episode1-1:起業と雇用-ドールの会社に入りました
西川優奈(さいかわゆうな)が降り立ったのは、埼玉県越谷市の越谷駅だった。
優奈の持つ越谷市についてのイメージは、春日部と草加に挟まれている冴えない田舎というものだ。実際かつては「水郷」とも言われていたらしく、もう少し離れたところには今も田畑が多いと聞く。
だが実際に降り立った越谷の街は、田舎というイメージからはおよそかけ離れた町だった。もちろん大宮などに比べればまだまだ発展途上なのだろうが、比較的商業施設が多いように思える。交通網が発達していて土地代も安く、国内最大の大型ショッピングモールがあるため近隣の地域も比較的にぎわっているということだろうか? 実際越谷駅にはタワーマンションもあり、そう離れていない隣駅にも駅ちかのショッピングモールがあった。
比較的都市化しているわりにテナントの賃料は安く、なにより路線が発達しているため東京にも出やすいというメリットがある。――というのは、これからお世話になる会社の代表の言葉である。
「それにしてもあっついなぁ……」
この土地において、あえてデメリットを上げるとすれば、それは気温だ。まだ六月だというのに頭がクラっとするくらい暑い。しかも今年は、梅雨もろくに雨が降らなかった。
夏暑く冬寒い。それが埼玉だ。優奈の生まれ故郷である千葉と比べると2~3度くらいは暑かった。
「あ、まずい。もう10分ないや」
慌てて優奈は駆けだす。
一度、見学兼面談にて会社にはいったことがある。その際の道順をたどりながら街の中を進んでいった。
やや雑然とした街の中を抜け、ホームセンターからさほど離れていない雑居ビルへとたどり着く。
こじんまりとした雑居ビルの中に入り、二階に上がると、表札があった。
アニマ合同会社。表札にはそうあった。
時間は9時5分前。優香はドアをノックする。
「おはようございまーす。西川です。守谷さん、いらっしゃいますかー?」
「はいはーい」
ドア越しに聞きなれた声が返ってくる。ドアが開くと、そこにはショートヘアの女性が立っていた。
「優奈ちゃん、おはよう。ほら、入って」
守谷理子(もりやりこ)である。優奈の大学時代の先輩であり、この会社の創業者である。
事務所の中は優奈のために用意されたものも含めて、合計4台のデスクとパソコンがあった。そしてその周りには大量の書類、システム関係の専門書、梱包材、そして何かの薬品のようなツンとしたにおいが立ち込めている。
とても女所帯の会社とは思えない、おしゃれの欠片もない殺風景な事務所だった。
が、その中で異彩を放っているのが、簡易なディスプレイに飾られた、豪華なドレスを身にまとった球体関節人形である。
(何度見ても、これ、すごいよなぁ……)
まるで本当の女の子のように生き生きとした人形である。作り手の魂がこもっている。なんていうのは、少々表現が古いかも知れない。
この会社独自の製品、ポラリスメイデンシリーズとよばれる人形である。
「ほらほら、ぼけっと突っ立ってない」
と、見惚れていたことに気づかれて理子に突っ込まれる。
「あ、すみません。これからお世話になります。よろしくお願いします、社長!」
社長というワードに理子は笑った。
「社長はよしてよ。合同会社に社長はいないって」
合同会社の最高経営責任者は、社長とは呼ばず代表社員という。取締役にあたるのが業務執行社員。優奈の様な被雇用者は社員とは呼ばずに従業員である。
「代表って言われるのもなんか気持ち悪いし、仕事さえしっかりするなら私の事なんか好きに呼んでいいわよ」
「じゃ、じゃあ先輩のままで……」
優奈は照れ笑いを浮かべた。
大学時代と変わらず理子の応対は気さくでサバサバとしている。後輩の面倒見も良く、ゼミでも人望がありかなり人気者だった。
そんな彼女なので、「起業」というのは大胆な挑戦ながらも、イメージ的にはぴったり合う。
だからこそ、最初にこの会社の見学をしたときは、驚いた。
まさか彼女が、こんな小さな女の子向けのお人形を取り扱う会社を作ったとは……。
「さっそくで悪いんだけど、とりあえず一通りの仕事の説明をさせてちょうだいね」
理子は、優奈に業務内容についてマニュアルを交えて説明を始めた。
優奈の任される仕事は、主に経理と、ドール専門通販サイト「アイファンシー」の運営であった。
アイファンシーはアニマ合同会社のメインのサービスで、ドールやその衣装、関連商品を取り扱うモール型ショッピングサイトだ。
他にもドール専門のモール型通販サイトは存在するが、このアイファンシーが取り扱っているのは、商業ブランドではなく、個人や同人で活動しているクリエイターたちの手掛けるドールや衣装、手芸などが中心だ。
理子曰く、即売会に顔を出した時にその発想に巡り合ったらしい。即売会で販売されているクリエイターの作品の品質は、個人の物にもかかわらず商業と比べても遜色ないレベルだった。だが、イベントを除き主軸となるような販路は存在しないらしいとのこと。
同人クリエイター向けのドール専門モールサイトを作れば儲かるのではないか? という発想から、このアイファンシーを作ることにしたのだ。
結果は大当たり……とまではいかないまでも、この界隈で活動する個人クリエイターたちの活動にアイファンシーが受け入れられたのは事実だった。写真と商品の説明をアップすればすぐに販売できるという手軽さ。そしてイベントに行きたくても行けない地方のファンたちが利用する通販サイトとして、少しずつではあるものの確実にクリエイターとユーザーを獲得。商品の発送などもクリエイターに任せているため在庫を抱える心配もない。にも関わらず、商品が一個売れるたびに売り上げの10%が販売手数料として手元に残るシステムなので、アニマ合同会社にとっては安定的かつ大きな収入源となっていた。
一方で、この通販サイトにも大きな問題があった。
クリエイターとユーザー間でのトラブルである。
アイファンシーで取引しているクリエイターは、少なくても即売会などでアニマと知り合いになり参加するといういわば「招待制」である。
名前も素性も知らない人間の商品まで扱っているわけではないため、そこまで劣悪なクリエイターが混じっているわけではない。
とはいえ、あくまでもやはりビジネスベースで活動している者は少なく、個人による取引であることに変わりはない。
会社の様にルールを設けて活動しているわけではないということで、ユーザーとのささいな行き違いから大揉めすることもままあるわけだ。
支払いトラブル、配送ミスや納品の遅延、その他もろもろ、揉め事は尽きないと聞く。
ユーザーから電話で苦情が来ることもままある。
実際理子が説明している間も、たびたび電話が鳴っていた。応対していたのはパートのおばさんだった。
理子が優奈の耳元で、電話口の相手に聴こえないよう、ひそひそ声で言う。
「こればっかりはねぇ、相手は生身の人間だし、ウチも駆け出しのベンチャーだから円滑に進めるまでには時間かかるわ」
そう言いながら、クレームに関する想定問答集のプリントも渡される。これも仕事の内ということだ。
「クレーム対応はまだしばらく貴理子おばさんがやってくれるけど、おばさんがいないときのためにこれも早めに覚えておいてね」
優奈は内心圧倒されていた。さすが駆け出しのベンチャーだ。会社経営自体も考えなければいけない一方、日常業務一つとってもやらなければいけないことは多岐に渡る。一人の人間が様々な仕事を覚えなければならない現実に、優奈はめまいすら覚えてしまった。
「結構大変なんだけど、ついてこれそう?」
気圧されたことに気づいたのか、理子が心配そうに尋ねてくる。優奈は慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です! 先輩のために頑張ります!」
思えば理子には大学時代から世話になりっぱなしだった。勉強はできるものの家が貧しかった優奈は、苦しい思いをしながら、どうにか千葉にある大学の政経学部に入学。将来は安定した職に就きたいという想いから政治経済の勉強をすることに決めたのだが、大学で教わる講義は抽象度が高く、優奈には理解が難しかった。放課後もラウンジや図書館に居残り、毎日勉強漬けだった。
そんなある時に理子と知り合う。彼女は、要領は悪いが根気だけはある優奈のため、粘り強く勉強を教えてくれた。
経済という抽象的な問題に、実際に存在する会社の取り組みを実例として取り入れながら教えてくれる彼女の教え方は、優奈の勉強方法に新しい糸口を与え、無事卒業までの四年間を乗り切ることができた。
理子とは、彼女が卒業後しばらく疎遠になっていた。優奈の方も遠慮してなかなか連絡ができなかったし、その内、優奈も就活が始まってそれどころではなくなってしまった。
だが同期が次々内定をもらっていくなか、優奈はなかなか就職先が見つからなかった。能力はともかくコミュニケーション能力が高くない優奈は、主に面接で認められず、内定をもらうことができずにいたのだ。
結局、就活恐怖症となってしまった優奈は、内定を一つももらえずに卒業してしまい、バイトでなんとか食つなぐ日々を送っていた。
大学で学んできたことが何も役に立たず、将来の見通しすら立っていなかったある日、疎遠になっていた理子からメッセージをもらった。
『優奈ってパソコン得意だったよね?』
この理子からのメッセージをきっかけに、この会社に入ることになった。
就職先にあぶれていたこともあったが、何より学生時代にお世話になった理子へ恩返しをしたい。そして立派な先輩の期待にこたえたい。そう決意してこの会社に入ったのである。
カネのためだけに仕事をするのではない。意味のある仕事をしたい。そんな気持ちもあった。
「良かった。優奈ならきっとそう言ってくれると思ってた。……じゃあ説明を続けるわね」
理子はほっとした様子でうなずいた。
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