異世界案内人

乃生一路

異世界案内人

「私は異世界案内人────現在いまんでしまった人々を、なにもかもが新鮮な新世界へと案内して連れて行くのを至悦とする者です」


 名も知らない少女が、にこりと俺に微笑んだ。鈴鳴りのような、澄んだ声。

 ビルの合間からこぼれる光を浴びて、さながらスポットライトに照らされる演者のように、彼女は両手をあげてクルリとまわる。

 そして俺に向けて今一度の笑顔を浮かべ、熱に浮かされたように高揚した口調で話し始めた。


「ある少年は、可愛らしい女の子たちに囲まれた生活を望んでいました。だから私はその少年を案内しました。そこで少年は一から始まり―― 一からというのは受精卵のことですよ――同じ年頃の可愛らしい女の子と幼くして懇意になり、成長してからはもとの容姿は影も形もない、誰もが羨む様な美青年に育ち、同じく美しく成長した幼馴染と旅に出ます。そこで彼は、次々と、それこそ国を傾かせるような美女たちと出会いました。彼は、多くの国を脅かし続けた魔王を倒し、英雄として称えられて、誰も彼もに尊敬され続けたままその生涯を閉じました。素晴らしい、話でしょう?」


 小首を傾げて、少女は俺に尋ねる。俺はなにも答えず、応えられず、しりもちをついていた。少女の顔は相変わらずにこやかで、少し、血の匂いが混じっていた。


「ある青年は、漠然と英雄になりたいと考えていました。けれども、それまでの生涯が彼が英雄になどなれないことを証明してしまっていました。そもそも世界は魔物に脅かされてなく、いたって平和です。それは青年の生活の範疇の平和ではありましたが、それでも青年の世界が平和なことに変わりはありません。英雄になるには、もっともステレオタイプな英雄になるには、悪者を倒さねばなりません。それも、謀略というある種の婉曲的な方法ではなく、剣を握って真正面から堂々と打ち倒さねばなりません。そしてそれを観測する仲間達が、彼を英雄だと称えなければなりません。けれども、青年の生活には、悪者はいても、はっきりとした悪者ではありません。剣で倒そうものなら、裁判沙汰になって法に裁かれ、世間から後ろ指を指されてしまいます。だから私は案内しました。そこで青年は、とっておきの聖剣を手に入れて、魔剣を巧みに操る魔王を、何時間にも及ぶ死闘の果てに滅ぼしました。そして彼は英雄へと……どうです、羨ましい、話でしょう?」


 ぴちゃり、と、少女の足元に血が滴り落ちる。それは、少女が片手に握る刃物から墜ちていた。言葉が出ず、口からは空気だけが洩れた。


「ある学校の生徒たちを、まとめて案内したことがあります。彼らは、思春期特有の妄想の殻に閉じこもっていました。男の子はヒーローに、女の子はヒロインになりたがっていました。だから私は、その望みを叶えるために、彼らをみーんな、天と魔の術式が相対する世界に送りました」


 少し前、近くの学校で、とあるクラスの生徒が、その担任も含めて皆殺しにされていた事件があった。現場は酸鼻極まるものだったらしいと聞いている。

 肉食の猛獣が、そのクラスにだけ放し飼いにされたかのような。

 そんな凄惨さだったと、そのときの警察関係者がメディアに漏らしたらしい。ベテランの警察ですら嘔吐をしていた、と。


「あるお嬢様を案内したこともありますよ。彼女は恵まれすぎていました。多くを与えられたがゆえに、決定的な欠落をひとつしてしまっていた。そう……飢え、です。人は欲とともにある生物です。なのに、そのお嬢様からは欲が消失していました。食欲も、性欲も、睡眠欲も、物欲も……なにもかもが。だから、送りました。この世界とは比べ物にならないほどの物量があり、決して満たされることのない世界に」


 数日前、一人の少女が帰り道に事故死した。その子は、良いところのお嬢様、大企業のご令嬢で、送迎の車があるほどに豊かな暮らしをしていた。帰り道に運転手が運転を誤り、崖に転落したとか壁に激突したとかで、車はグシャグシャになり、彼女もグシャグシャになった。ただ、おかしなことに、その子も、運転手の死体も両方とも意図的に切り刻まれたかのようにひどく傷んだ姿だったと聞く。これは友人がそのまた知り合いの警察官に聞いた極秘の情報らしい。交換条件はジュース一本ではあったが。

 その子は、俺とは違うクラスだった。けれども、彼女は違うクラスの俺にも弾んだ声で話してくれた。とても欲の消え失せた人間とは思えなかった。彼女は、この世の大多数の人と同じく、人間らしい人間だった。今でも彼女の喪失を思って泣く生徒達の姿が浮かぶ。

 俺も、その一人だった。


「見ればあなたは、今を退屈しているご様子です」


 バチャバチャと、少女は歩き始める。俺に向かって。足元の血だまりを楽しそうに踏みつけながら。


「分かりますよ、その気持ち。いくら親しい友人だろうと、毎日会えば退屈です。いかに面白い本だろうと、幾度も読めば新鮮みが薄れていきます。いかに素晴らしい日々だろうと、次第に慣れて、その変化のなさが苦痛と化します。いかに素晴らしい世界だろうと、それが現実であるならば途端に夢のないものとなってしまいます。しかしこれは異世界には当てはまりません。現実いまこそが、つまらないのですから。この世界は生きるに退屈です。生命ある者は皆、日ごとに澱を溜め込みます。倦怠という名の澱を……だから発散させなければなりません、異世界ではあなたが澱を溜め込むことはありません。退屈とは無縁になります」

「う、うあ……。っ……!」


 なんとか身体を起こして、後ろに向かって俺は走り出した──「みんな、異世界へと案内しました。そこで彼らは、彼女たちは、素晴らしい出来事に出会ったのです。尊敬される人間へと変化を遂げたのです。私は異世界案内人……あなたを、あなたの退屈から救うもの……」逃げて、逃げて、逃げなければ──「逃げる。なぜ、逃げるのですか。きっと良い体験ができますよ。なにに未練を感じるのですか。家族ですか、友人ですか、恋人ですか、学校ですか、財産ですか、ペットですか」あの少女に、あの足元に転がる人のかけらのように──「すべてを棄てておしまいなさい。それらはあなたを束縛しますが、あなたを幸せにしてくれるわけではありません。それに反して、異世界は正直です。すべてがあなたに都合のいい、夢物語のような世界。夢見るあなたに、相応しい……お金があれば奴隷が買える世界に行きますか? 剣の腕で社会的地位が決まる世界に行きますか? 魔法文明が発達した世界に行きますか?」殺される。あの殺人犯に、殺されてしまう。


「あなたは、今に退屈しているのでしょう?」

「来るなあああああああああああああああ!」


 叫び、俺は走った。ビルとビルの間にクモの巣のように広がる路地を、ひた走った。なのに、背後から聞こえる少女の声が離れない。歩いているはずの少女が、全力で走っている俺に追いついている。ありえない。ありえない話だ。


「私には分かります。あなたのその眼が、語っていました。ああ、なんと世界は退屈で、どうしようもなく退屈で……、って!」


 おかしい。おかしいおかしいおかしい。

 道が、終わらない。

 さっきからずっと路地を走って、大通りに出ようとしているのに。一向に出ない。まるで、同じところをぐるぐると廻っているかのような。


「だからあなたを、案内ころしに来ました」


 少女はひときわ弾んだ声で言う。ほんとうに、自分の行いになんら疑問を持たない者の朗らかさだった。ともすれば、真実それは善意なのかもしれない。

 次第に息が切れて、走るペースが落ちてきて。

 脇腹に走る激痛に耐えかねて俺は立ち止まり、ふと、後ろを振り返った。


「ようこそ。異世界こちらへ。さようなら」


 刃物を振り上げた少女が、俺を見て、笑っていた。

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