ラビの魔

キュバン

第1話

 寝静まった夜、私は実行に移すことにした。閉まりきっていないカーテンの間から部屋を覗き見る。埃被った古書たちは月明かりに照らされ、どこか物寂しげだ。そこに人の気配はなく、家主はすでに夢の中にいることを伝えている。


 しめた、今こそチャンスだ–––


 円切りカッターを手に取り、窓に貼り付ける。緊張からか、手の震えが止まらない。レバーを回そうと力を入れても、力任せにただ押すだけではなかなか動かない、焦りからか乱暴に揺らしてしまいガタガタと音を立ててしまった。深呼吸、深呼吸、一度落ち着こう。ゆっくりとレバーを押し込み、穴をあける。過呼吸になりつつも、どうにか平静を取り戻す。少しめまいがしたが、ここまで来たらもう引き返せない。


 開けた穴から手を伸ばし、窓の鍵を開ける。脚をかけて勢いよく侵入する。めぼしい本を漁り、適当に手にとっては棚に戻す。これは面白そうだ、いやいらない、やっぱり欲しい。そんなことをを繰り返し考え、ようやく7、8冊ほど獲物を選んだところで私は踵を返し、窓に向かおうとした。そのとき、部屋の角の床に無造作に積まれた本の山が目に入った。先ほどまであまり注意していなかったが、他にもこのような山は複数あるようだ。その山の一番上に積まれていた本は月明かりで輝き、通常のものとは違う様相を呈していた。中央には大きく「ルバイヤート」と振られている。気になってしばらく読んで見たところ、どうやらこれは詩集らしい。前書きのページに戻ると、11世紀のペルシアの学者『オマル・ハイヤーム』の書いた四行詩であることがわかる。しばらくすると、角が折れているページがいくつかあることに気がつき、そこを開いた。


134節

 酒をのめ、マハムードの栄華はこれ。

 琴をきけ、ダヴィデの歌のしらべはこれ。

 さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう

 今さえたのしければよい――人生の目的はそれ。


「ダヴィデ」。そこにだけ蛍光ペンで色が塗られている。ダヴィデとは誰なのだろうか?歌のしらべはこれ、そう言わせるほどの美声の持ち主らしい。一体どんな——


「おや、こんな時間に...そこにいるのは誰ですか?」

しわがれた声で離れたところから声をかけられる。額が冷たくなり、全身から汗がとまらない。まずい、逃げなければ。そう思ったが、体は動かなかった。

「その本をお求めですか?でしたら、また昼にいらっしゃい。」

ぎこちない顔で振り向く。非常に濃く長いヒゲを生やし、後頭部のみを隠す帽子を被った老人が机に座りこちらを見ている。その表情は柔らかく見え、なぜだかホッとした。手に持っている本を全て置き、その老人の元へゆっくり近づいた。

「君の名前は?」

「...ラビ、ラビ・スレイマン...です...」

重い口を開き答える。それを聞いた老人は小言で何かを唱え始めた。祈っているようにも聞こえるが、何を言っているのかはわからない。

「いい、名前じゃないか。部屋の中に入りなさい。」

従う以外の選択肢など当然存在せず、私は中へと通される。部屋の中央にある机の上に燭台が置かれ、軽快な音を立てたマッチによって火がともされた。代わりに電灯が消され、老人は何かを読み上げ始める。それはだんだんと歌っているかのようにリズムをとりはじめ、笛のようなものも取り出した。音は徐々に大きくなり、終いには隣人のことなど気にしていないかのようであった。


 しばらくして音楽は止み、電灯がつけられる。ろうそくを消した老人はこちらに微笑みかける。

「何か私に聞きたいことがあっても、何か私に謝りたくても、また明日来なさい。」

私は出口からゆっくりと外に出た。明日、どうやって謝ろう。何時頃に伺おう、なんて言おう。そんなことを考えながら、私は月に照らされて家へと戻った。


 両親は寝床についていて、起きる気配はない。自分の部屋まで音を立てずに移動し、布団をかぶる。明日以降どんな顔して生きていこう、私はアンラ・マーユに取り憑かれてしまったのか。この罪をどのように償おう。あれやこれやと考えを巡らせて、いつしかすでに日が昇っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る