終天の夕方

2話 少し遠回りの帰路

バスを降りる。

手に持った少し小柄なスーツケースを持ち上げるだけで腕が悲鳴を上げる。


遠慮なく目に差し込んでくる日光に目を細めながら、軽いエンジン音と走り去っていくバスを見送った。


くすぐったいような、懐かしいような。どうやらこの香りは潮風が運んできたものらしい。


振り返ると、洋上にひろがる青と、バケツツールで塗られたように単純に大空を埋め尽くす青があった。その二つを、やはり消しゴムでサッと消したように簡素な白がわかっている。


ごちゃごちゃした記憶だとか理性に近いものは自分がここにいることをわからせているのに、いかんせん自分がここに立っているという実感だけぽっかりと抜けているのが不思議だ。


海と空を見つめてこんなことを考えている自分も不思議だ。


まだ、寝ぼけているのか、と思う。


体の向きを戻し、黄ばんだ時刻表に目を凝らす。

バスは、早朝に一本と今の一本、そしてこの先にはなかった。

現に面倒をこうむったこの現状もあるわけで、乗るときにはさほど気にならなかったバスの本数さえも炎天下の下にまじまじと実感させられることもあるのだ。


自分たちが乗った、すこし塗装が剥げたバス。

思えば、あのバスは終着駅を過ぎて、どこへ向かうのだろう。

スーツケースへ身を預け、考える。

持ち手の金属部分が少しだけ、つめたい。


じーーじーじーじー

耳を澄ませるとやけに小さな蝉の鳴き声が聞こえる。


そう、映画のエンドロールのあとを期待するような、たぶんそんな心持ち。


それでも今は、終着駅から少しだけ。

一つ前のバス停まで、戻らなくてはいけないんだ。



「って ちょっと」


ぽん と二の腕のあたりを叩かれる。不意打ちでおどろく。


視線を落とすと、

「あ、さっきの」

麦わら帽子がいる。


「さっきからいましたよ、少年」


少年だなんて、自分よりも小さい少女にそう言われるとなんだかむずむずしたり。


「で、その、何か用が?」


不思議だ、すこし。


「なんだかそっけないですね。

わたしは、寝過ごした者同士バス停まで一緒に歩きませんか?、と持ち掛けようとしていました」


麦わら帽から覗く目がじっとこちらを見つめている。

もっと不思議だ。


「それで、」

持ち掛けるの?と、聞きたかった。


「もちろんです。だからこうして話しかけてます。」


孤独に独り歩くよりかは誰かのいたほうがいい。少女もそうなのだろうか。

「いいよ」


「それじゃあ、」

ふと上を見上げ、その陽ざしで目が眩む。

「さ、行きませんか?」


と言って、少女はたっ たっ たっ っと真っ白いガードレールのあたりまで駆けてゆく。


何が何だか理解は追い付かないけど、夏の気まぐれとかなのだろう。たぶん。

肯定も否定もしてはいないし、無言になるのはいやだった。


だけど、なんだかすごく夏っぽくて、そして、忘れていた何かがそこにあるような予感を感じ、ゆっくりと歩きだす。


黄色と赤。

灼けるような太陽の色が、眼窩にもこびり付いたままだった。







「そういえば、名前、なんていうんです?

わたしは、夏に海でなつみっていいます、9さいです」


少し前を歩いている少女は麦わら帽を押さえながら、振り返る。


「名字は?」

答えるより先に口をついてしまったけど、

「あ、ほら、名前だと少し呼びづらいし」

理由を慌てて付け足す。


少女はう~んと唸ってから、

「それは、ちょっと教えたくない、というか教えられないんです」

と、困ったような顔をする。


まぁ、自分の名字に苦手意識を持ってるだとか、踏み込むべきところじゃあないだろう。

忘れられない記憶というのは何だかもったいない感じがするし、そもそも忘れてしまう記憶は持つだけ無駄だ。


しばらくして、少女は思い出したように、

「あ、ほらっ、お名前を聞いているのですが」

と、腕を僕の顔の高さまで上げる。

ぷらぷらと揺れる白い指先は、どうやら僕を指しているらしい。


そうだった。


そして僕は、その指先に向かって話しかける。


「僕は夕凪洸介。いろいろあって、この夏だけ東京からこっちへ来たんだ。」


「へぇ、東京の方でしたか。わたしは、祖母の家に帰省するべくこの町へ来た次第です。

この、じゃなくてあの、でした?」


あごに手を当てて考え込んでいる。腕をおろして。



しばらく沈黙は続き、僕は、僕たちはただただ足を動かす。

少女の履くサンダルの、ぱたぱたという音が乾いた空気に響く。



「あ、帰省っていうのになんで親がついてきていないんだ?」


率直な疑問だった。でも話の間を埋めるくらいの率直さ。


「はい……今年はお父さんが来ないんです」


少女はやけに寂しそうな声音で言う。


スーツケースはがらがらと激しい音を立て続ける。


詳しくは、聞かないことにした。ただ行間を読んだだけ。


いつのまにか僕と少女は並んで歩いていて。一息をついて空を見上げると、二羽の白い鳥が僕らを追い越していく。


六度ほど同じ呼吸を繰り返してから、話を切り替えるべく、また話しかける。


「そうだ、今日、この町のどっかの宿に泊まろうかと思うんだけど、なつみちゃんはどこかいい宿知ってたりする?」


麦わら帽子の奥を覗こうとする。

ひゅうと吹いた優しい風がやわらかく髪を揺らす。


少女は大きく目を見開いてからこちらのほうを見ると、

「………………ぇ、」

さささっと後ずさりして僕から離れていく。

表情はうかがえない。


そして、

「あの、ちゃん付けだけは、すこし、あれなので」

と、絞り出すような声で。


スーツケースを引きずる左手が少し重くなったような気がする。

いや、気のせいじゃない、気が重い、傷ついた。


そしてしどろもどろに、

「え、その、ごめんなさい…。 なつみ…………さん?」

などと聞いて伺うもその麦わら帽子の遠さをみやりて改めて歳の差を実感する僕。

いや、上も下も歳の差が離れているほど気を遣うものだ。うん。そう。


と悲しみに暮れていた矢先。


「その、なので、なつみでいいです」


と言って、たったっと小さい生き物は僕の前に回り込む。


機械のように動かし続けていた足は止まる。スーツケースの音も。


遮るものなく僕たちへ照らされる太陽の光はまぶしすぎて、

その小さな生き物の表情はまだ、うかがえない。








「祖母の家がちいさな旅館をしているんです。

なので、泊まる宿がないというのなら、もしよかったらどうですか?」


隣を歩く少女は僕を覗き込むようにしてそう言った。


「え、いいの?」


「まぁ、あの町に泊まる場所なんてあんまりありませんから」

まるで何でも知っているかのように少女は言う。


アスファルトの照り返しでじりりと焼けた肌の上をやわらかい風がさらりとさらっていった。


「たぶん、もうすぐだと思います。

あの、灯台の見えるあたりです」


どこまでも方図なく続く、海と陸の境目。海岸線と呼ばれるそれを、舗道がくねくねとなぞっている。


そして、区切れを入れるかのよう。

まるで海から引っ張られたかのようにのびた岬から、青空に向かって真っ白な灯台がのびていた。


結構遠いようで、

「案外近いんだな」


そう、なんというか微妙な距離感だったのだ。

往路より帰路のほうが長く感じるみたいな、そんな感じの漠然とした、ちぐはぐな感覚。



ゴトン、という音をたててスーツケースが小さな石にひっかかる。

両手で少し重たいそれを持ち上げてから再び歩き出すと、少女が尋ねてきた。


「そのでっかいの、何が入ってるんですか?」


「ああ、これ。たぶん着替えだと思うんだけど、」


すると、えっ、と少女は驚いたように、

「いったい何日この町にいる予定なんですか」

と大きな声で聞いてくる。


「実は、まだ決めていないんだ。

というか、もっと重大なことがあって、」


「なんです?」


「実は、スーツケースの鍵が開かなくなっちゃったんだ」


「なくしちゃったんですか?」

少女は聞く。


「そうじゃなくて、持ってきた鍵がなぜか鍵穴に合わなかったんだ」


足を止めて、ごそごそとポケットをまさぐる。


「どれどれ」

と少女も覗き込んできた。


しゃがみこんで、スーツケースを前にする。

鍵をつっこんで、がちがちといわせるけど、やはり奥まではささらない。


「それじゃあ、この鍵は何の鍵なんでしょう」

少女は心底疑問だという感じで聞いてくる。


「う~ん、どうなんだろ」


麦わら帽子のつばが、ちょこんと肩にぶつかる。


しゃがんでいると、陽ざしをより強く感じる気がした。

あつい。 帽子が欲しい。


案外、スーツケースからの熱放射だったりして。


日陰に早くたどり着きたい僕は、

「これはなんとかするよ。近くなんだし、早く町まで行っちゃおう」

といって、立ち上がる。


少女は、

「どうやってなんとかするんですか、それ。というか着替えも」

と、言いながらも先を歩く僕に小走りでついてきた。




歩きながら少しずつ大きくなる灯台を見つめていると、近くなっているのにどこか遠いような気がして、やはりこれは帰り道なのかもしれない。




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