第22話 「闇夜の金細工」
結局礼一少年が孤児院に帰ってきたのは日が沈んでからのことだった。空気はいつぞやのように真っ暗に染まり、透き通ったそれは星が手の届く距離にあるのかと彼に錯覚させた。ルメンシスの街の方だけが不自然に明るくて――魔導ランプの明かりだ――そこだけ昼が残されているかのような光景であった。明治時代にガス灯だったかが街灯として運用されだしたとき「昼間のようだ」と言われたというのは、正にこのような状態のことだったのだろう。それまではこの闇と光の織りなす奇跡を当然のように味わっていたのだ。技術に囲まれて育った礼一少年の感覚からすると少しイメージしづらいのだが、本来はこの「奇跡」が「当たり前」で、あの「当たり前」が「奇跡」なのだろう。彼はもう数ヶ月この世界で暮らしているが、この感覚だけはどうも消えがたく、忘れがたいものだった。
その芸術の中を進んでいくと、星の合間合間にその素朴な孤児院はこじんまりとしてあるのだ。明かりはほとんど消えている。これは必死の節約生活の結果としてそうなっているのだ。一ヶ月の魔力代こそ一番優しい家計簿の敵だ、とミヤシタは言っていた。規則正しく早寝早起きさえしていれば夜明かりをつけることも減る。少なくとも水道代(そういえばその水源はどこなのだろう、人口からして川だけで賄えるとは思えないが)や食費に比べたら遥かに簡単に減らせる。
その暗い中に明かりが一つ建っているように見えた。一瞬、ただの見間違いのように思えた。事実、その明かりはそれほど大きくはない。人の身の丈ほどの大きさではなく、その何十分の一かの大きさの、ロウソクのそれであった。しかし、正確にはそれ自身が光っているわけでないものの、その金色の光はそこにいたのだった。小さいが確固とした存在であり、その反射は精巧な芸術的創作の結果のように思えた。身に覚えのある柔らかなそれに心地よさと安らぎと、ほんの少しの胸の痛みを覚えながら礼一少年はそれに声をかけた。すると、その主たるヨハナは振り返って微笑んだ。金色と闇色との背景に、彼女の白い肌と青い目が介入して、もはや昼と夜とが調和したように礼一少年には見えた。
その彼女が持っていたロウソクの明かりの中で礼一少年は晩飯を食べた。前述の通り、魔導ランプを使うわけにはいかない。それはミヤシタ商会で働いている(ことになっている)礼一少年の食事であろうとも一緒のことだ。長期的にはロウソク代の方が高かろうとも思うが、しかし、礼一少年にはこれはもう日常であり、そのほの暗さが正面に座って、度々美味かどうかを確認してくるヨハナの姿を先ほど同様逆説的に際立たせるのだった。
「その、レイイチさん。明日ってお暇ですか?」
その朧気な光の中から彼女はそう話しかけてきた。礼一少年は、そういえばチャアタイが何故か明日は休みにしたことを思い出し、パンを千切って口に運びながら、そうですね、と答えた。何故休みになったのかはよく分からなかったが、とにかく疲れてはいたし、ミヤシタに聞いたらそれでいいと言っていたし、遊ぶなら、と少しの金までくれた。どちらにせよ機体は直っていないのだから、と深くは考えないようにしていた。
「何かご用事でもおありなんですか」
「ええ、街の方に少し……」
「なるほど、いつもの買い物ですか。それならいくらでもついていきましょう」
礼一少年はヨハナが度々街に買い物に出ていることは知っていた。元の世界で言うところの冷蔵庫にあたるアイテムも孤児院にはある、しかしあまり大きくはない。古いモデルなのですよ、とヨハナは言っていた。そのためその日と明日のものぐらいしか入らないから、当然ルメンシスの中心部に買い物に行く回数も増えるというわけだ。
「それにしてもどういうわけです? 不意に僕を連れていくなんて、珍しいじゃないですか」
しかし、そのとき礼一少年は留守番であった。それはミヤシタ商会に通うようになる前からずっとのことである。特にその理由は言われなかったし不満にも不審にも思わなかったが、だからこそこうして連れて行かれるのは逆に不思議であった。
そう言うと、ヨハナは少し長いまつげを伴っている目を伏せた。
「それなんですが――最近特に治安が悪いとかで、少し不安で……今頼れるのはレイイチさんぐらいのものですから」
ルメンシスの治安が悪くなっていることは礼一少年も知っていることだった。人の多い広いところではスリが、人の少なく狭い道ではゴロツキの類が幅を利かせているらしい。通路の奥では人が殴られていても殺されていても誰も気づかない(通路に関しては前者を礼一少年は経験済みである)。特に最近は通り魔が出没するようで、しかもまだ犯人が捕まっていないらしい。
そこで、以前の妄想がふと礼一少年の頭をよぎった。引き裂かれる黒服と抵抗できない細腕の妄想だ。そういえば、位置的にはこの辺でよぎったものだったか。そのときもヨハナと礼一少年とはロウソクの薄明かりの中で話していた。その類似性が記憶を呼び起こしたのかもしれないし、そうでなくてもいずれは考えていたのかもしれない。
礼一少年は、なるほど、分かりました、と短く答えた。ヨハナが自分をこうまで直接的に頼ってくれるということが無性に嬉しかった。確かに普段も頼られているのと同じようなことをしているが、それは本当の姿を明かさない影の活動であって、実は、彼女への直接のものというのはあまり多くないのだった。つまりそれはそんなわけである。
もちろん、彼自信でも気づかない側面もそのわけには多分に残っているのだが、彼の無意識の影法師には真夜中だったせいかヨハナは気づかずに礼を言って、闇夜の中でただ聖母のように笑っていた。礼一少年には何故かそれが救いえないほどに儚く見えて、彼は彼女を守らんとする自身の決心を更に堅くした。
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