第25話 「聖母の休日」

「先生!」

 叫ぶ。

 自分より身長の高いはずの彼女がとても小さく見えたからだ。遠くにいるように、千里の先に行ってしまったように感じたからだ。もう届かないのかもしれない、と礼一少年は感じていた。

 届かない雲の向こうに彼女は片足を踏み入れてしまったのかもしれない。手を伸ばしても足を踏み込んでも、前に進んでいるのかいないのか、彼女には中々触れることができなかった。

 眩い髪色を持つ彼女の背中の向こう側に、漆黒の闇が見える。今にも飲み込まれそうな光景が、脳裏をよぎる。それは最悪の結末だ。

 走れ! 手を伸ばせ!

 一向に動こうとしない時間が泥のように足を掬い、彼女があのブラックホールの中に吸い込まれていく錯覚が手を縛ろうとしても、礼一少年は走り、求め――そして、彼女の肩をつかみ、地面に引き倒した。

 それと同時に、自分の体をあの悪魔と彼女との体の間にねじ込んで盾にする。

 すると、さっきまでノロノロと、泥の中でぬめるように流れていた時間が、まるでハヤブサがコロシアムの中で敵に向かうときのように急激な加速をして、礼一少年たちは受け身も取れずに石畳に激突した。

 意識もまだ失神と通常の間の不安定な位置にありながら、礼一少年は身を起こしていた。

 しかしそれは何かの防御反応が起こせる状態にはない。

 通り魔がその気になれば一瞬も経たずにヨハナと一緒に切り刻まれ、ナイフの露と消える。彼はもう一度死ぬ。

 何も守れず終いの人生ばかりであった、と言われるのだろうか、それとも言うのだろうか。

 が、礼一少年は自分が体を起こしていることに気がついた。その通り魔が追撃もせずジロジロと見ていたからだ。顔は逆光になってよく見えない。しかし確実に彼はこちらを向いている。

 興味深そうに、得物を持ったまま立ち尽くしていた。

 たったそれだけなのに、礼一少年はまたも動けなかった。

 そして、それを見て、通り魔が、ニヤリと笑ったような気がした。

 冷然としていた自らの意味不明さ不明瞭さを押し流して、感情を露わにした。

 それが礼一少年には大きな違和感だった。

 しかしその違和感は遠くから聞こえる叫び声に押し流された。いや、遠くではない。耳が非常事態のために音を限界までカットしていたのでそう聞こえただけで、実際にはそこに通った市場の客の一人が悲鳴を上げたのだ。

 それで両者とも死ほどではないにせよ遠くに旅に出ていた意識を取り戻し、礼一少年は乱暴な墜落のためか意識を失ってその長い睫毛を上下で合わせているヨハナを庇うように構え、通り魔は市場から飛び出してきた警官から逃げるように元の道を走った。

 呆気にとられた。

 戦いを求めていたわけではないにしろいざ戦わないとなるといくらなんでも拍子抜けするのだった。

 呆けていた彼は、警邏がそれを追って角に消えるのを見届けて、ようやく正気に戻った。

 ハッとして、世界に色と音が戻り、まだ何があったのか理解していない野次馬が近くの人に口々に聞く声が聞こえ、まだ意識を取り戻さないヨハナを心配そうに見る人々が見えた。礼一少年はヨハナの肩を揺すって起こそうとした。

 が、それよりも先に、彼女の瞼が微かに動いたようだった。礼一少年は声をかけるだけにした。

「先生? 先生!」

 ヨハナは辺りを見回しながら体を起こした。どうやら礼一少年がクッションになったおかげで頭は打っておらず、また大きな怪我はどこにもしていないようだった。

「えっと、確か……私は市場に来て……」

 そう言うと同時に、あの闇を思い出したのか、彼女はその端正な顔を恐怖で歪めた。恐れるように辺りを見回して、それから礼一少年の右腕を見て目を見開いた。

「レイイチさん、血が……」

 それは、半分は同情するような目で、もう半分は申し訳ないような目で、つまりはやはり普段の聖母のそれであった。そこで礼一少年はそこに手をやると、左の手のひらは真っ赤に染まった。

 よく見ると、右手までその赤は滴っていた。それを認識すると同時に腕に鋭い痛みが走った。異常分泌されていたアドレナリンが役目を終えたせいもあるのだろう。

 礼一少年は思わず顔を歪めたが、すぐに取り繕ってみせた。

「大丈夫ですか、ごめんなさい、私のせいですよね、ごめんなさい……」

 ヨハナは申し訳なさからか何かしなければ、とレイイチの腕に触ろうとして、しかし触っていいものか、と触れなくて、結果その場でアワアワするだけだった。

 そこでレイイチに、何か清潔な布を持ってきてほしい、と頼まれてようやく立ち上がろうとした。しかしすぐに視界が暗く狭くなって――立ち眩みを起こして、その場にしゃがみ込んだ。当然、礼一少年は心配して近づく。

 そうしてかえってレイイチに心配されたことが、ヨハナの心を更に追いつめた。その上、清潔な布は近くの住人が持ってきてしまったのだった。

 ヨハナは無力感に打ちひしがれながらレイイチが器用に傷に布を巻き付けるのを見ていた。

 一応、結ぶ部分を手伝おうとはしたのだが、止める間もなく彼自身の口を使ってそうしてしまったので、それすらも叶わなかった。

 ヨハナはただ、ごめんなさい、を繰り返すことしかできなかった。

 小さく、しかし鈴の音のようにはっきりとした声でそう言った。帰り道の間ずっとだ。

 声が小さかったせいか、口元でそれが大気に溶けているようでもあった。少なくとも彼女自身はそう感じていた。

 保護者の私が守るべきだったのに、と頭の中で何度もリフレインした。例え身を挺してでも誰かに手を出させてはいけない、危険な目に合わせてはいけない、というのが彼女の矜持であった。

 もし、今回のようなことが、レイイチではなく、他の孤児に起きたならどうだっただろう――間違いなく致命傷になっていただろう。

 たった少しの傷であったとしても、子供の体の大きさでは大変なことになる。

 その上、破傷風になる可能性だってある――これは、彼にしたってそうだが。

 彼にそれを強いてしまっている。彼に守られてしまっている。普段にしたって、彼の善意におんぶにだっこだ。

 すると、私は何のためにいる? 私は、誰かを助けなくてはならないのに、どうして迷惑ばかりかけてしまっている?

 ――これでは、お父様から孤児院を継いだ意味がない。申し訳が、立たない。

 ヨハナは、自分の大きな瞳から涙がこぼれ落ちそうなのを、礼一少年に気づかれないように袖で拭おうとした。

 孤児院までの帰り道はもう半分を過ぎているのに、その何もできないという辛さは消えることもなかった。そして申し訳なさはそこに寄り添うようにしてそこにあるのだった。

「――先生」

 ヨハナは礼一少年にそう呼ばれることすらも少し辛く感じた。彼は悪くない。悪いのは全て私なんだ、弱い私が、彼を守れなかったことが――。

「その、こういうとき何と言えばいいのか分かりませんが、僕は気にしていませんよ、これは仕方なかったのだと思います」

「そんなことはありません、私がもっとしっかりしていれば、あなたがそうやって傷を負うことはなかったんです。そうではありませんか?」

「確かに、それはそうですが……でも、そう気負わないでほしいのです」

 彼は、立ち止まって、ヨハナは振り返った。すると彼はヨハナに訴えるように言った。

「あなたが僕に無事でいてほしかったように、僕はあなたに無事でいてほしかったんだと思います。何せ一瞬のことでしたから、よくは覚えていませんが……でも、あなたが無事でいてくれて、少なくとも今の僕は嬉しいですし、あなたが無事でなかったなら多分僕は今のあなたと同じように苦しむんだと思います。だから、今回は先生の思っていることと逆になっただけなんです。仕方のないことなんです。」

 だから、と彼は言った。ヨハナは何も言えない。辛さ・情けなさは消えていたが、それ以上に、彼こそが自分よりもあの孤児院の長に向いているように思えた。彼の優しさは、まるで――何かの生まれ変わりのような。

 転生者。

 ルメンシスで、最も蔑視されている階層の人たち。この世の理不尽の吹き溜まり。ルメンシス国教会の保護の外とされている――最下層。

 彼は「それ」だった。だのに、彼は人を恨まず、その慈愛を持っている。博愛を持っている。「それ」だったから、と言うには彼の愛は大きすぎる。彼は元からこうなのだろう。「元の世界」から、ずっと。

「レイイチさん」

「はい」

「少し、みっともないところをお見せしてもいいですか」

「どうぞ」

 彼がそう言うと同時に、昼の、人のいないルメンシス郊外に豊かな女性の声が響いた。それは涙だった。しかし悲しさというよりは安堵で、開放感であった。

「怖かっ……たぁ……」

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