城下町リンチ倶楽部外伝

瓦斯探偵

雪女の体温~ある男の手紙~

 「ゴールデンウィークは概ね晴れるでしょう」――二週間前の天気予報は外れ、五月三日の夜は雨が降っていた。騒がし昼と静寂を求める夜の温度差が雨雲を誘ったのだろう。

 昼に札幌駅で予定通りの再会を果たした二人は、終始戸惑い続けていた。

 彼女は街を訪ねた彼を案内する予定が思い通り進まず。「この映画まだ見ていない」との申し出を受けるまで、デートのエスコートは空回り続けていた。

 場内が暗くなりスクリーンに映画が映し出されていても、彼女の脳裏は過去を再生していた。学生時分に彼から「好きだ」という告白をされただけで付き合って来た関係だった。社会に出て距離を置いただけで思いのほか溝が出来てしまった気がした。彼は何を考えているのだろう? 氷の溶け始めた薄いコーラを吸いつつ、横に座る彼の寝顔を見た。疲れているんだ。「四月から遠距離恋愛だね」と別れ話を打ち消して付き合いを続けた。接客業と製造業、共に違う社会に進んでいった二人。四月の新人研修から開放されたゴールデンウィーク二日目。長い電車の旅の後の街歩きは、いささか配慮が欠けていたのではないかと、彼女は深いため息を漏らした。

 映画が終わり外に出ると、アスファルトが濡れだしていた。「傘用意していないや」そんな彼にバックから取り出した畳傘を渡す。「用意が良いね」と返された言葉に、「そんなことないよ、全然だよ」とトータルのマイナスを隠すように俯いてしまう。地面の濡れは酷くなった。傘を広げた彼が、手を差し出す。歩き疲れたはずなのに、また下手な案内を求めている。手を握って軒を出ると、彼の手が解かれた。「そうじゃないよ」腕を組んだほうが濡れないでしょ。言葉よりも行動が早く。十分前に感じた二人の距離が急に縮まった。

 彼の鼓動を感じていた。強く早い鼓動だった。

「緊張してる?」

「当たり前だろ。男だらけの職場なんだから」

「そうなんだ(もしかして私じゃなくても)」

彼女は心のなかで生まれた声を押し殺した。新人研修で『接客に求められるのは、共感者であり。理解者、自身を誰とも比較されないように心掛けるのが肝心』そんな処世術を叩きこまれていた。彼が雨音の響く傘の下で漏らす不満を聞きながら、彼女は、自分も社会に染まりつつあるのを感じていた。『疲れている』今日のデートは間違えだったのかもしれない。学生時代のように単位や卒論といった期限が明確に定められたストレスの中で、カラオケなりでのガス抜きをする。そんなゆとりが今はなかった。彼の苦労話に相槌を打ちながら、彼を突き飛ばして逃げたらどうなるのだろう? そんな囁きを覚えていた。

 しかし、突然彼の話が止み。「あーあ、らしくないな。恋人らしい事してもいいかな」そして彼女は口を奪われた。彼女は二人の距離が縮み、求め合う気持ちを汲んで涙を流した。


 彼は彼女の涙の中に、一ヶ月の空白の日々を読み取ろうとしていた。二人とも社会人になった中で、いろいろな出遭いをしただろう。誰よりも可愛い彼女が、勤め先で悩んでいるという話を聞かなかった。「接客業は対人関係でのストレスを溜め込みやすい」というどこぞの雑誌で仕入れた情報が、間違っているかのように、学生を抜けた彼女について、彼が知っている情報は希薄であった。だから、だからその時、もっと多くのことを知りたいと感じていた。一言でいえば、怖かったのだ。自分に求められるものが何なのかわからず。ただ、安定した未来の為に職業を選択し、いつか家を建てて家庭を持とう。そんな理想が崩れた。それが、製造業の先輩から学んだ日常生活だった。

「時間なんてないよ、働いて、働いて、働いて、そしてやっと築いた家には誰も居ない。大きな鳥籠に篭っていたい女性なんて居るものか」

 話の上手い先輩があっけんぱらりと吹聴した話は、職場で半数近くが抱える家庭生活の不調を知らせていた。

 考えたくない。出会えばわかるさ。手を引かれながらせわしなく歩いた街。彼女は何を求めているのだろう? 新しい環境で過ごした日々の世間話も、わがままも何も語らない彼女が現れた。彼には勇気が足りなかった。いや、社会人という枠が行動を徐々に奪っていっていた。モヤモヤとしたもどかしさが募り、その感情が伝わった彼女も焦り始めているのが分かった。どうにかしなければいけない。そんな、焦燥の込み上げる中、映画の看板を見つけたのだった。彼女のデートプランを壊してしまうことになるし、学生の頃に感想で意見が合わなかった経験もある。ただ、変化した彼女の好みが解らないなら、そんな選択もいいと思った。

 映画を見よう。目覚めたばかりの目に太陽が眩し過ぎて、瞼を下ろしてしまうように、時間、空間、感情、を遮断するちょっとした突き放しを提案したのだった。悩み、焦り、戸惑い。一ヶ月のブランクで、彼は彼女との接し方がわからなくなっていた。大人としての付き合い。そういう見えないルールに縛られて、疲れきった彼は、映画の途中で夢を見ていた。

 〈『あなたは私との約束を破ってしまったのね』――こぼれ落ちる涙は雪に換わり、ひたりと落ちた地面に大輪の華を咲かせていく。背筋を冷たいものが疾走り〉

 何故、そんな夢を見たのだろう。「遠距離恋愛だね」という彼女の要求を果たせているのか? ぼんやりとした不安が実体を得つつあった。彼は、彼女との恋愛が続いている実感を得たかった。それが、彼女との間柄であり、自身を見失いそうになる慌ただしい社会の中にあるオアシスだった。彼は漠然とした不安の中、安らぎに飢え、怯えていた。

 そんな黒々と渦を巻く気持ちが、そのまま天気に作用したのか、劇場の外は暗い雲に覆われていたのだった。彼女の体温を感じたい。昼の街なかで、握りしめた冷たい手に、不安を煽るような緊張がないことを、実感したかった。


 傘の下。二人は理解した。


 札幌の冬の終わりは遅い。満開だった桜並木を並んで歩き、

「雨が降って、散り始めたみたいだね。なんか、昨日も来たはずなのに、全然景色が違う」

「君の成長の方が僕には驚きだったよ」

肩を寄せ合い歩く二人の他愛のない話は、何にも縛らせず。雀の鳴き声のように周囲に気にされることなく呟き続けていた。

 大人になったはずなのに、二人の仲はそんなに成長しないね。どちらがどちらに向けて言ったのか? 笑みを浮かべながら、二人のゴールデンウィークはしばらく続くのだった。

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