第10話 「今はただ眠りたい」

 その国の特色は、その国の空気の匂いに出るという話がある。匂いの原因や種類を鑑みれば、それは特色というよりは食文化に近いものだろうが、例えば日本なら醤油、といった具合の匂いがするのだそうだ。


 礼一少年は言うまでもなくその醤油の国の生まれだったから、この国の匂いを少なからず不思議に思った。気がついてまず最初に思い浮かべたのはここはヨーロッパのどこかだろうという推測だ。建物の造形もそうだが、どことなくチーズとオリーブの匂いがするのだった。


 勝負に勝ったのに戦いに負けた、と、全く意気消沈して書類を書かされたあと、勝負に負けた腹いせとばかりに礼一少年はかの大男ことニッキー氏に意識を失うまで殴られた。その上で街角に放置されたのだ。書類が役所に提出されたのを(本人の認識としては)無理矢理見させられた後でのことだったから、書類云々を反故にしその口封じのための暴行というわけでもないようで、本当に彼個人の欲望だったに違いない。もちろん満たした方はスッキリしただろうが、満たされた方はこの上なく迷惑な話だ。それにしてもあれだけの大立ち回りとそのあとの殴打で一つも骨が折れていなかったのはただただ幸運であった。


 壁に手をつきながらフラフラと、路地裏を彼の知っている迷路攻略法の要領で出ると、大通りに出た。目の前を車が、自動車らしき物体が通っていた。それはやはり「見慣れた姿」とはまた少し意匠を異にするのだが、礼一少年の語彙ではそれ以外に例えようもないし、きっと彼と同世代の人の誰がそこにいてもそう例えるに違いない。大きな違いは、エンジンから排出されるべきあのいかにも健康に悪そうな悪臭が一切なく、その代わりに綺麗に敷き詰められた石畳の土ぼこりが舞い上がることだった。残念なことにどちらも礼一少年を咳き込ませるものだったのだが。


 それから礼一少年は辺りを見回した。当人としてはその薄汚い格好に視線が集まっていて今すぐにも逃げ出したかったのだが体が痛くてあまり動けないのだ。だからゆっくり遠ざかりながら、その視線を怯えたように見返すしか出来なかった。その特徴的な彫りの深い顔が礼一少年を取り囲むようにジロジロと見ていたが、その内興味を失ったようにそれぞれのしていたことに戻った。とならば、さしずめ自分は平たい顔族と言ったところか、と礼一少年は考えた。そして、元ネタはマンガだったかな、とも考えて、もうそれが読めないだろうことに少なからず絶望した。


 礼一少年の足取りは日が高くなればなるほど遅くなった。礼一少年は彼の個人的性質として暑さに弱かったからだ。この土地の気候はカラッとしていて、まだ蒸し暑くはないのだが、太陽の日差しで直接体が温まるのはあまり快い感覚とは感じられなかった。


 しかしそもそも、足取りなどと書いたが、礼一少年には別段、どこに向かおうということもなかった。目的地というものももたず、ただ街をブラブラするだけであった。取りあえず頭にあったのはその日の宿のことだったが、自分のポケットの全てを漁ってもびた一文も(日本円すらも)出て来ることはなかった。というのも、彼は、元の世界でも、お金を持ち歩くことをしないタイプの人間だったからだ。いくつかの宿屋を回って交渉もしてみたが、彼を無一文と見るや奇妙と侮蔑の目が向いて、丁重に「出ていけ」と言われるだけだった。そうして宿屋から身なりの汚い平たい顔の男が追い出されるのを見た観衆たちの目線を何度も浴び続けられるほど礼一少年は頑丈でないのは、言うまでもないだろう。


 やがて夜がやってきた。その頃には礼一少年は街灯もまばらな郊外へ到着していた。魔法だか魔術だかで出来ているらしい灯りから少し離れると、礼一少年は星空に包まれた。彼は今まで夜というのは空の現象だというように理解していた。夜になると空が暗くなって、人々が灯りを付け出すのだと認識していた。そして今は、それは間違いだったと思っている。彼は夜に包まれていた。空の出来事でなく、空気全てが暗くなったと思っていた。そのくせその中は数え切れないほどの光点で満たされているのだ。


「――もしもし、大丈夫ですか」


 む、とその声で礼一少年は目を開けた。何故目を閉じていた? ひょっとすると眠っていたのか?


 どうやら、あの後、あの不思議な体験にもっと身を浸そうと礼一少年は横になったのだが、昼の暑さから一転して涼しかったものだから往来の端で眠ってしまっていたらしかった。それに気づかない礼一少年ではない。勘が鋭敏すぎて心の中に憶測の虚像まで生むほどなのだから、それに気づかないはずがないではないか。


「よかった、お気づきになられましたか。お宅はどこだか分かりますか? それともお助けした方がよろしいですか?」


 と、先の声の主は言った。ちょうど、目を開けた礼一少年をのぞき込むような姿勢でいる彼女は、どうやら宗教関係者らしく、映画に出て来るシスターのような格好をしていた。

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