。


「ぐっ、うぅ……!」


「何? まだやるの? 止めなよー、早死にしたくはないでしょ? まあ、肝臓を撃ち抜いてるから死ぬのには変わりないけど……そうでなくても殺すしかないけど……その、ごめんね?」


 通り魔はニコニコと笑った。これだけを見ると、優しそうなお爺さんにも見える。そして、そのとき初めて警官は、彼が極東系の顔立ちで、年配者だということにようやく気がついた。……この観察力のなさが、ひょっとすると彼の死を招いたのかもしれなかった。


「いやはや、君も強かったよ、うん。あの踵落としを避けるのは、やっぱりセンスがあるね。でもそんなに目がよくないのかな――ああ、これは視力って意味じゃないよ。勘違いしないでね? でも、事実君は拳銃をスリ取られたことに全く気づかなかったわけだし……それにしてもリボルバーか、使いづらいなぁ……」


 話が纏まらずにグルグルと宙を舞っているようだった。血が足らなくなって集中できなくなっているのもある。


「さてと、僕の評価を伝えるよ。君みたいに戦うことを選んだ皆にはいつもやってることなんだけどさ――」


 音が飛びはじめた。姿が霞んでいく。視界が狭まって、瞼が重くなる。


「君の強さそのものは――まあ、合格だよ。さっきも言ったけど、センスがいい。多分もっと生きてたらもっと強くなってただろうね。彼女さんも守れるよ。まあ、僕には絶対勝てないけどね。でも――」


 闇が広がっているように見えるのは、本当に血が足らないせいなのだろうか? その割にあの男が笑った口が妙にはっきり見えているのは、どうしてなのだろうか。


「でも、動機がダメだったね。一番配点高いのに落とすなんて、もったいないなぁ――本当にもったいない。仕事の義務感と功名心なんかで戦っちゃダメだよー。僕、ガッカリだなー、せっかく強かったから楽しめると思ったのに。というわけで、総評としては――」


 通り魔は、滑らかな、素人のそれとは違う慣れた手つきで構えた。片目だけで狙おうとするのではなく、しっかり両目を開けて、腕が銃身と真っ直ぐ繋がるように構えている。


 すると、一瞬だけ警官の視界がはっきりして、彼は身じろぎしようとした。が、もう何も動かせないほど、体が重かった。もう何も見えない。音すらも、小さく消えていこうとしている。

「――四十三点」

 それが、警官の聞いた最後の言葉だった。通り魔が彼の頭部を撃つのと、彼が失血死するのとでは、一体どちらが速かったのか。何にせよ、サンドイッチ屋の娘に恋した「パスクァーレ・ブルネッティ」はルメンシスの隅で落命した。彼を看取ったのは、ただ一人の悪魔のみであった。


「全く残念だなぁ……残念無念。それに彼を殺しても『計画』に何も寄与しないじゃないか……全く、戦った分だけ骨折り損だよ、全く全く……区画整理なのか何なのか知らないけど、こんな壁作らないでほしいなぁ。邪魔なだけじゃないか……」


 そのときの彼の周りのオーラはヨハナと礼一少年を襲ったときのそれに近かった。


 それは憎悪に近い感情なのだが、そこに快楽がわずかに籠もっていることに気づく人はほとんどいないし、気づいた人は皆とっくに彼に殺されているだろう。しかし、次の瞬間にはそれこそ嵐の次の日のように晴れやかなものになった。


「でも、犠牲なしには何も手には入らないからね! ちゃんと、今回で『計画』が間違ってなかったとはっきりしたわけだし、今まで殺しちゃった人も無駄にならなくってよかった! 僕は満足だよ! それに『アレ』だって……無駄にならないんだからさ」


 通り魔は一つ伸びをして、首を鳴らすと、ルメンシスの裏通りに消えていった。


 彼の出動に応じた応援の警官隊が到着したのは彼がその陰惨な殺人現場から去った二分後だった。しかし、言うまでもなく、その呼んだ本人は既にこの世にいなかった。

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