転生少年機人剣闘活劇 コロシアム

柘榴亭払暁

第一幕 「中島礼一という少年」

第1話 「ビー玉と西日」

 礼一少年は、自分が昔は随分と素直だったように思った。植え込みの中に隠すように捨ててあったペットボトルを拾おうか迷って、すぐ後ろの、誰ともつかぬ視線に気づいてやめたときのことだ。


 初夏特有の日射しが強い中、難儀なことだが学生であったから、歩いて家まで帰らねばならなかった。中学校のときはもっと家が近かったからこういうこと――つまりポイ捨てを見つけることも少なかったし、こうして後からグチグチ悩む時間もそう多くはなかった(その時間を友人と寄り道することに使うことが多かった)。何より、迷わずに拾っていたに違いなかった。何も考えずに素直にそうしていただろうに。


 だが、今、礼一少年はそうしなかった。高校生になるまでに何があったわけでもなく、なってから何かがあったわけでもない。高校のクラスメートたちとも上手くやっているつもりだし、家族との関係も(この年頃にしては珍しいかもしれないが)良好だった。


 だから、礼一少年に何らかの変容があったわけじゃなかった。ポイ捨てだとかの、一般的な悪徳に対しては敏感であったし、彼の、良識に対しての一種の信仰心のようなものは人一倍強かった。誰かのために、と言われると進んでやるタイプだった。


 ただ、何よりも恐ろしいものがあった。何よりも恐れるモノがさっきはすぐ後ろにいたのだった。礼一少年は、他人というものが全く怖かったのだ。いつからかのことかは最早彼自身も知らないことだ。下手すれば、おぎゃあと生まれたときに既に埋め込まれたモノかも知れなかった。


 彼にとって、他人がどう見るかとか、場のノリとか空気というものがどうにも頭痛のもとになるのだった。そういった不文律を踏み外したときの視線が(自分が体験したものじゃないものにしたって)怖かった。その上、人の笑い声は彼にとっては猛毒だった。礼一少年は、自分では何も間違ったことをしていないと思っても、実は何かおかしいのかも知れない、と思う人間だった。今この暑いのに冷や汗をかいているのはそういうわけだった。


 だから、その内に、もしかしてあのペットボトルを拾おうとしたことに気づかれていて、拾わなかったことを咎めるように見られてはいないか、というように思い始めた。ジワジワとした暑さのせいか、何かが後ろから迫ってくるような気がした。ペットボトルの幻覚を後ろに感じていた。息が苦しくなるほど思い詰めてはいなかったが、礼一少年はその内に怖くなって、走り出していた。家に一直線というわけではなく、あてのないフラフラとしたルートだった。そこかしこにある見えない怪物から逃げるのだから、そりゃああてがあるはずもない。


 季節はずれの落ち葉のようにうごめいてから落ち着いたのは、近所の公園の中にある小さな高台の上だった。なかなか見晴らしのいいところで、この時期は虫が多い代わりに他のどこよりも爽やかで孤独で静かなところだった。でも高台の上は日を遮るものが全くないから、礼一少年はだんだん暑くなって、帰ることにした。その頃には既に日が暮れようとしていた。何もしないまま一日が過ぎていくのを見て、少しぞっとした。




 例の公園は、実は家から反対方面であった。正規の帰り道なら通らないはずのガソリンスタンドの横の道を抜けると、学校も面している大通りまで出た。ここを右に曲がれば学校があるのだ。そして、正面の横断歩道を渡れば、家に帰れるのだ。


 その件の真っ正面に、ボンヤリと立つものがあった。背は高く、髪はスラリと長かった。街路樹の並ぶ道だったから、ともすればそれらと勘違いすることもあっただろう。しかしこの時期のそれとは打って変わってそれは枯れ木のように見えた。体の芯だけはピンと張っていて、飾りのない雰囲気だった。事実、枯れ木男がこの暑いのに着ていたパーカーは真っ黒だった。無地の、である。その上でフードを被っていた。


 信号が赤から青に変わっても、枯れ木男は一歩も動かなかった。そこの一角だけ時間が止まったようだった。それと同様に、礼一少年も動かなかった。いや、動けなかった。彼にとって凶器のように感じられるような他人の奇異の目がどれほど自分に向いていようと、彼はそれよりもっと別の類の、もっと危険な視線を見破っていた。それは、フードの中からの、機械油か何かでドロドロにしたビー玉のような瞳。


 ――何かがヤバい。


 それに気づいているのは自分だけじゃないが、気にしているのはもしかすると、自分だけだ。その証拠に、自分へのそれと同じぐらいの数の、同じ類の視線がその不気味な虚に向けられているのに、誰も逃げようともしない。日常というパラパラマンガの、奇妙な作画ミス程度にしか思っていない。多分、明日には忘れている。


 手練れの剣士同士が間合いをさぐり合うように、彼らはそうしてしばらくにらみ合っていた。一秒が一時間のように感じた。西日がひりひりと礼一少年の肌を焼いた。生憎と、フードのついたような制服を採用するようなアバンギャルドな学校ではなかった。礼一少年は、まるで例の彼と自分としか世界にいないんじゃないかと錯覚した。信号待ちの車のエンジン音。地下鉄の地鳴り。人の雑多な話し声。それらがシーンとした沈黙にしか思えなくなっていた。


 そのとき、ふと、彼は自分がアスファルトに横たわっていることに気がついた。あれ、と声を上げると、左のわき腹に違和感があった。筋肉痛のようなものだったが、今まで経験したそれとはまるで違っていた。手をそこに当ててみると、それは真っ赤に染まった。秋には早いがまるでモミジのようだ、と呑気に思った。そこから視点を信号の向こう側に向けると、それを遮るように街路樹が立っていた。こんなところに、元々は何もなかったはずだ。顔はもう重くて動かせないから、視線だけを向けた。すると、ギラギラしたガラス玉が彼を見下ろしていた。このときようやく、枯れ木男にナイフか何かで刺されたのだ、と礼一少年は気がついた。


 枯れ木男は辺りを見回していた。礼一少年は、彼が最初は何をしているのか分からなかった。音はもう聞こえない。目だって霞んでいて、そもそも、これを枯れ木男だと気づいたのだって奇跡のようなものだった。しかしそれがニヤリと笑った途端に、ゾクリとした。そしてはっきりと、自分が何をすべきか分かった。礼一少年は、それの足にしがみついた。彼に気づいたときにするべきことだった。遅くとも刺された瞬間にするべきことだった。今更にもほどがあった。しかしそれでも組み付いた。腕は何トンもの重さに感じられたが無理矢理にしがみついた。枯れ木男はすぐに彼の方を向いた。だらしなく力の抜けている腕を蹴落とすと、その首筋にナイフを当て、ピッと横に引いた。礼一少年は自分の首の噴水を押さえることもせずに、ゆっくりと意識が渦潮の中に飲まれて潜っていくのに任せた。


 西日が、ゆっくりと、ビル群の陰に消えていく。

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