第5話 「死が迫っている」
巨人は礼一少年の首をその右手で挟み込むようにしてそのまま押し倒した。両手で締めなかったのは単にスペースが足らなかったからだ。しかし、ただでさえパワーの差が大きいのだから、礼一少年がそれに抵抗するだけの余裕はなかった。その圧倒的パワー差が圧倒的重量差と圧倒的位置エネルギー差とのタッグを組んで礼一少年の細首に襲いかかったのだ。巨人は階段の角に膝を突いた体勢でのしかかっていたから全体重でこそないが、それでも礼一少年の体重とほとんど変わらないぐらい重いか、遥かに重かったに違いない。
礼一少年は、頭に血が通わなくなっているはずなのに頭が水風船のように膨らんでいくように感じた。事実として、それは錯覚でしかなかったし、主観でしかなかった。しかしながらそれは死の兆候だったし、そうでなくても自分の首から聞こえるコンクリートのひび割れる瞬間を十秒ぐらいに引き伸ばしたような音と、背中に階段の角が当たってゴツゴツとするのは間違いなく幻想なんかではなく、現実的危機だった。それらもゆっくりと遠くへ消えていくような気がした。その「遠く」はどうしようもなく遠くで、取り返しのつかないところのような気がした。でもその割には一度行ったような気がした。そして、二度も行きたくないと思った。
礼一少年はそのとき、自分が瓦礫をつかんでいたことを思い出した。手当たり次第につかんだものだったから偶然ではあるが、それは打製石器のように鋭く尖っていた。
しかし、それがどうだというのだろうか。敵は金属製。まず基本的大原則として、金属をコンクリートが貫くようなことがそうそう起こり得るだろうか。そもそも、上の階から落ちてきたのに、赤い、礼一少年から見て右の瞳が失われた以外は傷一つ付かない、つまりボディは無傷であったような「化け物」である。神話や物語のゴーレムみたいに、額の文字を書き換えればいいわけでもなさそうだった(そもそもその額に傷すらつけられまい)。礼一少年は薄れ始めた意識の中で必死に目を動かして見回した。その目すら、既に破裂せんばかりのように感じた。顔中の血液と神経が大きく膨れ上がって端の方ではもう破れ始めているような気がした。視界の端から立ちくらみのように暗くなって来た。最早どうこうできるはずがない、と礼一少年は苦し紛れに相手の右腕に瓦礫を叩きつけた。最期の悪足掻きだ。いたちの最後っ屁というやつだ。尖った先端が奇妙な音を立てて砕けていった。しかしその音は礼一少年にはもうほとんど聞こえていない。
目の前一杯に広がっているのは、巨人の無機質な顔面だけであった。それすらもゆっくりと近づいてくるような気がした。そんなはずはないのに。それから次第に、自分の呼吸が楽になって、そのせいで咳き込んだ気がした。咳のような音は、ゆっくり迫ってくる。何故か自分の中から聞こえる。体を反射的に、腰を曲げたエビのような体勢にしていた。咳をするのにその方が楽だからだ。それが収まってから、すうっと胸一杯に息を吸ってみた。息が上がっていた。喉に何かが引っかかったまま呼吸しているような気分だった。
何が起こったのか、という表情で礼一少年は巨人を見た。目の前には既にいなかった。礼一少年の左側に右肘を突いて擱座していた。いきなり鳩尾を殴られたようにうずくまっていた。礼一少年が何も理解していなかったように、巨人側も理解していなかった。
巨人からしてみれば、突然に右肘からの信号と右肘への指令が閉ざされてしまったのだ。そのためにそこから先への力が抜けて、首の拘束が解けてしまったのだ。まず原因として疑うべきは内部のコードの断線だが、通常なら関節にカバーの装甲が張られていて、それであんな瓦礫程度防げるはずだった。どれだけ尖っていたって、このオリカルクム製の装甲板は同じオリカルクム製のものでしかそうそう貫けない。そのはずなのだ。
カバーさえあれば。
ハッとしてそこを確認した巨人は、そのカバーに小石のようなものが挟まっているのを見た。あの数撃で挟まったはずがない。ああいう状態にはカバーは通常、閉まっているものだし、動くのは曲げているときだけだ。と、なると、落下したときに偶然曲がっていて、曲げるときにどうしても出来る隙間に偶然細かい瓦礫が挟まって、そこに瓦礫をぶつけられて断線したのだろうか。
そうして考える内、今度は巨人が少し呆けてしまった。右手がダメになったのならすぐに左腕で追撃すればよかったものを、その機を逸してしまった。礼一少年と巨人は、礼一少年が咳き込んだ後しばらくはお互い死んでしまったように固まっていたが、礼一少年の方が先に気がついて、押さえ込みの隅から抜け出した。彼は背中をガツガツとぶつけたが、不思議と痛くない。アドレナリンが出ているに違いない。ふと、踊場で礼一少年は振り返った。怒り狂った巨人の歯ぎしりが聞こえたような気がしたからだ。事実はもちろんそうでなく、乱暴な使い方をした巨人の関節がいい加減限界ギリギリに近づいて、立ち上がるだけでも軋むほどだっただけだったのだが、礼一少年にはどうしたってそう見えた。足が竦んでいた。さっきまでと、何かが変わったような気がした。違いを探そうとした。その内に礼一少年は、手負いの虎という言葉を思い出して身震いした。そのとき巨人と目が合った。瞳の赤は煉獄どころか、人類が経験したことのないような色に染まっていたように見えた。礼一少年はハッとした。巨人はもう使い物にならない右腕を引きちぎろうとしていた。飛び道具にするつもりらしかった。既に何本かのコードだけで繋がっているだけのようだった。
恐怖ではなく危険を感じた礼一少年は、回避を兼ねて下の階段へ走った。その瞬間に、背中に衝撃が走った。かすったに近い当たりだったが、礼一少年はそのせいで足を踏み外した。アルマジロのように前へ転がるようにして、何とか勢いと衝撃を逃がそうとした。動きが止まったのは最後の段の下でであった。体中が終戦工作と厭戦ムードと反戦運動を繰り広げていたが、残念ながら、礼一少年はその点ではどこまでも独裁者だった。トドメと言わんばかりに直上から飛び降りてくる巨人が見えたときには、その体の中の勇気ある小市民を皆殺しにしていた。そして、またも転がるようにして――ただしアルマジロというより今回は芋虫のように――避けた。すると、先ほどのように床が抜け、巨人だけが下へ落ちていった。そして、それがさっきよりはまだ少しだけ格好よく着地するよりも、礼一少年がその階に逃げ込む方が早かった。巨人はのっそりのっそりと階段を上がると、先ほど抜かした床を避けるようにして立って、その階のドアを開けて、中へ入っていった。
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