3 錦之丞の戦い


 萬屋錦之丞は、はっ!と大きく息を吐いた。白い湯気となった吐息が顔の前に立ち上る。

 冷凍庫内の温度はマイナス二十度。まさに凍り付くような寒さ。ここに長時間いたら、人間は凍死し、のちに凍結する。凍り付くような、は決して誇張ではない。


 「絶対無理するな」と豹介には言われた。「相手を斬る必要はないから、時間稼ぎだと思って相手しろ」とも。

 もっともな意見である。


 相手は体内に剣豪の技を降臨させた男、東郷鉄鎖。

 体格も良く、錦之丞よりも長身。まともに戦っても勝利はちょっと難しい体格差だ。おまけに剣豪の技をその身に宿し、手にはめちゃくちゃ長い刀を持っているとなれば、その真正面に立つことすら危険極まりない。


 東郷鉄鎖は、あの夜、──そう、すべてが始まったある夜、木根がとったのと同じ構えに長刀を振り上げている。

 示現流、蜻蛉とんぼの構え。

 両拳を顔の横につける一種独特、異様な構えだ。


 ただしここは天井の低い冷凍庫内。東郷鉄鎖の構えは、かなり低い。相手に刀を自由に振らせないため、そしてもう一つ、ある理由によりこの場所が錦之丞の戦場に選ばれた。

 錦之丞は防寒具に着ぶくれした身体で、一刀流の木刀を構える。手には防寒手袋、首にはマフラーを巻いている。


 対する鉄鎖は、さすが不屍者。この極低温の世界でも、長ランを涼し気に着こなし、吐く息すら白くない。こいつの血液は不凍液かなにかなのだろうか?


 錦之丞が木刀を構えるや否や、鉄鎖は斬り込んできた。

 錦之丞は、その気配を察して奥に逃れる。

 びゅん!という刃鳴りがして、棚の一部と、置かれていた食品の段ボールが斬られた。棚なんか、スチール棚である。あんなものが普通切れるか?と思いつつ、錦之丞はさらに奥に逃れ、手近にあった箱から冷凍野菜の袋を投げつけた。


 鉄鎖は眉一つ動かさず、ひゅんと長刀を一閃して、冷凍食品を両断する。なにか、そういう機械のように、空中にあった袋を縦に割っていた。

 そして、何事もなかったかのように、突進してくる。ぎょっとした錦之丞は奥の壁まで逃げ、棚を回って隣の通路に逃れる。が、鉄鎖は苛立ちまぎれに、棚ごと斬って来た。


 銀色の刃が走り、錦之丞の腕を裂く。

 斬られた! そう思ったが、鉄鎖の刃は、錦之丞の防寒具を裂いただけで、皮膚までは達していない。ほっとしたのも、つかの間。棚を回った鉄鎖が低い蜻蛉に構えて突進してくる。


 冗談じゃない。錦之丞は手に触れた物をつぎつぎと鉄鎖に投げつける。

 肉のブロック、パプリカの黄色と赤、ミックス・ベジタブル、骨付きもも肉。すべて冷凍食品であり、凍結していて石のように固い。投げつけられたそれらを、鉄鎖はマシンのように正確に、そしてミシンのように高速で、つぎつぎとすべて空中で両断した。まるで地獄のフードプロセッサーだ。示現流の達人は、顔色一つ変えずに、投げつけられた礫を切り飛ばし、わが身に触れさせない。

「ちぇぇぇぇぇぃぃぃぃぃぃぃぃーーーー!」

 強烈な気合を放って、鉄鎖が突出してくる。


 錦之丞は恐怖に煽られて走り出し、ふたたび棚を回って、次の通路へ。

 が、その動きを読んだ鉄鎖がふたたび棚ごと両断。一瞬棚をふたつに断って、そこから飛び出してくるかと思うくらいの斬撃。が、さすがに固定された棚を左右に斬り飛ばすのは無理のようで、斬り込んだ刃を引き抜くと、すかさず蜻蛉に構えをもどして通路を走り、錦之丞に迫る。


 だめだ。こんな化け物、相手にできない。

 錦之丞は撤退の意志を固めると、もうひとつ奥の通路に逃げ込みながら、外に脱出するチャンスを模索する。

 鉄鎖が迫る。錦之丞は口の空いた段ボールに放り込んであったロックアイスを投げつける。岩のようにごつごつした氷の塊は、手重りがして頭に当たれば怪我をするが、不屍者であるというのに、鉄鎖はわが身へは触れさせまいと、投げつけられた氷もつぎつぎと両断する。


 そして、その瞬間は、唐突におとずれた。一刀斎豹介が「あわよくば」と錦之丞に授けた策が当たったのだ。

 びぃん!と、鋼が鳴る音が響き、鉄鎖の振るった呪禁刀、三尺の長刀『雲耀石火』が、物打ちのあたりでぼきりと折れて、刃が弾け飛んだ。

「なっ」

 東郷鉄鎖の顔が驚愕に引き攣る。


 日本刀は、粘り気のある心金を硬度のある皮金で包んだ二重構造をしており、折れず曲がらず、なおかつ良く斬れる優秀な刀剣である。大の大人が本気で岩にぶち当ててもびくともしない剛性を持っている。だが、その素材は鉄であり、鉄には低温で破損しやすい弱点がある。強靭無比な日本刀にも、弱点がある。極低温下ではその無敵の刀身は、とたんに脆くなるのだ。


「よし」

 錦之丞は小さくガッツポーズをとると、すかさず背中に背負った呪禁刀『新月』の紐を解いて外す。『新月』は厳重に布でくるまれ、内側に携帯カイロがいくつも貼り付けられていた。カイロに温められて湯気を立てている刀身を抜き放ち、脇構えに構えると、雲耀石火が折れて呆然としている東郷鉄鎖に向けて肩から突進した。


 一刀流はいっさい気合を放たない。無言で飛び込む。錦之丞は、はっと反応して慌てて剣をふりあげる鉄鎖に迫る。鉄鎖の構えは、さっきまでとは明らかに違い、手の位置が適当。なにをどうしていいのか一瞬で分からなくなってしまった様子。


 そりゃそーだ、おまえの中に、もう剣豪はいないんだから!

 錦之丞が飛び込み、鉄鎖があやふやに折れた刀で斬りつける。

 錦之丞は大きく踏み込み、大上段からまっすぐ斬り下ろしながら、腰を落として片膝つくまで折り敷く。一刀流『妙剣』の一手である。


 雷美は錦之丞に、「相手の剣をわが肩にのせろ」と教えたが、なかなかそこまで敵の剣を引きつけることはできない。錦之丞は、鉄鎖が振り下ろす刃の下で、片膝をつき、振り下ろされた相手の両拳を上から押さえた。

 刃が鉄鎖の手の甲を裂き、うっすらと血が滲む。赤黒い粘性のある液体が、つつっと錦之丞の持つ新月を伝って滴った。


 示現流の太刀筋に、妙剣で挑めと教えたのは、雷美だ。示現流は棒立ちで斬りつける。よって、切っ先は伸びない。腕を前に伸ばさないので分かりにくいが、前にかからない打ちは、下段ではその切っ先は縮むのだという。


 切っ先は、上段でいちばん身に近く、中段でもっとも離れ、下段では再び縮む。その下段で、折り敷いて片膝突く妙剣の形は、じつは身体が敵の剣先から逃れる体構えであるというのだ。すでに、示現流の太刀筋を失ってしまった鉄鎖が相手であったが、錦之丞は教えられた通りの太刀筋で、東郷鉄鎖の手を斬った。


 鉄鎖は雄叫びをあげ、折れた雲耀石火を振り上げて錦之丞のことをなぐりつけようとするが、それを成す前に彼の身体は不死の呪縛から解かれ、極めて速やかに体組織を壊死させてゆく。彼の脚も腰も、太い腕と豊かな体幹も、頑強であるがゆえに崩壊の速度は速かった。


 みるみるうちに赤黒く変色してゆく顔から表情が失せ、枯れ木のように痩せてしまった四肢は力を失い、その手から落ちた呪禁刀が音をたてて床に転がる。後ろにのけ反るように倒れた時、鉄鎖の身体はすでに痩せ細り、冷凍庫の冷気によって凍結してしまっていた。倒れて床に打ちつけられた衝撃で、六尺豊かな大男の巨体は、陶器の銅像のように砕けていくつもの破片となって飛び散った。ひしゃげた形で、キングサイズの長ランが床の上に広がった。


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