メンタルシェアハウス

不知央人

#1 満(みつる)

 16時。雨が降っている。でも傘は家に置いてきてしまった。

 今朝にSNSで友人から送られてきたメッセ―ジには今日は一日中、雲一つない晴天が続くと書いてあったし、何より私はあの傘が嫌いだった。ピンク色で、白のストライプが入った、いかにも女らしいデザインが悪寒を走らせる。

 この制服もそうだ。ベージュ地でタータンチェックのリボン、同様の柄のスカート。団体に所属するために強いられる窮屈さは、大嫌いだと叫ぶ気力すらも奪った。

 お前は女だ。私の心以外の全て、身体も、服装も、家族も、友人も、環境も、法も、国も、その全てが私にそう言っている。

 私の数少ない味方のひとつは名前だった。その表記を見ただけでは、男女の区別がつけられない響きで、名前を呼ばれることは好きだった。

 私は女だ。そんなことは分かっている。胸はわずかながらも膨らんでいるし、月経だってくるし、女子トイレにも女子更衣室にも入ることが許される。

 私は私を受け入れられずにいた。その事実をひた隠しにして、私は周囲の望む存在でいた。

スカートのポケットからスマホを取り出し、大外れの天気予報を報道した友人へメッセージを打ち込んだ。

『雨降ってるじゃん。水川天気予報あてにならない』

私が高校生活2年と6ヶ月で手に入れたものといえば。

絵文字や、「笑」を文末につけなくてもメッセージを送り合えるような友人。引退するまで、引退してからも、会うと抱きついて挨拶してくれるバスケ部の後輩。テストで良い点数を採るとその調子って声をかけてくれる先生。学校からの帰り道、迷子になっていた小さな男の子がいて、一緒にお母さんを探していたら、同じクラスのお調子者の男子がなかなか家に帰ってこない弟を探していて、2人は兄弟だと分かって、お礼にくれた学校の屋上の鍵。家に帰って改めて鍵を見て、よくできた話だなあ、なんて思いながら苦笑いしたのを覚えている。

次の日の朝、クラスで私は迷子を守ったヒーローになっていた。鍵のことは黙っていてね、とお調子者が耳元で言った。私の肩に手を置いて、耳にかかった吐息で鳥肌が立った。うん、と返事をするだけで精一杯だった。思い出すと今でも肩が震えて、だから屋上の鍵は机の奥にしまった。お調子者との約束は守っているが、それ以前に私は屋上への階段を上ったことはない。

「満?」

誰もいない教室で1人、立ってじっと窓の外を見ている私に入り口から声がかかった。

「あ、中川」

もうひとつ手に入れたもの。手に入れたというか、彼が自ら私の支配下に潜り込んできた、というような表現が適当なのかもしれない。

人生で最大の誤算、思わぬ登場人物、信じがたい存在、きっと最初で最後の男女交際。

「苗字で呼ぶのやめてってば。2年も付き合ってるのにさあ・・・」

可愛らしく、あざとく、下唇を突き出して怒るその表情は、2年間も一緒にいると順応してしまって、ああ、こいつはこういう人間なんだ、これをやるために生まれてきたんだと思えるくらいで、今更女々しいとか、ましてや素敵だなんて感じなかった。

「いいじゃん。なんて呼んだって。うちの学校で中川は1人だけだよ」

「何でそんなこと分かるんだよ。学年でならまだしも、他人に関心を示さない満が、学校中の生徒の名前なんか把握してる訳ないでしょ」

「いや、私は知ってるんだよ。実はうちのおじいちゃんは理事長で、生徒の名簿は私もいつでも見られるし」

「え?」

「嘘だよ。ばーか」

中川は眉間にしわを寄せて教室に入ってくる。2年生でクラスが離れてしまったが、時々教科書を借りにきたりして、きっと彼にとっては見慣れている空間だろうな、と思った。

私は彼のいる教室に行ったことはない。忘れ物はあまりしないし、忘れても中川ではなくて、他の友人に借りていた。それを知った彼に冗談で怒られたこともあった。確かにあれは冗談だったと思うけれど、怒った時のすねた表情は、少なからず嫉妬の色が混在していた。私は見て見ぬふりをして、いつものように、ばかだなあ、なんて言いながら、ほとんど同じ高さにある彼の瞳に笑いかけた。

「でも本当だったら、ちょっと嬉しいかも」

「えー、何で?」

「だって何百人もいる生徒の中から、俺の苗字探してる満って、最高に可愛いじゃん」

ためらいもなく、こんな調子でキザなことを言う彼には正直ついていけなかった。でも、なぜか心地よかった。

彼と2人だったら、今人気の動画サイトで、撮影したドッキリとか、検証とか、商品紹介とかを毎日アップロードするようなコンビを組んでもやっていけそうだな、と思った。それくらいに、私の隣に中川は馴染んでいた。

「控えめに言ってきもい」

「全然控えてないじゃん?それ」

わはは、と笑いながら2人で外を見た。

「傘は?」

「ない。愛子が降らないって言ったから」

「愛子の天気予報あてにするなよ。当たったことないんだから」

「だね」

一緒に帰ろう、の一言がなくても、私達は自然に、2人で肩を並べて玄関まで歩き、靴を履き替えて、中川が深緑の折り畳み傘を開いて、狭い傘下を2人で分け合った。

私の左に中川がいて、中川の左肩はびしょ濡れだった。私の右肩は雨の冷たさを感じていない。傘を持つ彼の手を、少しだけ左へ押した。

「もっと大きい傘持ってきてよ」

「愛子信者に言われたくないね」

押したはずの彼の手は、さっきよりも私の方に近づいていて、睨むと彼も睨み返した。

鍵のことは黙っていてね。

1年前のあの不快は、私にとっての日常だった。

私は男が嫌いだ。

近づいてくるだけで、声をかけられるだけで、足がすくんで、肩が震えて、吐きそうになる。

高校に入学してからは平穏な生活を求めて、求めるためには自分が耐えなければと思って、次第に感覚は麻痺していくだろうと安易に決めつけた。

弟と一緒にいてくれてありがとうと言われた時、屋上の鍵を渡された時、兄弟を心から心配していたあの純粋な家族愛を発する声も、鍵を渡す時にわずかに触れた指先も、私には嫌悪しか抱かせなかった。

「おい、話聞いてる?」

「あ・・・、何だっけ」

「だからあ・・・」

中川と触れ合っている肩を思うと、不思議でならなかった。私は、中川に対して、他の異性のような感情が生まれないからだ。

問題なのは、だからと言って、彼氏という位置付けにありながら、彼を男として好きだと思えないこと。

「・・・今日、俺の家来る?」

「・・・」

中川は両親がいない。小さい頃に事故で亡くなって、母方の祖父母に引き取られたらしい。高校入学と同時に、学校近くのアパートで一人暮らしを始めて、1年生の夏に私達は付き合い始めた。

私は中川に触れても怖くないことに気づいた時、周りに自分の異常を悟られたくなくて、彼の存在を利用していた。

仲良くなるのに時間はかからなくて、夏休み前に告白された時、自分のためだと言い聞かせた。

でも、全ての怖さはゼロにならなかった。

彼がキスをしようとしたり、アパートに誘ってきたりしても、それを了承しなかった。何かと理由をつけて避けて、逃げて、その度に彼が残念そうな顔をすることも知っていた。

中川に嫌悪を抱くことに怯えていたのだ。私にとって中川は、この救われようのない真っ暗な世界に射し込んだ唯一の光だった。それを失うのが怖くて、手を繋ぐことしかできなかった。

2年もそれを続けてきたのに、何も言わない中川は、本当は、私の気持ちに気づいているのではないかとも思っている。気づいた上で、私を受け入れて、一緒にいてくれている、そんな都合のいい解釈しかできなかった。私も中川も、これまで一度も別れ話を切り出したことはなかった。

「今日は・・・」

「何もしないよ」

心の内を読んだかのように、中川は私の言葉を遮って、悲しそうに笑った。

「・・・はっ、何言ってんの」

うまく笑えないまま、足元の水溜りを踏みつけた。映り込んでいた自分の困惑した表情が見ていられなかった。

「テスト!もうすぐだろ。成績上位の賢い彼女に勉強教えてもらいたいなー、なんて」

中川は傘をくるくる回した。傘から離れていく雫が、涙のように見えた。

「ああ・・・。中川、ばかだもんね」

「ストレートだな。まあ、否定できないけど」

スマホからメッセージを受信する通知音が鳴った。お母さんから時々くる、牛乳買ってきて、だといいなと思った。何でもいいから、中川の誘いを断る理由がほしかった。

「メッセージ?」

「うん、ごめんね」

スマホを取り出し、確認すると、希望通り、お母さんからだった。

「ごめん、今日は・・・」

いつものように断ろうとした。けれど、喉の奥で言葉はつっかえて、声にならないまま飲み込んだ。

『今なおくんが家に来てるよ。早く帰って来てね』

なおくん、なんて目一杯の親しみを込めてお母さんが呼ぶものだから、自分には味方なんていないと、今まで何度も押し付けられた現実を、また今日も見せられて。

「どうしたの?」

左を見ると中川がいる。中学で膝を悪くして、バスケットが続けられなくなった。だけど未練が残って、高校ではマネージャーになって、選手ほどではないけれど、顎先くらいの長さのショートカット。身長は170cmで、これといって女の子らしいところなんてひとつもない私をじっと見つめている。

ねえ、何で私を選んだの。

そう聞く前に口は動いていた。

「中川の家、お邪魔するね」

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