(2)マズいですよ、魔王さま
魔界の地下はいくつかの層になっている。層は下にいくほど狭くなり、陽の光は届かず、大きな運河が五つ流れているが、それらが上階へと逃れようとする者達を阻む。
大天使によって投獄された者達が、鎖に繋がれている場所だ。
下へ下へ。行くほどに罪は重くなる。
だからだろうか。
上層部ではする、すすり泣きや、怒号、嘆きの叫びが、降りるほどに聞こえなくなっていく。
ただ、鎖を引きずる音がする。
ずりずり。ずりずりと、いつまでも音がする。
しかし。
その鎖を引きずる音すらしない場所がある。
第9圏コキュートス。
ここは闇と静寂のみが君臨する場所だ。
そこに、
音がした。
足音だ。
こつんこつんと、硬い音が響く。
反響して、遠くに、近くに、音はこだまする。
誰かがいる。ほうと浮かぶ灯りがその男の顔を照らした。
男は手にランプも持っていた。
赤い火ではない。青い火だった。
その火が男だけでなく、闇に落ちていた周囲も照らす。
そして、ここが岩壁ではなく氷に包まれていたことを知る。
男はやせ細り背筋が曲がっていたが、顔にあるのは数本の深いしわのみで、そこまで年老いているというようには見えなかった。人間でいうと五十ほどか。しかし、その鋭い眼光と薄い唇からのぞく尖った歯が人間でないことを表していた。
彼は悪魔だった。
つい最近まで、バビロニアの深い湖の底にいたのだが、運よく解放された。
――運がよかった。いや、違う。
男は目的の場所まで来ると歩みを止める。
「あなたさまのおかげで、こうして自由になりました」
男はランプを掲げる。青い火が、その姿を照らし。
「ルシファーさま」
「ああ――」
伏せていた目があがる。黄金の瞳が男を捕らえた。
「――アスモダイ。ようこそ、
ルシファーは微笑む。老人のように白い髪だが、肌は若々しく少年のようでもあった。中性的な顔立ちは顎が細く、細長い首は気品に満ちる。
アスモダイは恥じるようなそぶりを見せて顔を伏せた。己があまりにも醜いと感じたのだ。それでも、ひとつ息をつき、顔をあげるとルシファーの姿をすべて見ようと、ランプの灯りを移動させる。
そして、悲鳴のように息を吸い込む。
「――おいたわしい」
目をそらしたいのに無理だった。冷たい氷に触れて張り付いたように、視線を動かすことが出来ない。ルシファーの下半身は身動きが取れないようになっていた。大きな寒々しい氷によって固められていたのである。
「もう、冷たくはないからね。平気だよ」
くすりと笑うルシファー。アスモダイの手が震えた。
怒りか悲しみか、それとも恨みか。
「王よ」そうアスモダイは口にしていた。
「開けの明星、曙の子であるルシファーさま。あなたこそ、世界の王に相応しい」
「アスモダイ」
「はい」
ルシファーが微笑むと、まるで自我を失った者のように、アスモダイは彼に近づいていき、額が触れるほどの距離まで顔を寄せた。
「この氷を溶かすには、剣がいるよ」
「剣ですか」
「うん。炎の剣だよ」
ルシファーの瞳がおどけるようにきらめく。
「嬉しいことにね。その剣はすぐ近くにあるんだ。もうすぐやって来る」
そして目をふいに転じる。アスモダイは首を回した。
「やあ、ウリエル。それとも魔王さまかな」
魔王がいた。黒い長い髪、白い肌。黄金の瞳がこちらを見ている。彼女が来たことで最下層の闇が薄らいだ。暗くはある。だが、ぼんやりとした青白い光が周囲を照らし始めていた。
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