第7話 ありがたきおことば

 そんなわけで、俺と少女の二人は天神町桜見中央図書館へとやってきていた。

 ……とはならなかった。当然だが。

 何を隠そう、彼女は器物損壊及び殺人未遂他余罪多数とかいう重罪を一夜のうちにしてやってっくれやがったもんで、留置所の外には簡単には出られないのだ。至極当然の報いである。

 しかしここで、哲学的に逆に考えてみよう。彼女が現行犯逮捕されるに至ったのを目撃していた人間がどれだけいる? 俺とクレア、その二人だけだ。虚構競魔宴武で彼女の姿は多くの人間に晒されたが、彼女の罪状に興味を持っている人間など誰もいない。大衆が求めているのは擬似行為とはいえ、刺激的な殺し合いだけだ。

 つまり、俺とクレアが口裏を合わせれば誤認逮捕だったということで話を終わらせることができる。そして、クレアはまた一つ新たな俺の弱みを握るべく、躍起になって俺に協力してくれるだろう。彼女は残念なことに有能だ。上手くやってくれるだろう。

 色々と面倒な事後処理とかも彼女にぜーんぶ丸投げすればいい。今日俺がそうされたみたいにな……!

 でだ、俺がそんなことをするメリットはなんだ?

 はっきり言って何も無い。デメリットしかねえ。

 なら、なんでそんなことをする?

 自分でもよくわからない。だが、そうしたいと思う自分がいる。

 俺は面倒事が嫌いだ。なぜなら、関わると損をするのはそいつ自身だって知っているからだ。

 そして、関わらなければそいつはその分得をしたも同然だってことも。

 だが、目の前で困っている子供がいて、それを見て見ぬ振りをするのか? それはどうなんだよ? それが大人の振る舞いか? 

 いいや違う。もしそんな俺を見たら、亡き父は言うだろう。あの意味のよくわからない、「男がすたる」という口癖を。

 そいつは、なんだか腹が立つじゃあないか。みっともないじゃあないか。

 今でもその言葉の真意は掴みかねるが、それでも異界の父が俺に託したその言葉は、俺を正しく導いてくれているように思う。辛く険しい道へとではあるけれど。

 だから俺は、したいように、したくないことをする。今日も明日も明後日も。

 大体、これは間違った行為じゃない。

 昨夜の少女は、この世界に来たばかりの身で且つ重大な勘違いをしており、一種の錯乱状態にあった。つまりは正常な判断を下せる思考力が一時的に著しく欠如しており、一切の責任能力がなかったと考えられる。故に、彼女が負うべき刑事責任はなんら存在しない。

 彼女の話を聞き、今日一日色々と裏付けをとってそう判断した。彼女の言っていることは嘘ではない。感情論ではなく、刑事の感でもなく、明確な論理的帰結に基づき、そう結論づけた。

 だから俺は、あの狂ってしまった少女の手助けをすることに、……決めた。


 というわけで、俺は囚われの少女を無罪放免にするべく、もう夕暮れどきとなった天神深坂まで、わざわざ高い金を出してコーヒーを飲みにやってきたのであった。

 人通りの多い表通りから離れた裏通りにこぢんまりと佇むカフェ『チェールヴィ』。ここは、落ち着いた間接照明と店内にゆったり響きわたるシックなBGMが醸し出す、隠れ家的雰囲気が売りの密かな人気店なんだそうだ。「いやいや密かな人気ってなんだよ矛盾してねえか」などと突っ込むと、同行者にキツイ一撃を入れられること必至なので(事実俺は腹パンを頂いた)、大人なみんなは黙っていよう。

 いや、なんというか静かな感じは嫌いじゃないぜ。ただ、無精髭の冴えない面によれよれ私服の俺はここってとっても場違いな感じがするんだが、いいのかね。コーヒーなんて、普段缶でしか飲まないし。後、心なしかクソガキ的なあれではない、アダルトな雰囲気のカップルが多い気が……。

 いやはや、どうしてこうなった。

 そんな内心の苦悩が顔に出ていたのだろう。向かいの席に座る美しい深緑色の和風ショートヘア美女が、俺に軽くデコピンを入れながら口を開いた。

「おいおい、そういやそうな顔をするもんじゃないぜ、裁駕。私は今君に会えて気分がいい。それなのに男の君がそんな顔をしていては、なんだかまるで私が君を無理言って連れてきたようではないか」

 それに対し俺は、おしゃれ感のある店員さんが持ってきてくれたコーヒーのカップを、右手で弄びながら不満げに返答する。

「事実そうなんですが……。俺が苦い顔をしてるのは別にコーヒーのせいってわけじゃないんで……。というか念話越しでも聞きましたけど、公務はいいんですか?」

「はあ……、全く君は情緒というものを解さない人間だね。君を育てた親の顔が見てみたくもなると思わないか? 大体、私がする全ての行いが公務なのだよ、わかるか? 事実、君とも重要な話をしに来たわけだからね。今日この会合を深坂の談義と名付けて数年後の教科書に載せても、なんら支障がない塩梅には。いいやそれとも何かな、君は、裁駕くんは、公務を投げ打ってでも俺の為に会いに来てくれた、そんな非日常性に昂るタイプなのかな? ははん、そういうことなら、今日は休みだということにしても……」

 俺の言葉を聞いた彼女は、いかにも米国風といったような大げさなジェスチャーを交えながら、冗長にそれでいて皮肉にそう返答したのだった。いやはやもう色々とひどい。

「あーーーーすいませんでした。俺が悪かったです。すいません。天帝陛下ばんざい。あと、人の親が死んでるの知っててそういうブラックジョーク言った後ドヤ顔するのもやめてもらっっていいすか? いや別にいいですけど、お戯れが過ぎるんで、反応にも困るんで。天帝陛下、ばんざーい」

「ええとその……君はなにか? 天帝陛下万歳と言えば何を言っても許されるとか思い上がっている口か? 君がそんなようでは、市井において一体どんな教育が行われているのかと疑ってしまうじゃあないか。行政を他所に任せたのは問題だったかな、とかね。それにそもそもだね、私はもう天帝でもなんでもないし引退した上帝の身であるのだから、天帝陛下という表現は如何なものなのかと思うよ? 君は少し大雑把が過ぎるんじゃないかな。いや、まあ、そういう所も嫌いではないのだけれどね?」

 そう言ってウィンクなんか決めちゃってるこの目の前の美人さんが、なんとかつてあの国家君主兼神道主教であるところの天帝陛下であらせられたお方だ。他にも元現人神、元倭国最高権力者、元大元帥なんて形容も可能な超絶VIP。半世紀くらい昔に民主化が進み天帝権力が司法分野に限定されてから天帝という身分を捨て上帝と呼ばれるようにうなった彼女だが、それでも未だにその信奉者は国内に多数存在し、その影響力は計り知れない。古来よりこの倭国を治めてきた天帝、その原点は神話の時代にまで遡る。その威光、権威、実力は、遥か二千年を超えた今もなお衰えを知らず、その地位を落としてなお倭国一の力をその身に有する。

 まあ簡単に言えば、超偉くて超強い見た目二十代くらいの超美人おばあさんだ。

 というわけで俺は、彼女に対して誠意一杯の表面的礼を尽くさせていただく。

「ははあ、有り難きお言葉。それと過激な発言は控えて戴けると……」

「心無き畏敬は心無き侮辱と大差無いと思わないかい? 私だって傷つくときは傷つくし、怒るときは怒るんだぜ?」 

 ちょっぴり悲しそうな振りでそう言う上帝。とはいえ、彼女のペースに付き合っているといつまでたっても話が前に進まないことは経験上知っているので、強引に話題を逸らす。

「それより、そろそろ本題に入りたんですが」

「いやはや、君はなんて酷い男なんだ……。うら若き乙女が男をデートに誘って快諾されて、何にも期待していないと思ってでもいるっていうのか、君は? もしたとえ、別に君が私のことを何とも思っていなかったとしてもだよ、それでも誘いに乗ったのなら少しは会話に花を咲かせる程度の甲斐性は見せてくれてもいいんじゃないのかい? そうだろう、裁駕?」 

 彼女の言う通り、彼女の誘いにのって俺はここまでのこのこやって来た訳なのだが、別に俺は男女としてではなく仕事として彼女に会いに来た訳であってだな……。

 俺は彼女の話を聞きながら、彼女に合うたびに思うことを改めてまた実感していた。

 この人は相も変わらずめんどくさい女だな、と。

「乙女って、あなた自分の事何歳だと思ってるんですか……。てか会話ならさっきからしてると思いますけど」

「おいおい、女性に年の話は禁句じゃないかな。もしこれが私じゃなかったら、君のそのデリカシー無き言葉に大抵の女性は怒って帰ってしまうと思うよ。私の寛容さに君はもっと感謝すべきだと私は切に主張するね。それと、こんなものを会話だと言ってしまうから君は未だに婿入り出来んのだよ。女の子が男に求めるものを君はもっと知るべきだ」

 なにが悲しくて少なくとも百年以上未婚を貫いているような人外ばあさんに、三十路間近の男がそんな心配されなきゃならんのか。

 色々めんどくさかったので、俺はここで話を断つことにした。

「なんですかそれ? 体の繋がりとかですか」

「きっ、君は突然何を言い出すんだ! 中学生か君は! こんな会話を誰かに聞かれでもしてみろ? あることないこと書き立てられて、一大ニュースになってしまうぞ。一躍時の人だ! 良識ある大人なら、もっと自分の発言に責任を持て。時代が時代なら即不敬罪モノだぞ、全く」

 俺の言葉に動転したのか、内緒話でもする子供みたいに俺に顔を近づけ耳打ちする上帝。

 滅多なことでは動じず、常に国民の前では柔和な笑顔を浮かべていることで有名な彼女が、下ネタ一つで慌てている様は中々嗜虐心を唆る。……あれ、これって不敬罪案件?

「ようやく自分の立場を自覚してくれたようでなによりです」

「皮肉のつもりか? 面白くもなんともないね。いいさ、そんなに仕事だけの付き合いが望みなら応えてやるさ」

「拗ねないで下さいよ、子供じゃないんですから」

「私が君との会話をどれだけ楽しみにしているか知らないから、君はそんなことが言えるんだろうね。ほとほと困ったものさ」

「知るわけがないじゃないですか、そんなこと。未だに俺は、どうしてあなたが俺にこんなにも目をかけてくれるのかさっぱりですし」

 実際、一庶民に過ぎない俺が彼女に対しこんなに失礼な態度をとっていることも、彼女が俺に対しこんなにフランクな態度で接していることも、本来ならば有り得ないことなのだが、それ等は全て彼女の厚意によって許されている。

 この俺達の関係は、もしこんな事態が民衆に知れ渡れば暴動が起こってもおかしくないレベルの異常な付き合いなのだが、なぜ彼女はそれを許すどころか望んでいるような素振りすら見せるのだろうか。長い付き合いではあるが、俺にはそれが不思議でならなかった。

 そんな思案で頭を悩ませていると、上帝は急に真面目な顔つきになってこう呟いた。

「人の情に、人の位。人の世とはどうしてこうも難しいのだろうね」

 そう言う彼女の意図は俺みたいな平民風情には理解できなかったが、その表情からは国を憂い、けれどもそうするしかない彼女の悲哀が滲む様だった。

「はあ」

「なんて、少し感傷に浸りすぎてしまったか。そうだね、うん。私とていつまでも君と会話をしていられる程暇ではないんだ。嫌々ながら本題に入らせてもらおうじゃないか。ひどく忌々しいことに、そろそろ次の予定が迫ってきている」

 彼女はそう言うと、さっきまでの悲しげな目を引っ込め、国民には決して見せないような元のおちゃらけた感じの表情に戻った。

「そうしてもらえると、こちらとしても助かります」

 あまり一つの場所に長居すると、いくら変装しているとはいえ、彼女の正体が周囲の人間にバレてしまいかねない。そういうわけで、その彼女の提案に俺が乗らないはずもなかった。それに俺も早くこのおしゃれ空間からドロンしてえし。

「む……、君に言いたいことがまた一つ二つ増えたが、仕方ない、それはまた今度に回すとしよう。では単刀直入に行くぜ。君はあの別次元から遥遥やって来たというイカれた少女を解放したいとのこと。それも私の大赦などではなく、君のミスであったという体で」

「はい」

「ふん、君のそういう姿勢、私は好きだぜ? いいだろう。君のその男気に免じて、私からも融通を図るようにそれとなく通達しておこうじゃあないか」

 倭国最高権力者という肩書きを百年程前に捨てた彼女ではあったが、司法においては未だ最上の地位に彼女は居る。よって、彼女のお墨付きであれば今後あの件についてなにか障害があったとしても、何も問題はないだろう。

「有り難き幸せ」

「……ただし、一つ条件がある。君と彼女でもう一度虚構競魔宴武をやってくれ」

 え?

 まじ?

「あなたもですか……」

 俺がまさかの条件にうんざりしていると、上帝はまるで水を得た魚かの如くにやにやと笑みを浮かべながら俺に言い寄ってきた。

「……ん? ああ、嗚呼嗚呼成る程。あの少女に抗議でもされたのか! ほうほう、滑稽じゃあないか。種のバレたトリック程、哀れなものもないと思わないかい。第二次の連合国連中の工作なんか、後で聞いたら全部傑作だったぜ? 逆に聞くが、君はそのままでいいのかな? 人気ストラージャ持ちとしての名が廃るんじゃないか?」

 しつこく俺に問いかける楽しそうな上帝。これじゃまるで芸能人のスキャンダルを追求するハイエナ記者みたいだ。うぜえ。

「別にいいですよ。面倒くさいですし」

「そう擦れた振りをするなよ。思春期特有の厭世観でモノ言うクソガキみたいにかわいいな、君は。全く、きゅんきゅんしてしまいそうだ」

 おいおい婆さん、きゅんきゅんっておまえ……。年考えろよ。ぞわっとしたぞ……。

「俺みたいなおっさんにそんなこと言うのは、あなたくらいのもんですよ」

「ちょっと三十代が近付いて来たからっておっさんを名乗るのはどうかと思うんだけど、どうかな? 後十数年生きてからでも、おっさん宣言は遅くないと思うが。それだと私は一体なんなのかということになってしまうし」

「さっき自分で女の子だとかなんとか言ってませんでしたか? というか俺はあなたの正確な年齢知りませんし」

「そんな風に私に君が意地悪を言うのは、ひょっとしてあれかい? 自分の気になっている女子に男子がうまく気持ちを伝えられぬが為に、ついついちょっかいをかけてしまうというあれなのかい? 私は今のを、君からのプロポーズだと曲解しても良いということになってしまうのかい?」

 うぜえ。あなたと俺じゃ身分が違いすぎるし、その他諸々の社会的理由でねーよ。

 ていうか、本題に入ったと思ったら早速脱線してるじゃねえか。

「……こほん。そんなことより、最近多数出没している愉快犯じみた凶悪犯と例の少女との関連性についてなんですが……」

「いやはやほとほと君は連れない男だね。全く悪い男だよ」

「今はその悪い男よりもっと悪い奴らの話をですね」

「そのことなら、今君が気にすべきことはないかな。私だって、その件で重要な伝えるべき事がないから無駄話に花を咲かせようと言っているんだぜ? 察してくれよ、恥ずかしい。うん、あれと彼女は全くの別物だ。何かしらの関連性はあるようだけどね。少なくとも、彼女は弱者を一方的に笑いながら殺戮するような人物ではなさそうだし」

 やっぱりそうだよな。ここ最近の俺の連速夜勤の原因でもある連続殺人犯の多発。それらと、あの少女に関連があるというのは確定的だ。

「俺は笑いながら殺されかけましたがね」

「私は『弱者は』と行った筈だが?」

「あなたみたいな怪物にそんなこと言われてもお世辞にしか聞こえないんですが」

「怪物とは随分失礼じゃないか。私は美女と野獣なら間違いなく美女に分類されるべき人間であると思うのだけどね。まあ仮に、君に異論があるというのなら受けて立つぜ。ふふん、私がいかに美しいかということを、君の脳髄の一番深い奥の奥まで教え込んでやるさ」

 どういうつもりなのかは知らないが、そう言ってその場でグラビアアイドルみたいなポーズと表情をキメる上帝。

 言ってしまえば有名人である上帝、そんな彼女のその様は、カメラ慣れしているだけあって確かにバッチリ決まってはいたんだが、どう見てもポーズのチョイスが古過ぎたせいでなんだか残念な雰囲気を醸し出していた。

 綺麗な深緑の和風ショートヘア、威圧感と包容力を同時に感じさせる正に神から与えられた美しき造形の尊顔、五穀豊穣を象徴するかの様に恵まれた肢体、せっかくのそれら全てが台無しであった。

「……それは、またの機会に」

「焦らしとはまた高等なテクニックを覚えたじゃないか、裁駕。私は嬉しいぞ、初めて会った時はあんなにも小生意気そうで実際小生意気だったあの小僧が、こんな立派な大人の男になったのだから。……ふむ、やや不満は残るが君の意見を受け入れてやろう。またのというのが良いな、うん。次回もあるのだということを暗示させる」

「左様で。ではそろそろ……」

「おいおい待てよ。用が済んだらそれで終いか? そんなようでは君が近い将来ヤリ捨てでもしてしまうんじゃないかと、私はひやひやしてしまうぞ。倭国人ならばもっと余韻を楽しむべきなんじゃないのかい? それに、お代わりのコーヒーがまだ少し残っているんだ。これを残してしまうのは忍びないというもの。もったいないの精神、私はこれで中々気に入っているんだぜ。皆の見本にも為らねば為らぬ訳だし」

 コーヒーの残りを見せびらかしながら、彼女はそんな風に得意げな顔で言ってみせた。

 彼女の言葉は冗談交じりで冗長ではあるが、別段反発する理由になるような成分は無い。

 だが、俺はなぜか彼女の言葉には反発したくなってしまうのだった。それは、もしかしたらさっきの彼女の言葉通りなのかもしれないとも思った。けれどそうではない。これは恋慕ではなく、きっと親に対するそれに似ている……。

 正に反抗期の子供が親に訳も無く反発してしまうような、それに。

 だから、俺はつい出来心で……愚かにも彼女を真に傷つける言葉を吐き出してしまった。

「おお、貴方様はなんという名君で在らせられるのか。これなら倭国も安泰だ」

「…………………………」

 永遠とも思える沈黙があった。

 そして。

「……そういう冗談は、あんまり好きじゃあないな」

 俺の言葉に、上帝は本当に傷ついた様子で目を伏せた。少し前までの笑顔が嘘のように。

 それはまるで、時が止まったかと錯覚するほど、悲しい表情。悲愴な空気。震える声音。

「……悪かった。すまない、彩陽」

 彩陽。それは上帝の諱だった。俺は、そんな一部の者しか呼ぶことの許されぬ彼女の真名を、幼少時に彼女から教えてもらっていたのだった。それ以来俺は、彼女に助けられ続けて生きてきたのだ。どうやらその御恩を俺は仇で返してしまったようだ。

 上帝は何を想い俺に救いの手を伸ばし、そしてあれからずっと俺に何を求めているのだろうか? 一庶民に過ぎぬ俺は、その答えを未だ得ることができない。

 けれど、本来なら逆鱗に触れてもおかしくない諱で呼ぶという行為が、彼女を喜ばせるということだけを俺は知っていた。ほら、彼女の顔が、本来の輝きを取り戻していく……。

「こういう時だけそうして機嫌を取ろうとする……。それ、ちょおっとずるくないかな? いつもそうはたはたとしていてくれれば、苦労はないんだけどね。ふふ、もしかして照れ屋なのかい? 案外可愛いところもあるじゃないか」

「どうなんでしょうねえ。……おっと、近衛がようやく追いついたみたいですよ」

 コロロン、と来客を告げるベルの音が出入り口から聞こえてきた。見やればそこには上帝直属の護衛部隊である近衛師団が数人、ビシッと整列していた。緋色の制服に五芒星と桜葉を組み合わせた帽章、間違いない。場違い感が俺よりも上ってことからもお察しだ。

「何? それは本当かい? 私の読みでは後一分二十秒程度はかかると踏んでいたんだけど……。ほう、どうやら彼らも日に日に実力を上げているみたいだね。感心感心。だが、有能過ぎるというのも少々考えものかもしれないな。倭国人たるもの、少しは遊びを持たせるべきだとは思わないかい?」

 そう言って上帝はわざとらしく肩をすくめた。ほんとこの人には呆れるしかねえ。

「それじゃあ、私は行くかな。独り身とは言え、妹やストラージャ達を養うのは大変だろう? 今回の代金は私の奢りだ。感謝するといい。臣民の税金は有意義に使わなくてはね。……うーん、しかし名残惜しいな、君との会話はやはり楽しいし。それでは最後になるが、兄妹仲良くな? 風邪ひくなよ? 手洗いうがいは大事だぞ。私が言うんだから間違いない。あと――死ぬなよ?」

 実際、彼女の言う通りあまりお金に余裕がない俺にとって、その申し出はありがたかった。稼ぎも彼女の方が俺より相当上であると思うので、ここは甘えてしまおう。

 なんて思っていたら最後にとんでもない爆弾をおいていきやがったな?

「ありがとうございます……って、縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「なんだか言わねばならぬ気がしてな。上帝の感ってやつだ。それと、逆にだけれども、もし私が死にそうな程困ったときには、君が助けに来てくれると信じているぜ?」

 当たり前だ。その時こそ俺が今まで受けてきた恩をお返しする時だろう。まあ彼女がそんな未曾有の危機に見舞われるとは到底思えないのだが。

「俺もその逆を信じていますよ」

「へえ、信頼してくれているのか。それは嬉しい情報だな。その言葉を聞けて私は、思わず小躍りしてしまう程に。まあここで本当に舞ってやってもいいんだが、さすがの私もそれはちと恥ずかしい。うん。まあ、そういうわけだ、またな」

 手を振り去っていく上帝を敬礼で見送る。その先ではなにやら近衛に小言を言われているようであった。彼女達もあんな奔放な主人をもって災難だなと思わず同情してしまう。

「はい、さようなら」

 そして俺はそう小さく呟き、まるで嵐のようでもあった上帝との会話を思い返しながら残りのコーヒーを啜り――

「まさか本当にあの子と再戦することになるとはね……。まったく、ままならねえなあ」

 そう、ひとりごちた。

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