第2話 「病院、あるいは」

 礼一少年は、不意に目を開けた。いや、これは自由意志ではなく、開いたという方が近い。それは、タイヤをロープで腰に縛り付けて走っていたところに現れてロープをぶった切ってやったような感じだった。急にさっきまで持っていたダンベルが軽くなったような感覚だった。それから彼はしばらくぼうっとしていたが、すぐに思い出したように左のわき腹に触れた。


 が、そこには変わったことは何もない。手がモミジのようになることもなかったし、あの特有の痛みもなかった。次に首筋に触れた。ここにも、変化はない。病院にかつぎ込まれて助かったなら当然あるはずの包帯だとか何かしらの手当てのような感触もない。


 その無傷の首を傾げながら、礼一少年は辺りを見回した。そこは、やはり病院のベッドのようであった。彼の乏しい人生経験に照らし合わせたって――実のところ一度も入院するようなこともなかったのだが――これはどう見ても病院だった。白い飾り気のないベッドに、仕切り代わりのカーテンが調和している。彼の知識と相違するのといえば、テレビがないことぐらいか。それに何だか全体的に古びたデザインだという感じがした。


 というよりも、全体的にボロそうだ。実のところカーテンは真っ白ではなく黄ばんでいて、ベッドもところどころそういうところがあった。何かしらを入れるべき棚に至っては何かを入れた途端に崩壊しそうな感じだった。礼一少年は頭にハテナをいくつもぶら下げながら、ただしばらくは辺りを見回しているだけだったが、その内にカーテンの隙間から外側を伺いに行った。外も、やはり同じように病院然としていて、同じくカーテンで仕切られていた。個室じゃなさそうなのは何となく分かっていたが少し残念な気分だった。


 そのまま潜水艦の潜望鏡のようにめぼしいものはないか眺めていたが、外から足音が聞こえた――そういえば、この部屋には妙に頑丈そうなドアがあった。何故これだけは頑丈なのだろうか――。礼一少年は何となしに少し開けていたカーテンを閉め、ベッドに寝転んで、布団を被った。もしあの足音が看護士さんや医者なら、立っていたら怒られるんじゃないかと思ったのだ。病院だとするなら、大人しくするのが正しいからだ。


 だがもっと正しくして、そのまま寝つくようなことはしなかった。何かが頭の中に引っかかっていた。その感覚は、程度はどうあれ実のところもう経験しているものだった。つまりギラギラとしたビー玉のような幻覚を感じたのだ。不吉なパーカー野郎がすぐ後ろに立っているように感じて振り返ったが、ひび割れた壁しかなかった。頭の中は言いようのない焦燥感とウズウズとした危険信号で溢れかえらんばかりだった。何がなぜ引っかかっているのか分からないのだから、それはますます大きくなっていった。


 まず、礼一少年は部屋の中にあるものを全て頭の中で点検した。古びたベッド、汚れたカーテン、吹けば飛ぶような戸棚……。違和感はあるが、どれもそう大きな要因ではない。何か危険なものが隠れたり見つかりにくくなっていたりというのは考えづらい話だ。すると少年は次にカーテンの外を考えた。そういえば、他のカーテンの中(全て閉ざされていた)は確かめていなかった。もしかすると、そこに例のアレがいるのか? 一度刺されているから、感覚が鋭敏になって感じ取れたのか?


 いや、と少年は頭を振った。確かに危ないのは間違いがない。が、例のアレとはどうにも違う類のもののような気がした。仮に同じ分類だとして、全く同じということはあるまい。


 大体、一度刺されている――死んでいるのにこれは何だ。この状況はそもそも一体どういったわけだ。死んだはずなのにこうしてグルグル頭を巡らせているのはどういう理屈だ。それに、その巡らせている理由すらも生き残るためという倒錯ぶりだ。もう死んでいるのに。


 考えすぎて重くなった頭を抱えて、枕に埋まってみた。


 胡蝶の夢、という言葉があったな、と礼一少年は思った。簡単にいえば夢が現実で、現実こそが夢だったという言葉なのだが(礼一少年の解釈でいけば、ということである)。この十六年間の全て、即ち産声を上げてから悲鳴を上げる間もなく死んだ(はずの)瞬間までがすべて夢だった、ということになるのかも知れなかった。そうと分かると、やはりあの悪夢のような日々がどうしてあんなに悪夢じみていたのかがようやく分かった気がした。


 コツコツという硬質な足音が外からゆっくりと迫る。しかしその一方で礼一少年は眠ろうとしていて、現実は遠ざかっていく。不可解なことはこっちの方が多いが、アレが夢だったという方が遥かに都合がいい。その幻想に身をゆだね、遥かに遠くの夢に(もちろんあの悪夢にではない)旅立とうとした。


 の、だが。


 礼一少年ははっと目が覚めた。原っぱに寝転んだらそこが中世の戦場のど真ん中だったような気持ちだった。それに砲弾が近くに着弾するまで気づかなかったのだからマヌケだ。礼一少年が思い出していたのは、ここの部屋のドアだった。童話だったら狼に吹き飛ばされそうにボロいこの部屋(あるいは建物)の中で唯一と言えるほど頑丈なものだったはずだ。


 じゃあ、なぜそこから音が聞こえる?


 そもそも、人間の足音は、こんなに大きなものだったか?


 すると足音は、ピタリと部屋の前で止まった。

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