シンギュラリティ
トムの専門競技である100mスプリントは、最早オリンピックの花形とは言えなくなっていた。
代わりに、台頭したのは古代パンクラチオンからあるボクシングだった。
この競技に関しては、他の競技と違い企業の技術力だけでなく、国そのものの軍事力を誇示する競技として存在し、進化を遂げていた。
そのような事情から、オリンピアンボクサー達には民間企業だけでなく、国家からの資金や熱量も、潤沢に提供されていた。
各国から選出されたトップボクサー達は、正に国の威信、国家の最高火力を代表する存在だった。
トムの心地よい晴天でのうたた寝も、そんな国家的火力の悪夢じみたアラームにより終わりを告げられた。
それはアラームと表現するには余りに可愛く、日常的すぎて的を得ていないかもしれない。
彼は地対空ミサイルの速射のような轟音、、そして地表から天にめがけて物質という物質が降り注ぐ?というような理解し難い異様な衝撃によって、現実への覚醒を強制されたのだ。
余りに唐突な現実世界の衝撃に彼は運動神経や、平衡感覚より先に自我を取り戻してしまっていた。
そのせいで脳内シナプスとナノマシンの情報処理が不適なものとなり、
反磁場プレートの誤作動を産んでしまった。
その結果、トムは青の世界の只中で一人乱舞するのであった。
我が身が四方八方に、他者の身体の如く旋回する中で、彼は自身をこの悪夢と共に現実に引き戻した張本人を、目下800mの代々木競技場に発見した。
「パックマン!クソッたれが!!」
くそっ!っという条件反射で発した言葉と共に、トムはそう脳内で暴言を吐いた。
一瞬にして昂ぶった感情のせいか、はたまた時の経過の恩恵か、トムの脳はほとんど正常に覚醒した。
それに伴い、反磁場プレートや義体との伝達も徐々にその機能を回復した。
トムの眼のピントはフィリピンのボクシング代表であり、現パウンド・フォー・パウンドランキング1、2を争っているパックマンに焦点を合わせていた。
彼はかねてより決戦を噂されていた好敵手を、己が持つ最強の矛で貫き、母国に栄華をもたらさんとしていた。
母国の英雄である彼は文字通り、「シャドーボクシング」なるトレーニングをしていた。
これはすべてのボクサーが当たり前に行うトレーニングの一種であり、架空の敵を見立てて自身のボクシングや、フォームをチェックするというものだ。
だが、パックマンのそれは旧世紀の人体のみに限定されたシャドーではなく、ナノマシンなどの最先端テクノロジーを含み、尚且つフィリピン軍部の技術との間の子が産んだ、正に似て非なる代物であった。
高度800mという遠距離から望んで尚、バズーカ砲さながらの衝撃と轟音を届かせる、パックマンの繰り出し放つ両の腕。
トムとパックマンの距離にしてこの異様。
恐らく、観衆の目にはパックマンの放つパンチは見えてはいない。
だが、彼の異常性を知るのに目視など、必要なかった。
遅れて轟く、音速を超えた際に発生する衝撃音と波動。
パックマンにとって、世界を驚嘆させるにはこれだけあれば十分なのであった。
「何が国民の英雄だ、、殺す気か。」
トムは徐々に心拍数が下がっていく中で、一人そう呟いた。
悪夢の正体は、パックマンがトムの四方に放った無数のパンチの衝撃波だった。
パックマンが天高くパンチを放った軌道を追うようにして、競技場のメディアは一斉に天を仰いだ。
そこには慌てふためき、小躍りをあげるトムの姿があった。
そして今トムは、世界市民に「サボる」、という醜態を目撃されてしまったのだった。
彼は半ば夢見心地な状態で、パックマンの基地外じみたパフォーマンスを呆然と見下ろしていた。
パックマンの持つ最新テクノロジーとの圧倒的親和性。
彼が初めて目にするパックマンは、最早同じオリンピックアスリートではなく、人類のシンギュラリティそのものであった。
パックマン以下の存在に優劣などはなく、全ては五十歩百歩の問題。
地上で一人の小男が起こす超常現象を理解し、只の自然の摂理とし、当たり前に認識するには、そう解釈する以外に許されなかった。
だが、現実はそんな彼の理解の単純化を阻んだ。
今までに、パックマンと激闘を繰り広げてきた猛者たち。
もしかすると彼らも、パックマンとは近くはなくとも、そう遠くはない存在なのだろうか?
そして現在、パックマンと対をなす男の存在。
もし、もしも、このようにシンギュラリティの存在がパックマンだけに留まらなかったのなら。
一体、私の市場価値はどうなるのだろうか。
トムの焦点は変わらずに、パックマンを追っていた。
世界が今、パックマンではなく、
メッキの剥がれた自分に注目しているとはつゆも知らず。
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