第23話 「女神は少女のように笑うもの」

 ルメンシス半島は広大な、特に東西に広大なルメンシス教国の領土の丁度真ん中辺りに位置している。つまり西側の自国領へは紅茶や香辛料などの東方物産が、東方へは毛織物や魔石などが、それぞれ行き交う中間地点となるため、北方のウェヌシやゼーネスなどの商業都市が活発であった。それらはテレビの中では陰謀屋の悪役となったり、その中で義賊にすっぱ抜かれたりもするのだった。それだけは、勧善懲悪的内容だからか、一応ヨハナも渋々ながら子供たちに見せてくれるようで、礼一少年も少しだけ見たことがあった。


 しかしそれらの都市に陸揚げされた物産が主にどこに行くかと言えば、結局は大消費地たる首都のルメンシスである。もちろん他の地方都市にも行くとはいえ、少なくない量の物産はここに到達し、ここで取引され、ここで消費されるのである。


 その消費の現場が礼一少年の目の前に横たわっていた。ルメンシスの街を政治的宗教的商業的側面から「世界の縮図」などと身勝手に唱える向きがあるが、しかしこの賑わいと品揃えはまさに世界だろう。


 東方の珍しい食料やおもちゃが並び、その隣の店に神聖帝国製の魔導製品が並んでいるかと思えば、その隣には服(元の世界でいうところのシャツやズボン)が「大魔導師印」の名の下に売られていたりする。初めに「大魔導師」がデザインしたからなのだそうだ。なるほど万学の祖と呼ばれる人物が発明したのだから、この世界のそれは随分と「近代的」なわけである。


 驚くべきは、その品物に向かっている人が、その特徴が、その商品の数に負けぬほど多くあるということだ。そこにいるのはラテン的顔立ちの一般的なルメンシス人だけではない。チャアタイのような浅黒い中央アジア的顔立ちも、ヨハナのような金髪碧眼のゲルマン的顔立ちもいる。その他にもアフリカ的顔立ちや、更には、数こそ少ないがミヤシタや礼一少年のような平たく目の細い東アジア的顔立ちもいるのだ。それが男女入り混じってマーブル模様であることは言うまでもない。そして時折、その民族の服装をした人までいるのだから煩雑でたまらない。人種によった見方の正誤善し悪しはともかく、その混ざりきった様子は元々多民族国家に住まうものではなかった礼一少年にとって中々壮観であった。


 ヨハナは民族のサラダボールにやや驚いた礼一少年と違ってそれに臆する様子もなくズンズンとその人混みの中へ進んでいった。慌てて礼一少年はその揺れる金色の後ろ髪に着いていく。ミヤシタの話の限りでは、彼女は子供の頃からここにいるらしいので、きっとこれに慣れているに違いない、と考えた。


 礼一少年がこの人混みに少し辟易していたのに対して、ヨハナは楽しそうに終始笑顔を浮かべていた。それは恋人に会いに行くような爽やかなものだった。例えるならオレンジであり、シトラスの香りである。金細工とダイヤモンドの光るべき美貌の大人の女性がそれには似合わない禁欲と清貧の精神をもって孤児院のために働いているというよりは、一人の街娘が無邪気に今日も一日を過ごしているようなものだった。彼女が遅れ気味の礼一少年の手を引かなかったのは、単に目の前の人だかりに心を奪われていてそこまで気が回らなかったからだ。


 もちろん、だからといって散財するわけでもなく、必要なものだけを買う辺りはいつもの彼女らしい、と礼一少年は思うのだった。


 しかし、いつもの彼女などよりも、礼一少年は彼女のいつもと違う面を見れたことに少し喜びを覚えていた。


 礼一少年はこのとき初めて気づいたのだが、今まで彼女のことを冷静で平等な慈悲心を持った人物だ、と考えていた。そしてその反面でそこに人智を超えた何かがあるとも考えていた。その人間の腹から生まれたにしては出来すぎな均整の取れた造形も原因の一つだ。あの金細工の髪はそこにあるだけで男たちの精神にある種の異常を引き起こす。だがそれはそれとして、その慈悲心に敵対するものに対する強い意志にこそ、それを感じていた。あの夜の彼女とミヤシタとの口論もそれを象徴する一つだった。


 言わば、神のような慈悲を神のような無慈悲さで断行する強さが彼女にはあって、その代償として人として遠くにいるような気持ちがしていたのだ。神はいると言われるが目の前には見えないというような感情だ。そう、それはまさしく神に対する心持ちだ。神がくだらない冗談に笑ったりしないように、彼女に人並みの感情がないように見えたのだ。


 しかしそれは少し違って、人並みならぬ慈悲心もありながら、人並みの少し子供っぽいとも言える喜びも持っているようだった。彼女は神ではなく人であったのだ。それが礼一少年の中ではっきりとした。


 しかしそれは彼女に対する信頼やある種の信仰を打ち消す役割を担うものではない。むしろそれに改めて火をつけたようですらあった。ひょっとしたら、護衛的役割を任すというのは方便で、実は彼女に彼を連れてきたい本当の理由があったのではないか、と考えてもいた。まあ、ただ、その本当の理由の具体的内容についてはあまり考えていない。




 昼食は市場に程近い大衆食堂で取った。午後も何か買うわけではないが、しかし帰っていては時間がかかりすぎる。だから、孤児院の子供たちの分は作っておいてきていた。最低限作っておけば、年長の子供が何とかまとめてくれるだろう、と彼らは考えていたのだ。だが大体同時刻、実際には誰も怪我しなかったとはいえ分け前で揉めたようで、かなりの大惨事の様相を呈していたのだが、無論、彼らはまだ知る由もない。


「いやあ、着いてきていただいて助かりました、レイイチさん」


 南コロンボ大陸産の「トマト」なる新野菜を使っているらしいソースのパスタをフォークで(本場では使わないという噂通りなのかは分からないが彼女はスプーンを使ってはいなかった)一口食べてから、彼女は礼一少年にそう言った。それに対して、大したことはしていませんよ、何もしてないようなものです、と礼一少年は答えた。これは彼の本心だった。口には出さなかったが、むしろ、精神的にはもらったものの方が多いように感じた。孤児院では見られなかった彼女の笑顔や、このパスタなどがそうだ。もらってばかりで自分は返せているのだろうか、と不安になるほどに。


「本当は、もっと早くに連れてきたかったんですよ。あの市場は素敵なところですから。まだ子供だった私が初めて来たときも、ここは異国の、しかも敵国出身の私を受け入れてくれました。柔らかだった。どんなに世の中が変わっても、悪くなっても、あの市場だけは今もそのままです。だから、この街全てすらも私は愛せるんです――人が悪くなるのではないのです。そうではなくて、世の中が悪くなるのです。なら、そこに住む人は愛せるでしょう? ましてや、こんな素敵なところの人なら」


 彼女は歩いてきた方向を一度見て、その青い瞳を懐かしげに緩めた。それから、礼一少年を見て微笑んだ。すると、礼一少年と昔の彼女自身とが、その碧眼に浮かんでいるのが礼一少年にも見えた。そんな気がした。礼一少年はふと、その虚像・幻覚を質問する。


「それを、僕にも味わってほしかったと?」


「そう思いますか?」


 彼女はイタズラっぽく笑った。礼一少年はハメられたような気持ちがした。まるで小悪魔のイタズラに引っかかったようだった。その感覚と目の前にある聖職者の服装とは似ても似つかなくて、少し面白かった。


「……以前ルメンシスの街でホテルに泊めてもらえなかったことがありましたが……でもここは素敵ですよ。先生みたいに、ここから全てを好きになれるのかもしれません。人が多いのには驚きましたけど、よくよく考えたら人の多さなら僕の故郷も同じようなものです。でもここまでは色とりどりじゃなかったと思いますね」


「そうでしょう、そう言ってくれると思ってました……」


 彼女はそう言って、大衆食堂の外を遠い目でしばらく眺めていた。それは要するに、市場の方をじっと見て、さっきもやったように昔の自分と礼一少年とを重ね合わせているということだ。


 それから彼女は、冷めてしまいますよ、と、慌てたようにパスタを口に運んだ。清貧を旨とする彼女は基本的には常に腹ペコなのだ。礼一少年も、それにせかされて、自分の分のパスタを食べ始めた。「元の世界」で好きだったオーソドックスなミートソーススパゲッティだ。


 のだが。


 ……この時代のトマトは、まだそれほど甘くないようだった。

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