第20話

 ひたひたと冷気の漂う階段を降りると薄暗い地下通路が続いていた。等間隔に置かれた薄ぼんやりとした灯りはひびの入った石の天井を怪しく照らす。床には質の高い赤い絨毯が道を示しているように敷かれている。


 見栄を張るのに抜かりの無い領主にウールは心の中で皮肉を込めて感心してしまう。そして抜かりない領主はウールから少し離れた場所で息を切らしながら走っていた。手に持った小さな袋が動きに合わせて揺れ、彼の滴り落ちる脂汗を吸収している。


 領主はウールに気づくと情けない悲鳴をあげながら全速力で逃げた。だが彼の走りは歩いているのかと思えるほど遅い。容易に追いつくと彼の背中に飛び蹴りを入れた。地面に叩きつけられるように倒れた彼をウールはすぐさま掴み自分の方に向ける。


 領主は顔を必死に横に振りながら怖気づいた声で助けを求めた。だがウールは気に掛ける様子を見せずに思いきり右足を彼のブヨブヨと肥えた腹を踏みつける。


「魔王であるこの私になめてかかるとは、まったく手間のかかる豚だな」


 ウールは蔑むように言い放つと踏みつける強さをさらに増す。息苦しそうに顔を赤くしている領主は歯をガタガタと鳴らしながら余計に震える。


「形勢逆転だな。さぞ悔しいだろう、こんなガキに馬鹿にされて、しかも踏まれているのは――」


 ウールは彼が持っている袋を見ようと視線を下げた。その時ふと言い様もない悪寒がウールを襲う。どういうわけか、彼の股間がむくむくと盛り上がりヒーヒーと息苦しそうに脈打っていた。その光景が目に映りこむとウールの目が自然と曇る。


「あ~、その……。変わった趣味を持っているな」


 領主はもう既に失っている体裁を守ろうと必死に否定する。だが言葉とは裏腹に彼の股間はさらにいきり立つ。ウールはもう我慢できなくなり彼から袋を無理やり奪い取ると踏むのを止めてすぐに離れた。


 ちょうどその時、ウールが来た方向からエイリーンが血の付いた剣を拭いながら走って来た。ウールを見て安心したような表情を見せるエイリーンだが、ひくひくと倒れている領主の姿を見るやすぐに怒りを露わにする。そしてウールが顔を引きつらせながら彼女を眺めていると、勢いよく領主の腹の上で馬乗りになった。


 領主の胸倉を掴んだままエイリーンは不満をぶちまける。だが領主は顔のすぐ近くにまで寄せられたエイリーンの締め付けられて強調されたたわわな胸を、僅かな理性を残しつつ凝視しているだけで不満など耳に入っていないようだ。


「エイリーン、そのくらいにしてやれ」


「なぜだウール?! 私はまだ物足りないぞ!」


「多分エイリーンが何をしようがこいつには効かないぞ。……むしろ逆効果だ」


「なに? まさか手記の力で――」


「いやそれはない。絶対違うから安心しろ。とにかく『黒の手記』は手に入れたんだ、さっさとここから引き上げるぞ」


 エイリーンは不服そうに領主の顔を一発殴り立ち上がった。そしてウールの持つ袋の中を覗き込み手記があることを確認すると一安心し袋の中に手を入れる。


 瞬間、黒い稲妻が袋の中から溢れエイリーンに襲いかかった。エイリーンは痛みに顔を歪ませながらすぐに手を取り出す。右腕は痙攣し、やけどはしていないが骨が燃えているように小さな煙が皮膚から漏れ出していた。


「フハハハハハ!! 馬鹿な奴だ! それほどの代物を疑いもせず触るとは!! その勇気だけは褒めてやろう! いや、これは無謀というのかな?」


 散々いいようにされていた領主は、自分でやったわけでもないのに一矢報いたように下卑た笑いをあげる。馬鹿にされたエイリーンは怒りに震え、領主を殴ろうと石を砕くように強く手を握り近づいていく。そして今にも殴ろうと振りかぶった時、領主が恐怖で表情を変えた。


 だが目線はエイリーンに向けられていない。後ろにいたウールに向けられていたのだ。疑問に思いエイリーンは眉をひそめながら後ろを見た。


 そこには『黒の手記』を持っていながら何ともない様子のウールがいた。中身を確認しようとペラペラとページをめくりながら。


「ど……どういうことだ?! なぜ貴様は何ともないのだ?!」


「知らん。あと確認だがこれは本当に『黒の手記』だろうな? 中に何も書いていないぞ?」


 二人は信じられない様子で目を丸くする。領主に至っては事実を受け入れられないのか支離滅裂な言葉で否定をし続ける。ウールは鬱陶しくなり黙らせようと適当なページを開いて二人に見せた。新品のように真っ新なページを次々と見せられ二人はすっかり言葉を失い、領主は目を回し危うく意識を失いそうになる。


「まあこれが何であれ、どうせ亡霊達に返すのだから関係無いな」


 ウールは手記をつまむように持つと倒れている彼の体の上に手を伸ばした。わざとらしく手記を振り子のように揺らし今にも落ちそうになる。


「ヒッ?! や、やめろ!!」


「嫌か? それは結構」


 ウールはパッと手記を手放した。手記はページをパラパラと開きながら落ちていく。近づくにつれ領主の口と目があんぐりと開き血が逃げ場を求めるように体から引いていく。だが血に逃げ場がないように彼に逃げ場はなどない。白目を向けたままの彼の腹の上に手記が音も無く落ちた。


 瞬間、黒い稲妻が鎖に繋がれた猛獣が飢えに苦しみ暴れ狂うように走る。体は震え、血管が浮き出る。涙や涎、はたまた尿さえも苦しさと絶望から漏れ出す。


 数秒ほどで、ウールはこれ以上やれば手記が汚れるのではと思い彼の体から手記を拾い上げた。


「これで満足か? エイリーン」


「あ、ああ……」


 手記を見せつけるとウールは袋に片付ける。一夫でエイリーンは哀れむような目で気絶している領主を見ている。そして二人はすぐに脱出しようと足を踏み出すが、遠くの方から異変に気付いた兵士達が次々と押し寄せてきているのに気づくとその場に立ち止まった。


「分かってはいたが数が多いな。エイリーン、やれるか?」


「当たり前だ、でも傷一つなしというわけにはいかないかもしれない」


「それは嫌だな」


 ふとウールは倒れている領主の姿が目に入る。すると手記を急に取り出し、エイリーンに何か切るものはないか訊ねた。エイリーンは不思議に思いながらもナイフを渡す。ナイフを受け取るとウールは領主の服を乱暴に切り始めた。


「何をしている?! 敵はもうすぐそこに迫っているんだぞ?!」


「まあ待て、あいつらを楽に倒せるかもしれないんだ」


 焦っているエイリーンをよそに舌なめずりをしながらウールは服を切る。エイリーンは訳も分から無さそうに前と後ろを交互に見ていたが、ついに覚悟を決め剣を構えると兵士達へと切り込んだ。


 勇猛果敢に突っ込んでくるエイリーンに兵士達は動揺した。だが数的有利なのは変わりない。戦闘が始まるとエイリーンは苦戦を強いられ防戦一方となる。


「よしできた。エイリーン、頭を下げろ!!」


 エイリーンは咄嗟に体を低くした。同時に頭上を黒い物体がまるで流星のように飛び去る。かと思うと目の前に黒い稲妻がほとばしる。兵士の悲鳴が木霊する。すると黒い物体は再び頭上を後ろへと飛び去った。


 エイリーンも兵士達も何が起きたか分からず、黒い物体が去っていった方に視線を移した。


 そこにはギラリと光る白い歯を見せながら不敵な笑みを浮かべているウールがいた。手には切った領主の服を縄のようにしたものを持ち、先には『黒の手記』が巻き付けられていた。


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