第16話 レイン、レイン、レイン

「うそ……っ」

 ヘリオガバルスは思わずそう零してしまう。

 なぜなら、あまりにも信じられぬ光景が目の前で繰り広げられていたから。

 自身の最も破壊力の強い攻撃である絶理を、受け止められてしまったから。

 その事実には俺も困惑していた。敵は大魔法にも近い力を使っていた。けれど魔力は一切発せられなかった。これは一体どういうことだ?

 ヘリオガバルスの絶理が炸裂した時、奴は言った。

「幻想再現、事例十二――スヴェル」

 そして、そんな呟きと共に奴は懐からカードキーのようなもの(呪符や概符と形状は似ているが、確実に違う未知の物体)を取り出したかと思うと、虚空に向けて縦に振るい――

 巨大な氷盾を出現させた……!

 それは突然だった。

 奴が振るったカードキーによってバチバチという雷撃のような音と共に虚空が割れ、そこがおそらく一時的に別の空間(いや、次元だろうか)と接続。次いでその亜空間からは、巨人でさえも扱う事が出来ないのではと思わせる程に極大の氷の大盾が排出された。

 しかして、太陽の化身と、凍てつきし大盾はぶつかり合い、お互いを無に還した。

 途轍もない地籟、凄絶な地鳴。吹き荒ぶ熱風と冷気。

 灼熱が氷壁を溶かし、烈寒が炎熱を奪う。

 やがて衝突は終焉を迎え、天変地異など容易く行えるほどの熱量が消失した。

 それでも、奴が倒れることはなく。

「フハハハハハハハハハハ! これはこれはなんとまあ、愉快なことよ。物事が自分の思った通りに行くというのは、こうも気分の良いものか! ハッハ!」

 鬱陶しい笑い声が、心を掻き乱す。

 化物か、奴は。まったく、これでは打つ手がない。絶望的だ。必死でいくつかの策を練るも、どれも確実性に欠ける。くそ、どうすりゃいいんだ!

 そんな風に悩んでいると、ウルティオはこちらにアイコンタクトを送り、その直後、敵に向かって駆けて行った。

「そうか、ならばお誂え向きのイレギュラーをぶち込んでやろう。――さあ、歩け! 最上なる我が七十にして八十万の兵よ!」

 ウルティオがそう叫んだ瞬間、今までに無い圧倒的物量を誇る砲台が出現。視界を十二ポンドカノン砲が埋め尽くす。

 しかし、それを見ても非人間的な出で立ちをしたそいつは臆する事はなく。

「無駄無駄。貴殿とてその小さな頭に多少の知恵は詰まっているのであろう? いい加減気付かぬのか? ハッハ、私にはどう足掻こうと勝利出来ぬと! フハハハハ! 我々には幻想再現ベグリッフ・ミュートスがあるのだから」

「それはどうだろううな、血豚? あまり英雄を舐めないほうがいい。――ラ・グランド・アルメ!」

 彼女の下知によって砲口が一斉に火を吹き、夥しい数の砲弾が射出される。

 瞬きする間にこの地は砲撃によって火の海と化すだろう。

「幻想再現、事例八――アイギス」

 そうは言っても、奴は当然の如くさっきと同様に未知なる防御手段を取るはずで、事実奴はカードキーのようなものを手に取り虚空を切った。

 空間が裂け、そこから再び防御用の盾と思わしきモノが顔を出す。

 よって、ウルティオの攻撃は無為に帰す、はずであった。

「何っ!? なんとなんとなんと! 伏兵か!」

 しかし、それよりも早く無数の爆炎が奴の体に到来した。それは、その言葉通りに突然彼を囲むように別の二方向から現れた、十二ポンドカノン砲によるものだった。

 最後に、元々敵を狙っていた火砲による爆撃が敵を襲う中、ウルティオはその爆心地に向かって走りながらこう語る。ナポレオンの戦術を再現するかの如きその絶理の仕組みを。

「伏兵とは少し違うが、これが革命の英雄の戦いだ。敵を油断させ、全くの想定外から攻撃を開始する。故にこそ、彼は敵軍の機先を制しその混乱を糧として数多の勝利を掴んだ。曰く、最良の兵士とは戦うよりむしろ歩く兵士である」

「フッハハハハ、楽しませるではないか、童女よ。先の言葉を訂正しよう。予想外に陥るというのはこうも不愉快で腹立たしく、心躍るものであったか。フハハハハハハハハ! 足止めなど捨て置いて、貴殿等を殺してしまいたくなる程に!」

 全ての爆撃をその身に受けながらも、なおその中心で笑い続ける狂人。

「故に、お前の乱れた足並み、掬うわせてもらおう!!」

「ほう、貴殿の攻撃は痛かった。確かにとても痛かったよ。だが、それまでだ。致命傷には至っていない。それで何が出来ようか? いや、何も出来るまいさ」

 その言葉から、激しい爆炎に晒されながらも敵は未だ五体満足であることが察せられた。

 だが砲撃が止み、辺りを包む爆煙が消え、更地となってしまった地表が見渡せるようになった頃、既にウルティオは敵の懐まで入り込んでおり――

「ああ、知っているとも、魔力を介さない攻撃は貴様ら血豚には効き目が薄い。故にこそ私は貴様を切り伏せよう。――色を変えよ、祝福されし国父の剣ジョワイユーズ!」

 そう言うと彼女は腰に指していた剣を抜剣、おそらくは先程の彼女の絶理ラ・グランド・アルメの効力によって硬直していると思われる敵に向かって、その名剣を上段に構えながら詰の一歩を踏み込む!

 彼女の手で抜かれた途端、その仏国随一の名剣の剣身を、その何十倍もの光り輝く魔力が覆い尽くした。そして、そのまるで光を打って造られたかのような様相を表したジョワイユーズが、 敵の肩口目掛けて振り下ろされる。見事な袈裟斬りによって。

 敵には避ける術が無く、その右腕は根元から切り落とされて。

 彼女がそのままの勢いで切り抜けていく背後では、ボトッという音がした。

 遅れて血がブシャアと飛び出す。その赤は留まる事を知らず激しく漏れ続け、地面にまた新たな血溜りをつくった。

 そして隻腕になったそいつは、地表に落ちている自分の腕だったものを見て、なお笑う。

「くっ……! まさか我が片腕がもがれようとは! たまげたぞ、異邦の少女よ! だが、なるほどどうして、それでなんとする? 私がこの程度では死なぬと貴殿なら知っていように! フハハハ!」

 その時ウルティオがこちらに振り向き、再び俺に目配せした。

 つまりそれはきっと、ぶちかませってことだろ!

「そいつはなあ、こうするんだよ! 頼んだぞ相棒!」

 先のウルティオの攻撃中に詠唱は終わらせてある。俺達はただその合図を待っていた!

「オッケー、裁駕ぁ! いくよ。――我が行く末を照らせ! 背徳指し示し陰陽の煌きデウス・ソール・インウィクトゥクス!」

 そう言うが早いか、もう一度奴の頭上に猩々緋の太陽が現出する!

「同じことを何度しようと、無駄だと分からないのか、青年? つまらん、実につまらんな。あまりにも愚鈍、あまりに凡愚。ああ、あまり私を退屈させないでくれ」

 奴はそうげんなりと見下すように呟き、先と同様カードキーのようなもので虚空を切る。

「幻想再現、事例十二――スヴェル」

 俺達は二度同じ絶理を行使し、ひいては、対する奴の反応も同じだった。

 そう、同じだった。

 右手ではなく左手でという違いこそあれど、その本質は同じ。カードキーのようなもので虚空を切り、亜空間を形成。そこから盾を飛来させ防御する。

 俺達は、それを待っていたのだ!

 なぜならば、その得体の知れん防御方法は、ウルティオが無効化してくれるはずだから。俺達の考えが同様ならば!

 そしてウルティオはこちらに対しよくやったというように頷くと、隻腕となった強敵に言い放った。

「そう言うのであれば、対処法を変えるべきであったな、血豚よ。貴様も所詮凡愚に過ぎぬということだ。――解き明かせ、万象の鍵ピエール・デ・オゼット!」

 二人の思惑は通じ合ったらしい。

ウルティオの言葉に合わせ、その真横に彼女より少し小さな閃緑の石碑が顕現した。

 それはナポレオンを知る者ならば誰もが知っていて然るべき、彼女が発見したかつての埃国の至宝。神聖文字・民衆文字・希臘文字、それぞれ三種類の文字が記述されし太古の石柱。この碑文が刻まれた神秘的な石柱は、現代において真理を解き明かす定理の鍵を象徴している。故に、 この石版の前ではどんなものであろうとその奥に隠された真実を丸裸にされてしまう。

 つまりその石版、ロゼッタストーンを呼び出す彼女のこの絶理は、奴が生み出した盾を崩壊させ、その陰に隠れた奴の姿を暴き出す!

 全ては予想通りだった。ウルティオが本当にナポレオンをその身に纏っているのなら、これを使えるはずだと確信していた。だから、彼女が最初に行ったアイコンタクトの意味も理解する事が出来たし、それに合わせてヘリオガバルスの絶理もお見舞いしてやれた。

 一回目の二の舞にはならない。万象の鍵によって敵の鉄壁かと思われた守備は消失し、太陽神の裁きの炎が奴の身を灼き尽くすだろう。

 そしてその作戦通り、亜空間から突如出現した見上げるように大きな円形の盾は、ロゼッタ・ストーンの効力によって音もなく消失した。

 しかし、それよって自慢のシールドを無効化された隻腕は、それでもなおおどろおどろしい顔を歪めて高らかに叫ぶ。その中性的、非人間的肉体を、この世のものとは思えない、隔絶した大熱量の真ん前に晒しながら。

「なんだと!? これはこれは、なんという連携か! 言葉なき合図! 鴛鴦夫婦でさえも見習うべき見事な合わせ技! 私の行動の完全なる予測。いやあ、完敗だ! 私の弁舌を上回ろうとは! それは予想していなかったぞ、青年少女よ! ああ、受け入れようじゃないか、私を楽しませてくれた脚本家二人に感謝しながら、私はほんの一時座して待とう。なあに、安心したまえ。この炎が消ゆれば直ぐに君達二人にたんまりとチップをお見舞いしてやろうとも、フハハハハハハハ!」

 直後、赫焉が全てを呑んだ。世界は塗り代わり、轟々と燃え盛る巨炎が両眼を支配する。

 その身を灼かれ、溶かされ、焦がされた、一匹の獣が嘶いた。

「が、ぬあああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 その咆哮を聞きながら思わず俺は片膝をついてしまう。二重召喚中に絶理を三度立て続けに使ったことによる魔力の枯渇。それによってもたらされるエネルギー不足と、過度の疲労。気絶していないだけまだマシなくらいだ。

 そんな情けない姿を晒す俺を見て、荒い息を吐きながら同じく消耗しているウルティオが叫ぶ。

「なにをぼけっとしている、我が同胞! 追い討ちをかけろ!」

「なにいってんのさ、赤い人! 今ので爬虫類野郎はやっつけたでしょ! もー。後、それ以上裁駕ぁのこと悪く言ったら殺しちゃうからね!」

 ヘリオガバルスはそう言って俺を庇ってくれるが、それに甘えてはいられない。

「いや、ヘリオガバルス。ウルティオの言うことは最もだ。まだ奴は倒れちゃいない。だが、ちょっと今情けないことに俺は魔力の使いすぎて動けねえ、多分ウルティオも似たようなもんだろう。だから、頼む」

 今までの奴の様子を見るに決定打は与えたはずだが、まだ止めを指せていないと見るべきだ。油断は出来ない。

「いやいやー、大げさだなー裁駕ぁ。てゆーかあ、赤い人のこともなんか名前で呼んでるし、嫉妬しちゃうよー。まったくーぷんぷんだぞ?」

 そう言って両手をグーにして頭の横に置き、いじらしい仕草をするヘリオガバルス。

 けれど、その後ろでは不穏な影が蠢いていた。

「いやいやいやいや、お言葉だがローマの太陽皇帝よ。今この場で最も嫉妬に狂っているのは私であると思うのだが、いかがかな?」

「なっ……」

 燃え盛る火焔の中からその言葉は聞こえてきた。そして声は段々と近づき、やがてそれは自分を襲う炎から逃れ、その醜く爛れた姿を俺達の前に晒した。

 俺は思わず吐き出しそうになった。

 ここに来るまで、数々の惨殺死体を見た。死の山を見た。

 バラバラになった四肢。潰されて中身をぶちまけられた頭部。暴かれた臓器。他にも色んなひどい死体があった。加えて、それ以前にも職業柄そういうものを見ることはあった。

 ただ、動く焼死体を見るのは、初めての経験だった。

 それはどう見ても死んでいた。皮膚はただれ、溶け。そうでない部分は黒く焦げ、炭化してしまっている。またあちこちに白骨が見え隠れしていた。左の眼球は蒸発している。言うまでもないが先程切断された腕の止血は、皮肉なまでに見事になされていた。

 完全な、どうしよもないほどの死がそこにはあった。けれど、それは動いていた。

「今更だが、俺は悪い夢でも見てんのか……?」

 これはもう人間じゃあない。化物だ。

「悪魔め……!」

 ウルティオが呟く。

「これはまた愉快なことを言うな少女。この世界で悪魔と呼ばれたのは貴殿が纏いしその魂であろうに! コルシカの悪魔がよくもまあそんなことを言えたものだ! まったく、貴殿は後世にいくつ傑作を残せば気が済むのか! フフフ、フハハハハハハハハハハハ!」

 嗤いながら、その化物は一瞬でウルティオへと距離を詰める。化物はウルティオの目と鼻の先にまで肉迫していた。

「約束通りチップをやろう。心臓を一突き。どうだ、なかなか得難い経験であろう?」

 応戦しようとするウルティオだったが、流石の彼女も消費の激しい絶理を三連続で使用したのは堪えたようで動きが緩慢になっていて……。

 彼女の最後の抵抗は、敵の焼け焦げた面に唾を吐きかけることだけだった。

 そして彼女と同様の理由で、咄嗟には動けない俺にはどうする事も出来ず。

「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 ただみっともなく大声で叫ぶしかなかった。

「激昴、ふむ。激情が我が体を突き動かす。ああ、こんなに人を憎いと思ったのは久し振りだなあ! 童女ォ! その反骨精神、墓まで持って行ってやろう。恐れを知らぬ鬼子よ、では、美しいままに散り逝け」

 その言葉と共にその化物はウルティオの胸を一突きした。当然その尋常為らざる生物が放ちしその一撃は、少女の細い胸板など豆腐でも切るかのように容易く貫く。

 ウルティオの胸に、拳大の穴が空いた。

「かはっ……!」

 少女の口から、胸から、大量の血液が噴出する。それは、元々赤で埋め尽くされた少女の体をさらに赤く真紅に染めて。

 彼女はそれきり動かなくなった。

 空には暗雲が立ち込め、俺は自分の中の何かタガのようなものが外れるのを感じていた。血流が沸騰するかのような熱く燃えたぎる熱を覚える。

 自然と拳が握られて、口は勝手に開かれていた。

「てめえ、自分がしたことの意味わかっててそれをやったてことでいいんだよなあ? わかってなくても殺すが、わかってるってんならブチ殺すぞ!」

 俺は片膝からやっとの思いで立ち上がり、開口一番そう叫ぶ。立てた中指を突き立てて。とてもおまわりがやるような行為には見えねえが、もう自分の立場なんてどうでも良くなるくらい、俺はこいつが憎くてたまらなかった。

 その糞野郎はこちらの神経を逆撫でするねっとりとした口調で弁をふるいながら、こちらへと一歩一歩ゆっくり歩み寄ってくる。悦楽に、その醜い顔を歪めて。

「ああ、もちろん。当然だとも。私はたった今、貴殿と行動を共にしていた少女を手にかけた。胸部をさくっと抉ることで。うむ、なかなかどうして、とても簡単で爽快だった。ああ、無論なんの理由もなく、無意味に無価値な死を与えた。ん、いや? それは言い過ぎであったかな? 彼女の死は君の激昴の発端となった。そう言う文脈であれば、彼女の死は無意味では無かったと言えるかもしれない。どうだ? よく解っているだろう? フフ、フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」

「死にてえようだな……!」

 怒りに任せて思わず敵に向かって駆け出そうとした俺の手を、ヘリオガバルスはぎゅっと握る。そして、前に出て大見得を張る。

「裁駕ぁ、落ち着いて。今のキミじゃあ、アイツは倒せないよ。……だから、ボクに任せて!」

 しかし、それは許可できない。言ってみれば、ストラージャとは幻想魔導師の使い魔のようなもの。ある程度は自身でも賄えるが、その活動源の殆どは使い手からの魔力を当てにしている。それは、召喚魔法や纏臨魔法における常識。よって、俺の魔力がスカスカである以上、ヘリオガバルスは全力を出せるとは言い難い。そもそも、全力を出しても奴に勝てるかは五分五分だ。

「止めろ! お前までやられたらどうする!」

「だいじょうぶ! ボク達ストラージャは所詮ただの幻想。どんなことがあっても死ぬことはないんだから。君がボクを想ってくれさえすれば。そんな当たり前のこと裁駕ぁなら知ってるでしょ? だからキミにもらった魔力が切れるまで、ボク、アイツを足止めするよ。だから、逃げて」

 睨みつけてでも止めさせようとしたが、彼の決意は硬かった。彼は飽く迄その愛くるしい美貌を笑顔で彩ってそう言った。その小さな体を、恐怖で震わせているにも関わらず。

 なんと強く健気な意志なのだろう。

 けれどそれを受け入れるわけには。いや、受け入れることなんて出来ねえ。

「そんなことできるわけないだろうが! いくらお前らが死なないからって、苦痛はあるはずだ。恐怖はあるはずだ。そんなお前らを道具のように使うことなんて出来ねえよ! 大体プライドの高いあのガキが俺を仲間と呼んでまで戦ってたんだぞ。どうして俺だけが逃げられる!」

 俺はきっと子供のように喚いていたのだろう。だから

「もうわがままだなあ……。言うこときかない悪い子にはこうだっ! このわからずや!」

 ヘリオガバルスは突然俺に向かって強烈な蹴りを放った。

「なっ……がっ!」

 俺は遥か遠くの瓦礫の山へと一直線に吹っ飛ばされ、鋼鉄の塊に全身を打ち付けられた。

 くっそ……いってぇ。アイツ、なんてことしやがる。

 そんなに自分を安売りするんじゃあねえよ。思いつきで行動しやがって。

 ああ、でも……くそっ……。

 どうやら頭も打ってしまったようで、意識が遠いていく。

 だが、全身に走る激痛さえ忘れて朧気になっていた意識は、腸を煮えくり返すような笑い声で覚醒した。ぐわんぐわんと脳内に不快が響く。

「フハハハハハハハ! なんともまあ面白い見世物であると見ていれば、とんだ茶番であったな! だが、良い。実に良い喜劇。いや、済まぬ、っく、悲劇であった。ふ、続きがしたければいくらやっても構わんぞ。先の童女とは違い貴殿等二人を屠るつもりは無い。いくらでも観劇し、感激してやろう。それならば私の退屈もいくらか紛れることだろうよ。ハハハ、フ、フハハハハハハハハッ!」

 俺は全身から血を流しながらもかろうじて立ち上がり、ヘリオガバルスはその彼方で体を震わせながらも、キッと敵を睨みつけていた。

「ねえ、ずっと思ってたんだけどさあ」

「なんだ、少年皇帝ヘリオガバルス?」

 奴は今確かに、ヘリオガバルス、その愚帝と蔑まれし名を口にした・

 こいつ、なぜ明かしていないヘリオガバルスの真号に気付いていやがる? 

 詠唱はこいつには聞かれないように行った。ナポレオンと違い、外見からは彼の真号のヒントを得ることも出来ない。また、ナポレオンほどヘリオガバルスは有名ではないし、ナポレオンと違いその絶理から彼という答えを導き出すのはほぼ不可能だ。それに、なぜ別世界の住人でありこの世界の歴史に造詣があるはずもないコイツが、ヘリオガバルスという真号に辿り付けた?

 俺は怒りでどうにかなっていた頭を、疑問で無理矢理抑えこもうと試みる。

 だが、そんな風に悩む俺とは違い、ヘリオガバルスはただ目の前の敵を自分に引き付ける為だけに、挑発をしようとしていた。そうして俺が逃げる隙を作る為の、挑発を。

 人の想いというのは残酷だ。こんなにも人に尽くしてしまう滅私奉公な彼というストラージャを生んでしまうのだから。

 彼は言う。拳を握り、親指を下に向けて。

「おまえ、ほんとに人間かよ?」

 それを聞いた奴は、やはり嗤う。人間という存在そのものを虚仮にする様に。

「フフフ、フフ、フッハハハハハハハハハハハハ!! ああ、ああ、ああ、人間だとも。第三の性を持ちし皇帝よ。しかしまさか貴殿がそれを言うとはな。フッハハハ! とはいえ、人間は人間でも、人間が創った人間ではあるが。そう言う意味では、この世界でストラージャと呼ばれる貴殿に我々は似ているかもな。人に利用されるべく生まれた機械という意味においては。ククク、似た者同士手を組むか? なあ、ヘリオガバルス?」

 奴はヘリオガバルスの挑発に憤るでもなく、ただ嘲った。

「ふざけないでほしいな。お前みたいなへんちくりんと一緒にすんなってんだ! なにいってんだかわけわかんないし」

 確かに理解できなかった。ヘリオガバルスとこの糞野郎が似た者同士など、反吐が出る!

 俺は足に刺さったガラスをひと思いに引き抜き、赤くなった足を引きずりながら敵を目掛けて歩き出す。周囲に展開されていた呪符は、魔力切れでとうとう全てが地に墜ちていた。そう、魔力切れで。俺自身には、もう拳を振るう程度の力しか残っていない。他にあるものと言ったら、心と脳だけだ。

 暗くなった空から、雨がぽつぽつと降り出して。

 その雨音をかき消す様に、それは語りだす。

「そうであるか。それはそれは誠に残念だ。貴殿は確保対象であるからして、お家まで仲良く一緒に帰ろうと思っていたのだが……。ならば、予定通り縄に付け無理やり引きずり帰ってやろう。フハハハハハハ! 完璧な奴隷の完成だ。手錠も首輪も持ってこなくて正解だった。貴殿の倒錯に感謝せねばならんな! フハハハハハハハ!」

 ヘリオガバルスがその身に纏った拘束具の数々へ、舐める様に視線を送るそいつに対し、彼はきっぱり言い放つ。その類稀なる美貌を怒りに染めて。

「これはぜーんぶ裁駕ぁの為の道具なんだけど? お前なんかに使わせる気はないぞ!」

「貴殿如きが私と真っ向から戦って勝てるとでも?」

「思ってないよ。だからってそれはボクが戦わない理由にはならないと思わない? ボクはたとえ勝てない戦いでも、絶対に逃げたりしない! 裁駕ぁの為なら! 愛を前にしたとき、ボクの頭はおかしくなっちゃうんだ、太陽神の加護のおかげでね!」

 目の前の強大な敵が発した至極当然のその問に、ヘリオガバルスは不敵にそう答えた。その様は誰がなんと言おうと、正しく英雄そのものであった。

 その後ろ姿は確かにとっても小さかったけれど、この世の何者よりも輝いて見えた。

 俺は彼の方へと流れる血で線を描きながら一歩一歩近づき、心の中で頷く。

 ああわかるぜ、その気持ち。俺は今、そいつをぶちのめしてやりたくてたまらない。勝てないかもしれなくとも。

 でも、やっぱり俺はお前を尊敬するよ。俺は一分の勝率があってなおかつ自分のこの激情を果たしたいから立ち上がる事が出来る。だが、お前は全く勝算がなく尚且つ他人を守る為に立ち上がっている。そうさ、この差はとても大きい。

 ああ、お前達はなんでそうかっこいいんだよ。ずるいだろ。俺が到底できないような事を平然とやってのけやがる。ほんと、かっこいいな、お前達は……。

 俺はそんなかっこいい英雄を守るべく、牛歩の如きもどかしい一歩を踏み出していく。

 しかし、あの糞野郎は、そのヘリオガバルスの言葉を馬鹿にするようなジェスチャーを交えて、こう語り始めた。

「おお、少年、泣かせるではないか、ああ、とてもいい話だった。末代まで語り継がせたくなるほどの名台詞であった! だがしかし! でも済まないな、なぜだか涙は流れてこない。本当に申し訳ないが、どうやら私が見たいのは貴殿の涙のようでね。貴殿のその雄々しく、それでいて少女のように凛々しく可愛らしいその顔が、涙でどう歪むのか…………見たくなってしまったよ!」

 そう言って、それはとうとうヘリオガバルスへと左拳を振るった。

「ボクは絶対におまえに屈したりなんかしない! 泣いたりなんてするもんか! 力を貸して、太陽神殿ヘリオガバリウム!」

 対するヘリオガバルスは残り少ない魔力で、魔剣を呼び出しその攻撃を受け止める。

それは、かつてヘリオガバルス以前の時代を生きた羅馬の英雄が用いたとされる武器。名をサフラン色の死ジャッロモルテ。死という名が指し示すはこの剣の呪い。即ちそれは、この剣で傷を付けられた者はたとえその場で死なずとも十五日以内に必ず死に至るというその恐るべき効力の事を表している。

 けれど――

「おいおい、少年。そう言われては、益々いたぶってやりたくなるではないか! 禁止された行為程魅力的なものは無い、そうは思わぬか?」

 ヘリオガバルスの剣撃の尽くは、敵に傷をつけることはなく宙を切った。

「ねえ、いい加減黙ってくれないかな? ボク、だいぶイライラしてるんだよね!」

 それでもめげずに彼は剣を振るい続ける。振り下ろし、横薙ぎ、突き。切り上げ。

 でも悲しいかな、その剣筋は全て、見切られていた。

「おおっと、危ない。サフラン色の死とはまた因果なものを持ち出してくれるではないか。私とて好きで喋り続けているわけではないのだがな。貴殿等がこうも次から次へと話題を提供してくる故、それに応じているだけのこと。無論、必要があって扇動している部分もありはするのだがな! フフフ、フフハハハハハ!!」

「くそっ! てい、やあっ!」

 どんなに馬鹿にされても、無駄であっても、ヘリオガバルスは一心不乱に剣を振るう。彼は、未だ絶望していない。

「はあっ……はあっ! とうっ!」

「……流石に飽きてくるな。皇帝ヘリオガバルスは、飽く迄王だったのであって剣士でも、ましてや剣豪でもなかった。故に、貴殿の使う武具も先程の絶理とやらも強力だったが……剣の腕はひどいものだな。思わず欠伸が出そうだ」

 闇雲に剣を振るうヘリオガバルスの攻撃をずっと躱し続けていたそれは、とうとう避けるのを止めて、爛れた醜い顔を更に歪めた。

「知ってるよ、そんなこと。ボクなんかが白兵戦をしたところで勝ち目がないなんてことは。でも、だけど、それでも! 立ち向かうべき時があるだろ!」

 けれど、ヘリオガバルスは諦めない。これを好機と見て剣を振り上げ、敵に向かって思いっきり叩きつける。

「クドい! その理屈なら疾うに聞いたわ! 民衆にならば繰り返しによる刷り込みは決定打になろうが、私を一緒にするなよ、少年! まあ貴殿は、その愚民共すらまともに治めることの出来ぬ無能への思念の結晶。無理もないか」

 しかし、声を荒げた敵の左手がヘリオガバルスの振り下ろしたその細い腕を取り、思い切り握り締める。剣筋は敵を切り伏せることなく、その直前で抑え込められた。

「がっ……!」

 そうして加えられた尋常為らざる握力によって、ヘリオガバルスの手首には並々ならぬ圧力がかかり、彼は意図せず剣を手放してしまう。

 カランと音が鳴った。それは、持ち手を失った剣が一度だけ行うことの出来る存在の主張。けれど地に落ちたその剣がもう一度握られることはなく。

 その後には激しくなりだした雨音だけが響き。

 その持ち主は、人の皮を被った怪物に蹂躙されようとしていた。

「ほう、いい表情をするではないか、ふんっ!」

 怪物は握り締めた細腕を解放したかと思うと、その華奢な体に痛烈な膝蹴りを入れた。

「げっ……かはっ! ごほっごほっ!」

 あまりのダメージにヘリオガバルスは咳き込み、その場に倒れこむ。

「こっちを向け、もう一発だ!」

 地面に伏せた顔を無理矢理振り向かせ、怪物は左拳を叩きつける。彼のその少女のように綺麗な顔がぐちゃぐちゃに歪む。けれど、けれど! ヘリオガバルスは立ち向かう。

 彼はなんと殴られながらも、両手で敵の腕をホールドしていた。

「ぐ、はっ……! 掴ん、だぞ……!」

 掠れた声ではあった。けれど、ヘリオガバルスは確かに気丈にそう言った。

 それを見た怪物は嗤う。その尊厳を踏み躙る様に。

「フハハハハハハハハハハハハ! なんたる忠誠、なんたる忠誠だ! 見上げたものだなヘリオガバルス! だが、それもいつまで持つかな?」

 爛れた顔を悦楽に染めた怪物は、その疑問を晴らそうとするかのようにヘリオガバルスを嬲り続ける。自身の左腕を掴んだ手を彼が離さないのをいいことに、そのまま超人的膂力で左腕を上下に振るい、何度も何度も彼の細い体を硬い地面へと叩きつけた。

 がぎっ、がぎっ、ごりっ、ごりっ。

 人から出ているとは思えない破壊の音が鳴り響く。

「この手は、が、……ぜっだ、ぐっ! はなざっ、ない! げっ、……あぐっ!」

 それでも、ヘリオガバルスは諦めない。服も肌も顔も全てが汚され、血濡れ擦り切れ青くも赤くもなってあちらこちらの骨が折れてはいるけれど、彼はその手を離さなかった。

 それどころか、彼は怪物の腕に噛み付きさえした。

 思わず怪物もそれには苦悶の表情を浮かべる。だが、やはり自身が意表を突かれたことさえも笑いの種として、怪物はその彼の死闘さえも嘲笑う。

「ぐっ……あ! な、なんと、なんと、なんとなんと、噛み付き、噛み付きか! ククク、クフフ、フハハハハハハハ! 貴殿はどこまで私を楽しませれば気が収まる。フフフ、楽しい、実に楽しいぞ! フハハハハハハハ!」

「んんんん! ん! んんんんんん!!」

 悲痛な叫び声が響く。人体の壊される音が鳴る。

 その圧倒的絶望の音色は、ざあざあと降る雨音でもかき消すことが不可能なほどに強く。

「畜生!」

 俺はどうにかなりそうな頭を押さえ、怪物を止めるべく急ぐ。

 やめろ……!

 怪物と俺との距離はあとわずか。だけども手を伸ばすにはひどく遠いその場所には、俺の声は届かない。雨がしんしんと、不能なこの身を無情に叩いてゆく。

「ハッハッハッハッ! 実に醜い、実に醜い足掻きだ! だが、美しい! 真に美しい! ああ、惜しむらくは貴殿を死という最も美しい形で終わらせることの出来ぬことだ!」

 怪物はその陵辱を楽しんでいた。そののっぺりとした顔に笑みを貼り付けて、ヘリオガバルスに最も長く強い痛みを感じさせるようにその華奢な体を地面に叩きつけ続けた。

「んんんん! んんん! んんんんんあああああああああああああああ!」

 最後にそう断末魔を上げて、ヘリオガバルスは、とうとう気を失った。それでも、驚くべきことにその手と口は敵から離される事はなかったが、、怪物はそれをにべもなく引き剥がし、ポイッと投げた。まるで飽きたおもちゃを捨てる、子供のように。

 打ち捨てられたヘリオガバルスの傷つきボロボロになった体を、雨粒が執拗に打つ。

 俺がその畜生の元へとたどり着いたのは、そんな最悪のタイミングだった。

「て……めえ、いい加減に……しやがれ!」

 俺はやっとのことでヘリオガバルスの蹴りから復帰し、もたつく足で畜生の下まで辿り着くと、そう言った。雨に濡れてでびしょびしょになりながら。

「ハハ、ヒーローは遅れてやってくるとは言うが、いささか遅すぎたのではないか?」

「うる……せえ、俺はヒーローなんかじゃあ……ねえ、からなあ! 死ねえ!」

 もう俺は何も考えず、ただ思い切り目の前の的に向けて拳を振るった。

 しかし、もちろんそんな攻撃が通用するはずもなく、打撃音すら、雨に打ち消された。

 けれど、これで気持ちを抑えることができる。怒りは今ので捨て去った。感情は此処に置いて行く。後はただ、勝利だけを求むのみ。

 ウルティオ、ヘリオガバルス、怒りのままに戦えない姑息な俺を許してくれ。本当に済まない。だが、安心しろ、この命に変えても仇は必ずとってやる。

「その展開は! 貴殿のストラージャのおかげで! 先程、嫌という程観覧済みだ! 二番煎じ、二番煎じ程興醒めなものもないとは思わんか! 青年よ。パロディ、リメイク、アレンジ、二世、二代目。ああ、最も我々にふさわしく、故にこそ最も我々が忌み嫌う言葉だ! 全く忌々しい! そんな発想が生まれなければ! 生まれさえしなければ! 今頃はもっと、もっと!!! ……ふ、良かったな青年。貴殿が回収因子に指定されていなければ、真っ先に殺しているところだったぞ。……なあっ!」

 俺がそんな決意を固めたことも知らぬであろう目前の敵は、そんなわけのわからない言葉を吐きながら俺に殴りかかってきた。

「ぐあっ……! ぐ、げっ!」

 でもそれでいい、俺が何も考えず、怒りのままにこいつに立ち向かっていると錯覚させろ。そうでなければコイツに勝つことはできない。一瞬でいい、ほんの一時だけこいつを油断させることだけを考えるんだ。さすれば、俺はコイツに勝利できる。

「脆い! 脆い貴殿等は直ぐ他所に力を求める! ああ! それが! 憎たらしい!」

「それの、何が悪い! 人間はそうやって発展してきた! 人はそうやって生きてきたんだ! だからこそ人は強いんじゃねえのかよ!」

 ああそうだ。できるだけ頭の悪い回答をしろ。まるで頭に血が上って何も考えられなくなっているキチガイのような回答をするんだ。

「一人の強者が現れれば皆がただそれにつきしたがうだけの人形となってもか?」

「そんなものはただのひねくれものの穿った見方だ!」

 いいぞ、ただ否定しろ。合理性も正当性も今は全く必要としていない。ただ憎い相手の言葉を条件反射的に否定する人間の演技をしろ。

「そうして少数を切り捨てる貴殿等に果たして大義はあるのか?」

「んなこと知るか! 俺は今、とにかくてめえをぶち殺したくてたまんねえんだよ!」

 完璧だ。全くもって敵の話を無視した支離滅裂な言葉を吐き出し、自分が何も考えていない暴徒であるとアピールしろ。銃があったら即座にぶっぱなしてしまうような精神状態であると相手に錯覚させるんだ。

「なんと野蛮、なんと非理性的であろうか! 少しでも対話をしようとした私が愚かだったか。白けたな、そろそろフィナーレといこうか!」

 いいぞ、いい! 愚かなる眼前の敵は見事に騙されている。俺がたった今理性を失い溢れ出る感情のままに何も考えず巻くし立て拳を振るう猿であると、奴はそう信じている!

 馬鹿め、その誤認がお前の敗北を作るとも知らず……。

「ぐっ……が! くそ!」

 適度に声を上げろ。殴られているのに無言では敵も異変に気付く。

 だが思考はやめるな。戦いの場では考えるのを止めた奴から死んでいく。

 それでいて、敵に思考しているとは絶対に悟られるな。それは勝ちの目を潰す愚行だ。

 表情の支配は怠っていないか。不自然な表情をしていないか等とはゆめ考えるな。

 よし、問題は無い。完全に俺は今怒りで我を忘れている。全ては上手くいっている。

 後は最後の切り札である恋人の大アルカナを切るだけだ。万が一のルート二も考慮しろ。

 焦るなよ。焦れば全ての努力が水泡に帰す。次の言葉に合わせ呼び出すんだ。

 考えてはだめだ。考えた末のセリフを口にすればそれは敵に気取られる。

 心からこいつに対して感じたことを、ありのままに、口から吐き出せ。

 臆するな、さあ!

 さあ!  叫べ!

「たとえ死んでも、お前だけは絶対に殺してやる! 必ず! 地べたを這いずってでも!」

「フハハハ! とうとう頭がおかしくなったか、青年? 貴殿を殺せないこの身の上が本当に残念なことこの上ない。私は貴殿のようなけたたましいだけの羽虫が大嫌いなのだ。故に、そろそろその口を閉じてもらおうか。命は取らんが、より凄惨な方法でその口を静かにさせてやろう! フハハ、フハハハハハハハ!」

 よし! 敵は気付いていない。

 奴は俺の企みに気付かぬままに、その拳を振り降ろさんとしている。

 勝った!

 俺は最後の切り札を呼び出そうとした……のだが。

「来てくれ、スキ……なっ!」

 全くの予想外の事態が発生した。

 それは、ざあざあと雨が降りしきる空からやって来た。

 それは、曇天の灰の雲を割り、こちらへと凄まじい速度で落ちてくる。

 それは、人斬り包丁を持った真っ赤な天使。

 つまり。

 それは、狂愛淑女阿部定こと、しょうこだった。

「サセマセン、サセマセンサセマセン! Siiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!!!!!!!!!! 死!」

 しょうこは完全に錯乱した様子で狂気的な言葉を叫びながら、鬼のような剣幕で人斬り包丁を敵に向かって突き刺しにかかった。落下の勢いも利用して、一心不乱に。

 そして俺は、突然のしょうこの出現に驚き理解が追いついていない――振りをする。

 思っていた展開とは違うが、結果オーライだ。俺の恋人を呼ぶまでもなかった。

 増援を寄越してくれたと思われる瑠羽に最大限の感謝を。

 そして、でかした! という思いが漏れないように俺はこう呟く。

「しょこ、たん?」

「なんと!? 片翼の天使! いや、堕天使であろうか? フハハハハハハハ!」

 奴はこの時、残った片目で瞬きをし、信じられないとでも言うかのようにその目を左手でこするジェスチャーをした。

 いきなり空から超絶変な女が降ってきたんだ、咄嗟にそんな反応をしてしまい、呆気にとられもするだろう。

 だが、それは同時に、何の脈絡もないしょうこの襲来のおかげで、奴には一瞬の隙ができたということを指し示す証拠になる。

 そう、奴は今たった一瞬だが気を抜いた。未知との遭遇に動転し、隙を生んだ。

 

 ――即ち俺達は、この戦いに勝利した。


「ユルサナイ、ユルサナイユルサナイユルサナイ! 死死死死死死死死死!」

 イレギュラーもあったが、いや、そのイレギュラーのおかげで、全ては上手くいった。

「なんなのだこいつは、狂っているのか!?」

 ありがとう、しょうこ。それに瑠羽。お前達がいなけりゃ失敗してたかもしれん。

 俺は雨足が更に強まっていくのを見て、そう心の中でひとりごちた。

「聞こえます、声が。嗚呼……でも、でもでもでもでもでもでも! サイ様がぼろぼろ、サイ様がぼろぼろ。ナンデなんで何でナンで何デ? 殺ス、コロスコロス殺シ、マス!」

 哀れにも敵は気付いていない。もう既に俺達の術中にはまっているということに。

 お前は油断をした、気を抜いた。それはどんな一瞬であれ、戦場では命取りとなる!

「おおう和装の美女よどうか……」「黙れ黙レ黙レダマレダマレダマレェェェェ!!!!」

 しょうこは怒り狂い、立て続けに敵へと刃を振るう。

 そしてその後ろには――

 いつの間にやら雨霧に紛れて現れた、黒い改造セーラー服の黒髪美少女、織田信長の姿があった!

 これぞ、彼女の絶理が一。

 生前、織田信長が決定的な勝利を収めた合戦では、必ずと言って言い程敵軍の頭上には雨雲があったという。桶狭間然り、長篠然り。それ故彼女は、霧と雨音によって自軍の接近を敵に気取られることなく行軍を可能にしたと言われている。後世の人々は、彼女のその天さえ味方につける強運と、その好機を逃す事なくそれを有効に利用した戦術を讃え、彼女を梅雨将軍と称しその戦いぶりに思いを馳せた。

 これはその逸話の再現。

 特に此度行われるは、日本三大奇襲の一つに数えられる桶狭間の戦いそのものである。

 故に彼女は最後まで敵に気取られることなくこの場に出現し、その首を捕る。

 降雨中に敵の絶対的な弱味・隙を使用者である彼女が認識した時点で、この絶理の発動は確定、対象の死は決定される。これを防ぐことは、何人たりとも出来はしない。機の熟した完璧なる奇襲、なるほどどうして、誰ぞそれを防ぐ事が出来ようか?

 腰から抜きとられし名刀、宗三左文字が豪雨の中で煌く。

 気取られていないが故に、その一撃は絶対不可避。

「虚を狙え、気を掴め。時は満ちた、首を刎ねよ――卯の花腐し!」

 斬!

 雨音に紛れたその声はかき消され、なっちゃんによって振り下ろされたその刀は、敵の胴体と頭部を切り離した。その大将首は雨でぬかるんだ地面へと落ちる。

 ぼどっ。

 その、生首が地に落とされた重い音は、降りしきる豪雨にも関わらず周囲へと響き、雨音にさえ消されない程の大きな存在感を示した……。

 奇襲は成功せり。敵将の首は我が手中に収まった。

 やった。ああ、俺たちの勝利だ。

 そう、とうとう、遂に、やっと、漸く。奴は絶命した。

 天を覆っていたどんよりとした雲の切れ間から光が差す。敵陣を包む雨は、止んだ。

 俺は敵の死を確認したことで緊張が解けて足が機能しなくなりそうになるのを必死で堪え、十歩分程度離れた先で血溜りの中に倒れているウルティオの元を目指す。

 だが、なっちゃんは刀に付いた血を払い納刀……しようとして、その手を止めた。

 なぜなら、その首はまだ息をしていたから。

「なんとなんとなんと! この七世カエサル、我が最大の力である口撃により貴殿等に勝利したと思ったが、フハハハハハハ! 突然の言葉を持たぬ幕外の客人には対応できなんだ! 片や、狂人。片や暗殺者とくれば、これはこれは会話もできる由も無し! だが、知らなかったぞ。私が、アドリブに弱かったとは! フハハハ! 故に感謝しよう。未知の経験に敬意を。そして、ああ、願わくは貴殿等二人を意のままに操ってみたかった! しかし、しかし待ってくれ。最後に名乗る位の猶予は与えて欲しい。安心しろ、もう貴殿等に危害を与えるつもりは無い。与えようと思っても、もう既に出来んようだしなあ? フハハハ! では聞け青年少女、我が名は第二SS猟兵師団ダス・ライヒ所属、大将、戦車ヘットのカエサル、よろしく見知り置くがいい! フハハハハハハ!」

 その首は片目を無くし、頬骨を露出させ、半分以上が溶けて爛れ、頭頂部が真っ黒に焦げ固まり、首と口から血を流しながらも、なおその口を動かしていた。

 その異様さに、俺はウルティオの元へと向かう途中で思わず一瞬立ち止まってしまった。

 こいつは一体、なんなんだ?

 得体の知れぬ恐怖に体を包まれそうになる。

 その首はまだ笑う。むしろ生前よりも快活だと思わせる程に。

「……なんと、フハハ! まだ死ねんか! なんたる苦痛、なんたる苦行! ……ふん、しかし、しかしなぜだか分からぬが気が変わった。そう、最後に貴殿等に手向けを残してやろうという具合に。なぜだろうなあ、不思議なものよ。たった今の私は、文字通り心と脳が切り離されているからであろうか! フハハハハハ! 人体の神秘よ! では、心して聞け。織田信長、ナポレオン、ヘリオガバルス、蘇我馬子、クロムウェル、項羽、ラヴァイヤック、源義経、ジュスト、サンソン、ペロフスカヤ、フェリペ4世、足利義満、ホノリウス……等々、他にも似たような複数の魂及び幻想がたった今この地へ、つまり貴殿の故郷である倭国へ、同時に呼び出されている。我々への対抗手段として! その意味を、よくよく考えてみることだ、青年! さあ、藻掻け! 賽は投げられた! フフ、フ、フハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」

「うるせーよ。死んでるならとっとと死ね。是非もねーだろーが。不愉快なんだよ」

 その言葉と共になっちゃんはその首の喉を刀で一突き。

 そうしてその七世カエサルと名乗った首は硬直し、喋るのを止めた。

 ちなみに、胴は平常心を失ったしょうこが延々と人切り包丁で切り刻み続けている。

 普段なら真っ先にそれを止めるんだが、そんなことに気をかけている余裕は今の俺には無い。何よりもウルティオの生死が心配だった。ヘリオガバルスも気になるが、今はより危篤な容態である筈のウルティオを優先させるべきだろう。許してくれ、ヘリオガバルス。

 そう思いながら痛む足を引きずる俺に、なっちゃんは言った。

「そいつなら、ほっといてノー問題でしょ」

「おい、なっちゃんでも言っていい事と悪いことがあるぞ……!」

「いや、ヒガモやめろし。とりま落ち着いたら? ほら、その足、まだ血が出てるよ。人じゃなくて自分も労ろ? ね?」

 未だ止まることのない流血を、なっちゃんはいつの間にか持っていた包帯で止めようとする。

 その瞳は、普段見せるちゃらちゃらしたものとは全く趣を異にしていて。聖母マリアのような慈愛に満ちていた。思わず、為すがままにされそうになってしまいそうな位には。

 だが、そんなことが許されるはずもなく。

「……お、おい! それは有り難いが、近くでもっと大怪我してる奴がいるだろうが!」

 俺はウルティオの方へと一歩踏み出す。

「何言ってんだか……。やっぱ裁駕プッツン来てるんだねー。よしよーし」

 手を払いのけ前へと進もうとした俺を、なっちゃんはがっしりとヘッドロックして、俺の頭を撫でた。怪我をしている俺はその固い呪縛から逃れられない。

「おい、離せ! てめえ、何考えてやがる!」

「冷静になれよ、裁駕。アンタなら知ってるでしょ? 百日天下くらい」

 こいつ、何言ってんだ? なんで今そんな話……。いつもの自虐ネタなら三日天下だろ?

 などと思っていた矢先、カツカツと足音が鳴り、凛としたあの声が背後から聞こえた。

「……がっは、よ、くわかった……な。さすがは織田信長……けほっ!」

 ウルティオだった。なっちゃんのヘッドロックから解放され振り返った先では、五体満足の彼女がすぐそこにいた。胸に空いた穴は、きっちりと塞がっている。

「……!」

 俺は、思わず彼女を抱きしめた。

 その存在が本物であるという実感が欲しくて。人が死ぬのはもう懲り懲りだったから。

「生きていたのか! 良かった! ウルティオ! よかった! ごめん、ごめんな!」

「おっ、おいはな、げほっ……かはっ。ごはっ……はなっ……お、い! はな、せっ!」

 ウルティオは俺の腕の中でそう言ってじたばたと暴れたが、嫌がっている訳ではないようだった。むしろその声からは、今まであまり彼女が発すことのなかった温かみを感じた。

「おー、おー、イチャコラしちゃってー。しょうこがハイになってなかったらー、今頃アンタ達、無事臨終だぞ?」

「な、何を訳のわからん事を! て、お前は何を泣いている!?」

 そうして、彼女に言われ頬を擦ると、指先に湿った感触が伝わってきたのだった。

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