コモプレかつ低能たる学歴自慢者(早慶ごとき)へ送る書

@qurgelu

自慢など無意味

  みなさんは早稲田、慶応と聞いて何をイメージするのだろうか?世間一般約8割型の人は『優秀』という言葉で早慶という概念を片付けてしまう。言い換えるに、世間の8割の人は早慶を『華々しいブランド』と思いこんでいる。この駄文で私は皆さんにその早慶ブランドの虚構性について理解して頂きたい。


  かつて、我が良き師(旧帝大出身)は『MARCHは世間一般が言うより入りづらく、一方早慶は世間一般が言うよりも入りやすい』とおっしゃっていた。旧帝大レベルの人間から見たら現実はその程度なのである。にもかかわらず、早慶というだけで我が国の狭い価値観では『優秀』などという歪曲した価値観を押し付けられる。私は思う。早慶だからと言って優秀なわけでは決してない。というのも現役だけで計20万弱いて、その中の一部が優秀なだけである。つまり、『ピンからキリまで』ということである。そもそも、かの東大生ですら、社会で使えるかどうかはピンキリと言われているのだ。その一次元下の三科目受験の早慶などおさおさ大したことはないのは明らかである。加えて述べると、早慶などという私文は推薦などというふざけた裏口エスカレーター勢が三割弱を占める。少し難解、けれど適切な言葉を使うと外部生との間に『富の移転』が生じている。語弊を引き起こす表現をしたが、私は推薦勢が阿呆と言いたいのではない。彼らはむしろ外部生より素晴らしい才能を持っている。私は彼らに敬意を払いかつ警戒している。まあ、講義中や図書館ですら黙ることができず、TPOの守れない内部生は敬意を払うに値しないゴミである。(私レベルになると内部、外部は大体みれば分かる。と豪語したい)


  結論として私が言いたいのは、リスクなく進学できるのは不平等と言いたいのだ。さて、ただの嫉妬、ヤッカミのためにかなり脱線したが話を戻そう。この文の主文脈は、『早慶など大したことはない』である。しかし、世の中の人は私が早稲田か慶応を名乗ると私を優秀であると決めつけてしまう。改めて言うが錯覚であるにも関わらず。私はその期待みたいな物が苦手である。というのも以上で述べたように私はただの凡人に過ぎないからであるというより、むしろバカである。そもそも、私の出身高校では早慶レベルで当然、東大医学部レベルで尊敬、それ以下は恥という扱いであった(不興を買われると思います。ごめんなさい)。であるからして私は自分を凡人、むしろ国公立でもないバカと考えている。しかし、バカもおだてりゃ木に登る。早慶を自慢する連中、特に本当に何の才能もないバカどもはよく傲慢に威張り散らし他人を見下すのである。本当に頭の良い早慶生はそんなくだらないことをしない。そして、この文章はそんな自分を戒める為に書くエッセイでもある。


  前述した我が良き師はかつて『早慶をそこまで優れていない』と言った。けれど、ここに書く私の大学受験時代の少人数塾の講師は意見を異にするようだ。彼は、いつも話の枕詞に『早慶合格経験者としては』と置いて授業を進行なさっていた。彼は兎にも角にも自慢の多い人間であった。はっきり言って、いい年して受験生の貴重な時間を自分の自慢話に使うのは私の理解の外である。このような不快な人は皆さんの周りにもいるのではないか?勿論早慶自慢以外の場合においてもである。では、なぜ人はこのような自慢をしてしまうのかを考えてみよう。

皆さんは『マズローの欲求5段階説』をご存知だろうか?『マズローの欲求5段階説』とはアメリカの心理学者であるアブハム・マズロー氏によって述べられた欲求ピラミッド論である。マズロー氏いわく人間の欲求とは、「生理的欲求」(衣食住への欲求)、「安全欲求」(安全な生活を送りたい欲求)、「社会的欲求(帰属欲求)」(仲間を求める欲求)の三つの低位の欲求とそして「尊厳欲求(承認欲求)」(他者から認められたい、尊敬されたい欲求)、「自己実現欲求」(自分の能力を高めたい)という2つの上位の欲求と述べられている。そして、人間は低位欲求から上位欲求へと満たされていくという。順番で言うと、生理―安全―社会―尊厳―自己実現の順に満たされるという。私がここで注目したいのは尊厳欲求である。尊厳欲求もしくは承認欲求とは『他人や社会から認められたい』という欲求である。人は、他者から、尊敬されるため、羨望サレタイガタメダケニ自慢する。人は尊厳欲求、承認欲求を満たすために自慢をするのだ。


  人は、他者から、尊敬されるため、羨望サレタイガタメダケニ自慢するこの『自慢』に意味はあるのか。例えば生理的欲求や安全欲求もしくは社会的欲求は人間が生きていくには重要な欲求である。というのも、飲んで食べて、危険を避けてまた仲間を作るという行為は人間の生存と密接な関係を持って言えるといえる。また自己実現能力も現代では必須だろう。だって皆さん誰しもテストは30点より100点のほうが良い。このように大いに役立つ4つの欲求に対して、承認欲求はどうだろう。はっきり言おう、承認欲求には『生産性』がない。『にゃんのいみもにゃい』というのは言い過ぎだが、他人への自慢が何を作るのか、何も作らない。あえて言うなら、過度な自慢は他人から自分への『いらだち』は生産できるだろう。


  話を変えよう。人と話す時、自慢するのは良いことなのだろうか。僕はこれを『不必要に早慶を名乗るのはよい事なのだろうか。』という自身の問題に置き換えて考える。私自身必要なければ極力名乗らないし、大学名を聞かれても極力はぐらかすようにしている。例えば、バイト先の履歴書等には必要だろう。しかし、社会人も交じってのスポーツチームの活動の帰り皆さんと一緒に帰る際などは決して言うことはない。無意味な学歴な主張には何の意味もない。ただウザいだけである。人間は学歴で語るべきではない『背中で語る』べきである。背中というのは大げさ過ぎるかもしれないがそれでも他人との会話の仕方とかオーラで自分を表現すべきではないだろうか。


 例え、学歴があったとしてもそれは『決して使える人間』というわけではない。学歴などいくらでもひっくり返されるマイルストーンに過ぎない。それなら資格の一つでも取ったほうが良い。結論として我々は日々個々の能力を磨き続けるしかないのだ。早慶ごときで他人を見下してる人間には大抵まともな奴はいないのだ。


ゆめゆめ、おごれるなかれ



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