第6話 「ゴリアテ」
礼一少年はドアの向こうに逃げ込むと、そこの目の前にあったカウンターのそのまた向こうの、万年筆の乗った机だとかよく分からないビンの入っている薬品棚だとかで雑多としたところに体を落ち着けた。酷使し続けたそれが欲していた休息を得た。金属製の書棚の裏が入り口から丁度隠れるようだったから、そこの裏に腰を下ろして、それにもたれかかった。ふう、とため息すら出たかもしれない。ともかく、このとき初めて、ようやく冷静にかつ安静になれたのだった。出来ることなら少しだけ、具体的には五分ぐらい寝ていたかったのだが、そう出来るほど図太くはなかった。体の痛みもそれを許しそうになかった。戦っていたときは休め休めとうるさかったくせに、と礼一少年は自分の体を詰った。
礼一少年は、何となしに自分の服装を見た。気がついたら誰もいない病院にいて、訳も分からない内に訳の分からない化け物に(正確には彼の方から先に逃げ出したのだが)追い回されて、もう死んでるはずなのに死にかけて、全く気にする余裕がなかった。そうしてゆっくり時間をかけて見ると、黒を基調としたオーソドックスな学ランは、少なくとも袖を見る限りでは瓦礫や埃で真っ白になっていた。それどころか、いくつかの部位は既に破れているらしかった。礼一少年には制服が一体どれだけの金額になるのか分からなかったが、間違いなく買い替えになることだけは分かった。親に何と言ったらいいのだろうか、とか、そういう呑気なことばかり考えた。
どうして死んだはずなのにこうして生きているのかとか、ここはどこなのかとか、そもそもここから帰れるのかとか、そういうことは考えないことにした。全てが非現実的すぎて礼一少年の頭脳からは全くシャットアウトされていた。いや、事態はもっと単純かもしれない。
つまり、それを考えなかったのは、そうするよりも先に軋んだドアの音がしたからだ、ということだ。
ギイ、とドアが開く音すらも、巨人にとっては神経を逆撫でするだけのものだった。もちろん巨人そのものに感情はないのだが、礼一少年ならその所作をそう見たに違いない。しかしいっそのこと蹴破ってしまえば、きっと臆病な礼一少年を誘き出すに至ったかもしれなかったのだ。それをしなかったのは、偏にそれを巨人が考えていなかったからだ。思いつかなかったのではなく、逃げ隠れしているのを――今までのように誘き出されるようにではなく――追い回してメチャメチャにしてやろうとしたのだ。
事実として、礼一少年に最早逃げ場はほとんどないと言ってもいい。今巨人が背にしている階段以外に出口はないことを巨人は理解していた。病院ならいざ知らず、ここには窓だってないのだ(つまりこの建物は病院などではない)。巨人としては、ドア前にジッと留まっていさえすればいい。礼一少年と違って排泄も呼吸も必要ないのだ、そして疲労もない。そういったどうしても動かなければならない負の要素がある以上、礼一少年にはどうしても隙が出来るし、そのくせタイムリミットがあるのだった。
しかし、最初に動いたのは巨人だった。先手を取られたトラウマ……ということではない。人ではないのだから。だからといって、後手に回れば不利になるというどこまでも理詰めな考え……というわけでもない。だがその一方で理詰めという点においては間違っていなかった。巨人に感情が宿っていたのなら思わず笑っていたに違いない。呼吸で微かに動いてそれで物音が立ったり、くしゃみをしたり、そういうことであれば笑いもしない。それは予定してあるものだ。つまり巨人の見つけたそれはとんでもないミスだったのだ。かつ予想外のものだった。多分礼一少年本人としても想定していないだろう。
袖口が物陰からはみ出していた。
言葉にすると実に簡単で、実にマヌケな話だった。きっと一行にまとまるに違いない。もっと情報を付け加えるなら、それが瓦礫か何かで白くなっていたとか、随分と厚手の服だったのだろうとか、そういうことばかりになるのだろうが、それでも三行行くまいて。あまりに小さくしょうもないミスだったが、勝敗や生死を分けるものというのは概してそんなものだ。
巨人は腕を回して暖めるように動かした。左腕だ。書棚ごと、丸太のような太くて頑丈な腕で貫くつもりだった。確かに策を弄してもよかった。例えば、一瞬気を逸らしたように見せて油断を誘うのも悪くはなかった。そこから行われるだろうしかるべき反撃を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのもよい。しかし物事はよりシンプルに行われるべきだ。倒せるときに倒す。あのときと違って今は左手を出せるのだから。あの得体の知れぬ幸運と生命力は危険だ、と巨人は認識していた。ここで始末しなければならない。
巨人は足をズンズン踏み鳴らして書棚の前まで進んだ。机を蹴散らし、書類を撒き散らし、風を切って、助走の勢いそのままに振りかぶって叩きつけた。大きな振動が床を揺らした。いつかに巨人が階段から墜落したときのようだった。埃が落ちてきて、灯り(礼一少年なら蛍光灯と例えるだろう)がいくつか、そこかしこで割れた。書棚は大きくひしゃげるどころか大穴を開けていて、中のものが全て辺りに散らばっていた。それと同じようになっていたのが床だった。オリカルクム製の拳の直撃に耐えられるはずもなく、爆弾でも爆発したみたいに床下――いや、最早階下が見えていた。
そう、つまり、そこには「何もなくなっていた」のだ。「初めから何もなかった」かのごとく。
巨人が気がついたときにはもう何もかも手遅れだった。右側頭部に何かが当たった。先手を取られた、と焦ったように振り返った先、その巨人の歪んだ視界の中央にこそ礼一少年はいた。巨人はすぐに、彼が上着を着ていないことに気づいた。最初から礼一少年があの位置で息を潜めていたとするなら、あの上着は完全にブラフだったのだ。冷静になって考えれば、全く初歩の初歩であった。あんな分かりやすい、わざとらしい罠に引っかかるとは!
しかし礼一少年は何かモノを――ビンやら雑多なペンやらを投げるだけだった。ビンは割れこそすれ、その破片は巨人には効果がないし、大抵の薬品にオリカルクムは耐えられる。ペンなど言うまでもない。巨人は安堵と、少しばかりの落胆をもって構えた。グググ、と関節が鳴る。左拳は既に反動で指関節部がイカレているがそれほど問題ではあるまい。人一人殺すのにそれほど困るはずがない。
礼一少年は何度も無駄な抵抗を続けているように巨人には見えた。絶望的だったと言ってもいい。最期の賭のつもりか、終いには机からハサミを出してそれを投げていた。巨人はわざと、あざ笑うように動かないでやった。投げるものがなくなったと同時に暴力的なまでのパワー差を彼の肉体に叩き込んでやるつもりだった。
しかし、彼は突如として不思議なことをした。いや、何もしていなかった。「何もしない」を「した」。それは確かに巨人の望んでいたことだったのだが、投了の仕草のようではなかった。むしろ、王手を突きつけたように――見えなかった。
巨人には何も見えなかった。視界が真っ赤になった。あるいは真っ黒になった。真っ暗だった。光源があれだけ残っていたのに、突然何も見えなくなった。視覚センサが死んだのだ、と見えないのに分かった。いや、見えないからこそだが。しかしその原因までは分からなかった。ハサミが直撃した? それとも損傷が重なりに重なって?
……いや、そのどれでもない!
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