第19話 「真夏の朝の珍事」

「ふう、ふうッ、ゥッ」


 早朝の静かな孤児院に野太い苦悶する声がその静寂を崩さない程度に響いた。それはどこか恥ずかしげで、どこか押し殺した音だった。耳を澄ませば、そこに往復するような衣擦れの音を聞くことも出来ただろう。更には時折の、何かを打ち付けるようなパンパンという音やベッドか何かが軋むギシギシという音まで拾うことが出来るかもしれない。実のところ孤児たちの中でも早起きな部類の何人かはその音を奇妙に思いながら聞いていた。しかし、その先にあるものについて連想できるほど成熟した者はヨハナの教育をもってしてもいなかった。いや、こればかりはヨハナだったからと言うべきかもしれない。彼女には思いも及ばない何かだ。


 だから、勘の悪い者は幽霊かもしれないとやや怯えるように布団をかぶり、勘のいいものでもせいぜい、その音がレイイチとかいう、かなり前(彼が来てからは約半年ほどか、それより短いかだったが、子供たちにとってそれは大昔である)から孤児院に居座ってる男の部屋から聞こえてくることを突き止める程度であった。


「ヌッ、ぐぅっ、ふうッ」


 その幽霊の笑い声とも悪魔の嘲笑とも言えぬ喘ぎ声は、実際に礼一少年のものだった。体全体を地面と平行にして、上下させているのだ。床ではなくベッドの上だったのは、彼の美意識故か、それとも他からの要請だろうか。切なげに、何かをこらえているように、それをしている。それは、今にも叫びそうな、野獣の声と言ってもよかろう。まだ日の出たばかりで空も、青というよりは蒼、蒼というよりは紺碧というような色合いである。だから、部屋もまだ明るいわけでない。であるにもかかわらず、その部屋の明かり――この孤児院の中においては珍しいもの――を使うことはなかった。真っ暗で、何も見えない方が風情があるとでも言いたげであった。


「ふう――」


 彼の胴体がベッドと空中とを何十往復かした辺りで、彼は大きく息をついた。それから力尽きたように、ベッドの上にもたれかかる。何かを押しつけるにのしかかるようでもあった。そして、その息には疲れの色があったが、同時に快感と達成感を感じさせる周波数もあった。その一方で彼の顔は男としての本能の満たされたような表情であった。彼は汗をかいたまま、しばらくはそうして満足そうに布団の上にいたが、その内に上体を起こして、ベッド横の靴を履いた。そのとき丁度に、ヨハナがドアを開けた。


「おはようございます、レイイチさん――あれ? 随分汗をおかきになっていますけど、何かされていたんですか?」


「おはようございます、先生。ただのトレーニングですよ。昨日のアレでミヤシタさんに非力だと言われたので」


 もちろん、ミヤシタ云々の話は嘘だった。彼は昨日試合後に商会に連絡には行ったものの、そこでミヤシタとは話していない。彼は彼で礼一少年に仕事で出ていると嘘をついたのだ。わざわざ嫌いな奴に会う義理もない(あるいは少ないながらも存在する罪悪感か)ということなのだが、彼はそれを理解せぬまま、仕方ない、日を改めよう、と孤児院にその足で帰っていったのだった。


「トレーニング……と言いますと?」


 そこからか、と礼一少年は苦笑いした。ただ、これに関してはこの世界の常識が遅れているわけではなく、彼女がこういうことに疎いだけである。彼女は聖典に書いてあることと善については非常に詳しいのだが、逆に言えばそれは、聖典に書いていないことや具体的な悪の手口、善でも悪でもないことには全く無知であるということだった。だからこそ礼一少年は彼女を救おうとしているわけだし、その過程で彼女を騙せているわけだった。


「こう、体を動かすと自然に力が強くなるんですよ。ほら、小さい子供は力が弱いですけど、遊んだり運動したりする内に大きくなって力もつくでしょう? それの延長線上のことですよ、多分」


 ヨハナは少し感心したように、なるほど、と言って、それから朗らかに微笑んだ。それと同時に、ようやく空を明るい青に染め上げた太陽が、彼女の髪を礼拝堂の、ステンドグラスを背負った錆びた銅像よりも遥かに神々しく輝かせた。彼女は礼一少年の嘘の理由に騙されきって、廊下を子供たちの部屋へと歩いていく。礼一少年もそれに着いていった。


 何故鍛えていたのか、それを聞かれたなら、礼一少年は、力不足感じたからと答えるだろう。酷い筋肉痛にならなかったのは、ほとんど偶然と言える。


 機装巨人同士の一般的な戦闘においてかかる最大Gはおよそ4~7G(つまり、体の重さが四倍から七倍に感じられるということだ)ほどであるが、これはいわゆるジェットコースターの、その中でも特殊な部類のものですらギリギリ届かない世界であり、訓練なしの素人がギリギリ耐えられる限界だとされる。


 その上、あの機体は特に加速性能と運動性が普通ではない。


 らしい。


 らしい、と言うのは、機装巨人についてはまるで素人で、かつ初めて乗った機体がアレであった礼一少年の主観であるためだ。しかし素人目にもそう分かるということ以上に異常性を示すものはあるまい。その異常な諸性能のために、あの戦いの瞬間では、ブラックアウト――血流が脳に行かなくなり、視界が白黒になったり、全く見えなくなったりという諸症状を起こすほどのGがかかったようである。礼一少年はそこに死ぬ瞬間の光景を想起したものだった。だが、死の世界に一歩近づくと言えば格好がよいものの、実情は単なる危険状態である。実戦で意識を手放せば――それは命を手放すことになる。


 そうなれば、どうなるかは言うまでもあるまい。誰がどうなるかもだ。


 幸いに、礼一少年はG対策を少しだけ聞いたことがあった。昔、まだ純朴な少年だった頃、彼は宇宙飛行士に興味があって、それで調べたことがあったからだ。足と下腹部に力を入れ――そうして血流が足の方へ行くのを防ぐ――三秒に一回、一瞬で呼吸するのだそうだ。


 しかし重要なのは、それをやるにも重さが何倍にもなっている世界でスティックを動かすにも、多大な力、筋力が必要だということだった。


 故に、彼は朝の静かな時間帯に、腕立て伏せや腹筋運動、背筋運動、スクワットを何十回かずつやることにしたのだ。もちろん狭い部屋の空間をフル活用するから、ベッドの上も使うし、運動強度もそれなりに高いから声も出る。であるから、子供たちが起きている間にこれらをすると、心配されずとも不安に思うかもしれない、という気遣いだった。


 ……まあその、結論から言えば無駄だったわけだが……。


 それから、いつものように子供たちを起こし、いつものように朝ご飯を食べると、礼一少年はヨハナにことわりを入れてミヤシタ商会に向かった。昨日の報告をしていないからだ。どうせ勝ったことぐらいは知らされているのかもしれないが――その他も知らされているに違いないが、自分の機体がどうなっているかも見ておきたかったのだ。


 夏の盛りの日差しの中を陰を選びながらルメンシスの街中へ進んでいくと、十分ぐらい歩いたところにミヤシタ商会の看板はある。大きなガレージに小さな事務所が併設されていて、中々にアンバランスな印象を与えるのだが、ここが悪魔の牙城だと錯覚させるには充分な効果がある。


 の、だが、一般的なそれと違って、今日だけは、礼一少年は自分の頭が暑さで駄目になったのかと錯覚した。ガレージの中は通気性のためか開け放たれていて、中にはメカニック(『現代』的表現)らしい男が慌ただしく右往左往している――いや、それはどうでもよろしい。そこが問題なのではない、問題はその正面、ガレージの大きな扉を額にした絵画のように二本足で直立しているべき「N-1 ハヤブサ」は、装甲板を剥がされ、内部骨格すらも一部は取り除かれた、無惨な姿でそこにいたことだ。

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