第15話 「凶器と狂気と狂喜が住まう国」

 礼一少年は孤児院の自室で目を覚ました。まだ夏の日射しが窓から中に注ぐ頃だった。普段からそうなのだが、ヨハナが一番最初に起きて、その次に礼一少年が起きるのだった。そのあと二人で朝食の準備――礼一少年の家庭科の実技はそう悪くなく、この数ヶ月で学んだ分を計算に入れれば間違いなく最高評価が取れるほどになっていた――をして、子供たちを起こしに行くのは慣例であった。それで、彼女とまだ薄暗い廊下を二人で歩きながら世間話をしたりするのだ。最近ルメンシスで頻発している通り魔事件のこと、昨日孤児の一人が粗相をしたこと、今日も晴れるのか否か、となると洗濯物を干してもいいだろうか……。


 しかし、今日ばかりはその慣例は当てはまらなかった。今日は、ヨハナが一人で朝食の準備を早々と終えてしまったのだ。何故なら、その共同運営者である礼一少年に朝早くから用事があるからだ。昨日の夜に、ミヤシタ商会で下働きをする約束になっている、と、礼一少年はヨハナに説明した。


 もちろん、これは嘘の説明だ。礼一少年は、その一言一言を言う度に胸が痛んだ。酷い風邪のときみたいに、呼吸の度に辛かった。しかし、真実を伝え得るか、と言われれば、それは出来ない。彼女は絶対に反対する。彼女と礼一少年との間に大きな溝が生まれてしまうに違いない。彼女は平等や博愛を信奉し、不正や悪事を許しはしない人間だから、彼がそれに手を染めようとしていると知れば何が何でも止めようとする。でなければ彼女自身が出て行くだろう(追い出すという行為は彼女にとって悪であるからやらない)。


 礼一少年はそこまで考えて、自分も彼女の側に立っていただろうに、と苦々しく思った。この数ヶ月で、自分が変わってしまっていることにようやく気がついた。自分は確実に、欺瞞だとか虚偽だとか、そういうものを嫌っていたはずだった。それは悪であった。だのに、今やそれを当たり前のように使っている。これは、おかしい。


 しかし、彼はその矛盾をあっという間に飲み干して、なかったことにした。仕方のないことだ、という自己暗示で、自己矛盾を制してしまったのだ。彼女は救われなければならない。それができるのは自分だけなのだ。絶対にそうなのだ……と。


 朝食は、食堂に一人分だけ盛られていた。そこにヨハナの姿は一応あった。どこか悲しそうな顔で、そこにいたのだった。いつもは明るいダイヤモンド然としたその瞳は今日ばかりは悲嘆的色彩で満ちている。そのことに礼一少年は少しばかり申し訳なく思ったが、口を滑らせるほどではなかった。


「レイイチさん」


 と、ヨハナは正面に静かに座ってそう言った。礼一少年はスープを一口、匙で口に運ぶとそれに応じた。


「何ですか」


「どうか、私の手の届かないところに行かないでくださいね」


「変わったことをおっしゃるんですね。僕はルメンシスにちょっと行くだけですよ、ミヤシタさんと仕事で」


「そのちょっとが怖いのです。これはただの予感ですが、何だかあなたが凄く遠くへ行ってしまうような気がしてならないのです」


「まるで僕が死ぬみたいな言い方ですね」


 これは、割と不安であった。礼一少年はその不安が現実的な顔になって自分に浮き上がってはいないか心配だった。が、どうやら誤魔化せたようである。


「そうは言っていません。そういう意味ではなくて、すぐそこにいるのに遠くに行ってしまったようになるというか、変わってしまうというか……」


 ヨハナの言葉の最後の方は尻すぼみになってしまった。多分、自分でも何が言いたいのかまとまらなくなってしまったのだろう。しかし、心配していることは伝わった。礼一少年は少しばかりそれに満足した。


「僕は変わりませんよ――約束します。必ずここに帰ってきます。ちゃんと朝は早起きして、昼は働いて、夜はしっかり寝ると約束します。ここであなたと孤児たちのために働くと約束します――神に誓ってもいい」


 ヨハナは切なそうな瞳を驚きからか幾ばくか大きく広げると、柔和な微笑みをもって礼一少年の言葉に返した。その笑みは礼一少年の胸をつかみ、締めつけ、結果心に住み着いた。


 それからすぐに、礼一少年は孤児院の前に止まっていたミヤシタ商会の車に乗った。行き先はコロシアム――殺し合いと騙し合いの園にして、熱狂と絶叫と奇矯に満ちた歪な湖である。




「よう、待ってたぜ」


 と、車から降りた礼一少年を見るなりミヤシタは言った。降りたのはコロシアムの地下にあるガレージへの階段の前だ。地獄への入り口と言い換えても差し支えあるまい。何人の男たちがここに潜り込み、そして飲み込まれていったのか……?


「……おはようございます」


「そう嫌そうな顔をするなよ。俺は今日はすぐ帰るぜ」


「じゃあ明日はずっといるってんですか」


「ほお、明日も会いたいのか。熱烈なラブコールありがとうよ」


 ……数日ぶりに会ったが、二度とこの男と話すものかと礼一少年は誓いかけたが、それはやめておいた。どうせこれから何度も顔を合わせることになるのだろうからだ。そしてどうでもいいことだ、と忘れた。


 それから、今日乗るはずの機体に目を移したのだ。


 鋭いツイン・アイ。茶色を基調としたカラーリング。全身が猛禽類のような輪郭で構成されており、凶暴な印象を与えるがそれは無節操な暴力ではなく、つまり一つの棍棒ではなく、むしろ一つの刃物、例えるなら一振りの刀であった。その証拠に、足まわりは武道の達人が履く袴のように末広がりになっていた(さりとて大きすぎることはなく、全体の均整は取れている)。


 礼一少年は、初めてそれを見たときのように――つまり操作方法をあらかた習ったときのように、それを視界の真ん中に捉えながら言った。


「それにしても、この機体はそちらで使わないんですか? 自衛用の機体があったでしょう? そちらには回さないんですか?」


「もう買っちまったんでな、今更別の機種ってわけにはいかねぇのよ」


 そういうものか、と自分から聞いたくせに無関心にそう感じた。それをミヤシタは緊張していると取ったようで、じゃあな、と一言して礼一少年から離れ、階段を上がっていった。


 礼一少年はそれを見届けた。試合開始は昼だったのだが、こうして早く来たのは早く来いとミヤシタに言われたからだったのに、彼が帰ってしまい、少し理不尽を感じた。しかし、そうこうする内に時間が来たので、礼一少年は係員に言われるままに例の機体に乗り込んだ。それはすでにエレベーターに運び込まれていたのだった。


 ハッチは機体の背中に張り出したコックピットの上にある。それについているハンドルを音がするまで回して、真上に引っ張ってから手前に開けた。そこにあるのは人一人が何とか入り込めるだけのスペースだ。魔力を糧に起動するモニターが三枚ほどついているがこれらは万が一の補助だと教わった。実際にはこれらは使わず、壁面に投影魔法でツイン・アイが捉えた映像を出すのだそうだ。


 それから礼一少年はスティックを握った。そして、足をペダルにおいた。足の上にある操縦桿の、その近くのレバーを思いっきり引いて魔導エンジンを起動。すると、機体は礼一少年の体の延長線上のものとして機能しだした。魔導回路が正常に起動した今、直感的にスティックを動かすだけで、機体は繊細な動きをその操縦者のイメージをトレースして動くのだ。だから礼一少年は目をつぶった。その操縦法の性質上、不用意に動いてしまうのは危険だと教わったからだ。


 エレベーターの上昇が終わったと見て、礼一少年は目を開けた。眩しい太陽が機体を照らしているようだった。目の前にはこちらより一回りほど大きな機体。濃い青に塗装されていて、全体的なラインは鈍いものの、しかしそれが強かな印象も同時に与える。これが対戦相手であるようだ。


 しかし礼一少年はそこに、もっと強大で、もっとどうしようもないものを視界に捉えていた。より正鵠を期すならば、それを捉えたのは視覚によるものではなく、もっと抽象的で、もっと非科学的な論理によるものだった。


 それは彼の生まれ故郷で培われた――そうなってしまった感覚だった。それを刺激するものらは人間のできるあらゆる顔をしてそこに立っていたり座っていたりした。例えば巨人の後ろで、例えば礼一少年の後ろで、右で、左で、上で――流石に下ではないまでも――あらゆるところから彼をジロジロと見ているのだった。それに、彼はたじろいでしまった。その巨大なものは、彼の故郷でのそれを遥かに超えた関与性をもって彼に関わろうとする。


 試合開始! という怒号にも似た声が聞こえた。いや、それはゴングだったかもしれない。あるいは血を求める観客の怒号か。礼一少年はその瞬間に鋭く顔を上げ、意識を取り戻した。そのときには、既に敵機は素早く横っ飛びに回避機動を取り、その手に持った銃のようなもの――正確には「ウィスポーノ」20mm機関魔砲と一般に呼ばれるものを慣れた手つきで射撃してきていた。


 礼一少年は素早くスティックを操作した、のかもしれない。そうだとして、しかし間に合うだろうか。彼の目の前は瞬間的に暗くなり、意識はゆっくりと、遠くへ消えていく。

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