第五章 弾かれた瑠璃は新路を選ぶ
第五章 弾かれた瑠璃は新路を選ぶ①
今日、マネージャーの鈴本さんとわたしは副社長から事務所に呼び出された。
「鈴本さ、何考えてんの? ハピプリに余計な手間と金かけるなって言ったよな?」
会議室の机の上にはレンタカーの領収書が置いてあり、わたしと鈴本さんの正面に座る如月さんの顔は不機嫌そのものだった。
ヒスイに接触したファンについて千沙子から詳細を聞いたわたしは、すぐに鈴本さんに相談した。直後のライブではヒスイとは駅集合にして、鈴本さんも駆けつけてくれた。
わたしの心配は的中して、その男性ファンはライブハウスの前で入待ちをしていた。「近隣の迷惑になるので、入り待ち・出待ち行為は禁止です」と注意するわたしと鈴本さんの声は耳に入らない様子で、その人は一方的にヒスイに話しかけ続けた。
「ヒスイ、僕達が出会ったのは運命なんだよ! ねえ、ヒスイもそう思うでしょ? おい、お前らどけよ! ヒスイ、ねえ、ヒスイ、今夜僕の部屋で待ってるよ。一緒のベッドで眠ろうね。楽しみだなあ。ヒスイの裸はどんなだろう。ヒスイの感触は……」
「変なことを言うのはやめてください! 警察に届けますよ!」
「僕とヒスイの邪魔をするな!」
その日の特典会では、常連のヒスイ推しの方が彼女と話す傍で、その男はブツブツと文句を言い続けていた。ファンの皆さんは非常識な態度の彼を睨みつつ、笑顔が消えてしまったヒスイを心配そうに見つめていた。
結局、特典会はヒスイの体調不良を理由に強制終了させた。彼以外のファンでそれに反対する人はいなかった。楽屋に引き上げるヒスイに、彼は入待ちの時と同じような言葉を投げつけてきた。わたしはヒスイの耳を手で覆い、体を抱きかかえるようにしてフロアから下がらせたけれど、彼女の体は震え、目には涙が溜まっていた。
わたしと鈴本さんとでその男を帰らせたり、ファンやライブハウスのスタッフに騒ぎを謝ったりで、わたしはなかなかヒスイのケアを出来なかった。でも、他のメンバー、特に千沙子がフォローしてくれていた。今の二人は前以上に良い関係ができたようで、それはその日に唯一安堵できた光景だった。
出待ちからの追跡を警戒して、帰宅時には鈴本さんがレンタカーを借りてきてくれた。わたしも同乗してヒスイを自宅まで送り届け、その時にご両親にも男のことを報告した。
今、事務所の打合せ卓の上に置かれているのは、その時のレンタカーの領収書だ。鈴本さんが経費として処理しようとして、副社長からの待ったがかかったのだ。
「あの時は車を出すのが必要でした。僕としては警察への相談も考えています」
「は? 何言ってんの?」
副社長は鼻で笑うように言う。
「その男は本当にストーカーなのか? ちょっと熱心なファンってだけだろ。ちゃんと話して、いい客になってもらう方が会社的にもメリットが大きい。考えろよ」
「いや、でも、話が通じる相手じゃないですよ。即出禁レベルです」
「そういうの、あんまり簡単にやると、怖い事務所だって思われて、うちの他のグループのファンにも影響するだろ」
「しかし……」
言い募ろうとする鈴本さんに、如月さんはわざとらしい溜息を吐き、今度はわたしの方を向いた。
「だいたい、ハピプリのことは泉に任せてるんだからさ。泉になんとかさせろよ」
「女の子だけで対応するなんて、無理がありますよ!」
鈴本さんが反論してくれたので、わたしも思いきって意見を言ってみることにした。
「ヒスイも怖がっていますし、ご家族も不安がっています。なんとか鈴本さんの送迎を認めてもらえませんか」
何かあってからでは遅いし、今回のことを報告した時のヒスイのご両親の不安げな表情は忘れられない。でも、如月さんの反応は素っ気ないものだった。
「そんなに不安だったら、引退してもらえばいいんじゃないの。解散でもいいし」
「そんな……!」
「とにかく、これを経費とは認めない。お前が勝手に借りたんだからな。そして、今後のことは泉に任せる。鈴本は手を引け」
そう言って、如月さんは話を打ち切って席を立った。残されたわたしと鈴本さんは同時に溜息をこぼす。
「ごめんな、泉。なんとかしてやりたいんだけど……」
「いいえ。こちらこそ、相談して逆に迷惑をかけちゃったみたいで……」
「気にするな」
苦笑しながら、鈴本さんは領収書を懐にしまった。
「それより、次のライブは……二週間後か。ちょっと考えなきゃな」
「はい……」
でも、相手を出入り禁止にできないなら、電車移動を付き添ってガードする、特典会はヒスイを欠席させるくらいの案しか思い浮かばない。しかも、マネージャーさんの同行を許してくれないなら、わたしが全部やる必要がある。仕事は他にも、ステージの準備やライブハウスのスタッフさんとの打合せ、物販、特典会の対応などたくさんあるのだ。
ハッピープリンセスはこの事務所に所属している意味があるのだろうか。頭が痛かった。
※
うちに帰ると、千沙子が夕飯を作って待っていてくれた。
「ごめんね、ちーちゃん。最近、家事は千沙子に頼ってばっかりになっちゃって」
荷物を片付けているうちに千沙子が配膳までしてくれていた。申し訳なくて、ごめんねと言ってからお茶碗に口をつける。それでも頭の中に浮かんでくるのはハピプリの手配のことばかりだった。
今度のリハーサル用にスタジオを押さえておいたっけ。コハクのモデル仕事の撮影スケジュールはこの前伝えておいたけど、念のため後でもう一度連絡しておこう。ヒスイの送り迎えはどうしよう。
頭が痛い。
みんなが一番いい形でアイドルができるように、みんなが笑顔でいられるようにしてあげたいのに、いい方法が思い浮かばない。
情けない。
頭が痛い。
「い、泉ちゃん……」
「え?」
ハッとすると、既にご飯を食べ終えた千沙子が、悲しそうな顔でわたしを見ていた。
「ぜ、全然、食事……す、進んで、ない。ま、まずい……?」
「そんなことないよ!」
サバの煮付けはちょうどいい味付けだし、肉じゃがもよく味が染みている。千沙子がおばあちゃんに教わった味はわたしも大好きだ。
慌ててパクパクと口に運んだけれど、すぐにそのスピードが止まってしまう。
「ごめんね。すごく美味しいのに、今日はあんまり食欲がないかも……」
「か、風邪……?」
「ううん、元気だよ。元気なんだけど……ごめん。片付けはわたしがやるから」
わたしがキッチンで洗い物をしている間、千沙子はスマートフォンをいじっていた。洗い物を終えたところで、来客を知らせるチャイムが鳴った。勧誘か何かだろうか。こんな日に面倒くさい。
でも、わたしが出る前に、珍しく千沙子がインターフォンを取った。驚いている間に、千沙子は来客を室内に招き入れてしまう。
「来ちゃったニャ!」
「え!」
現れたのはルチルだった。うちには来たことがないはずだけれど、どうしたのだろう。
「ルビにゃんに呼ばれたとゆーか、ヤバそうだったら呼んでって頼んでたナリ」
「ヤバそうだったら……?」
「ラピスちゃんが無理しすぎたらってことだニャ!」
いまいち意味がわからず首を傾げると、千沙子とルチルは顔を見合わせて溜息をついた。
「ラピスちゃんは一人で抱えすぎだってことだニャ」
そう言ってジッとわたしの顔を覗き込んだルチルだったが、訝しげな表情で首を傾げる。
「なんか、ラピスちゃん、顔色悪くないかニャ?」
「ひゃあ!」
ゴッツンコと、いきなりルチルの額がわたしの額に押し付けられて、変な声が出てしまった。しばらくしてわたしから頭を離したルチルは、険しい顔で千沙子に叫んだ。
「ルビにゃん、体温計が必要だニャ!」
ピクンと小動物のように体を震わせた千沙子は、脱兎のごとく救急箱を取りに行く。
「ラピスちゃんのお部屋はこっちナリか? 早く横にならなきゃだニャ!」
「え? なに? なんで……?」
「熱! 絶対お熱があるナリよ!」
あれよあれよという間に、わたしはルチルにベッドの中に押し込まれ、千沙子に腋の下へ体温計を挟まれる。三分後にアラームが鳴り、体温計は三十七度六分を示していた。
「ほ~ら、やっぱりお熱があるナリよ!」
「たいしたことないよ。微熱だし」
「ばか言っちゃだめナリ! 体調管理もアイドルのお仕事だニャ」
「でも……」
「体がちゃんとしてないと、ファンのみんなにちゃんとしたパフォーマンスを見せられないニャ。イコール、アイドル失格ナリよ!」
「……なんも言えねえ」
「言葉古いし、使い方違うニャ」
険しい顔だったルチルが、少し呆れたように笑った。わたしは掛け布団から目だけを出してルチルの様子を窺う。
「でもさ、明日バイトなんだよね」
「そんなの、ルビにゃんがバイト先にラピスちゃんは体調不良でお休みしますって連絡してくれるナリよ。ね、ルビにゃん?」
コクンと頷く千沙子は、なぜか少し泣きそうな顔をしていた。
「とにかく、眠るニャ。詳しい話はそれからナリ」
そう言ったルチルは優しい顔で「おやすみニャ」と言った。
※
あれから、千沙子が用意してくれた寝間着に着替えてベッドに入り直し、わたしはいつの間にか眠っていた。起きると、バイトの時間はとっくに過ぎていて、千沙子が用意してくれたのか、ベッドサイドに水筒が置かれていた。
起き上がってみると、だいぶ頭がスッキリしている。念のために体温を測ってみても平熱だった。水筒を開いて口を付けると、冷たいお茶が蜜みたいに甘く心地よく体に染みわたっていくのを感じた。
シャワーで汗を流して着替えを済ませ、しばらくすると千沙子が帰って来た。
「おかえり、ちーちゃん! ごめんね、昨日と今日は……」
「い、泉ちゃん……!」
慌てて靴を脱ぎ、キャップとマスクを取ってわたしに駆け寄って来た千沙子は、なぜかわたしの目の前まで来ると、しゅんと力なく下を向いてしまう。
「ご、ごめん……ごめん、ね、泉ちゃん」
「え? なんでちーちゃんが謝るの?」
「だ、だって……熱、熱が、ある、なんて……全然、き、気付かなかった……」
「それはわたしだって気付いてなかったし」
「でも……! で、でも、ずっと一緒に、いるのに、わ、わたし……い、泉ちゃん、泉ちゃんの、助けになれない……」
掠れて絞り出すような声で千沙子は言った。
「い、泉ちゃん。無理、ばっかりは……だめ。泉ちゃん、苦しむの、み、見たくない……わたしにも、し、心配なこと、話してほしい」
千沙子は必死な顔で、一生懸命に自分の思いを言葉にしているのが伝わって来た。
「わ、わたし、頼りない……かも、しれないけど……」
「そんなことないよ! わたしは千沙子を頼りにしてる」
「で、でも。何も、わ、わたしにも、メ、メンバーにも、言って、くれない……から」
千沙子の揺れる瞳を見て、わたしはハッとする。みんなのために良かれと思って一人でがんばっていたけれど、そのことが彼女を不安にさせてしまったのだろうか。同時に、千沙子がそうやってわたしを思いやってくれることには、不思議な心地よさを感じた。
「ごめん。心配かけてごめんね。これからはちゃんとちーちゃんとみんなに相談する」
わたしの言葉を聞いて、千沙子は少しほっとしたように表情を緩めた。
わたしは一人で空回っていたのかな。
ふうと息を吐き出すと、心の中のこわばりがすうっとほどけていくような気がした。
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