七色の虹が逃げた
「行ってきまあす」
玄関から雨上がりの道へ一歩。すっきりした朝の空気が喉を通る。
深呼吸をしていると、鼻先にぽたり、と、今ごろ最後の雨が落ちてきた。空はもうこんなに水色で、みるみる乾いていくように見えるのに。雲だってもうどこかへ行ってしまったのだろう。わたしはそんなのんきな雨粒が気に入って、鼻の先から落ちないよう顔を少し上げながら、けれども転ばないように目だけを下へ向けて歩き始めた。
角を曲がると、道のあちこちに水たまりが見えた。思わず小走りをして一番近いそれに寄る。覗き込もうとして少し戸惑ったが、そろそろと膝を折り顔も元に戻す。鼻先に載ったままの雨粒が、涙のように滑り落ちる。そのまま下を向くと、それは鼻先から離れ、水面に小さな波紋を描いた。ずうっとずうっと奥に見える空の世界に帰っていったのだ。
わたしは水たまりを覗くといつも軽い眩暈を覚える。水たまりの底には空。水たまりの縁から足を踏み外せば、穴のようなそれへ落ちてしまいそうな気がするのだ。それでいて、突然足が離れて頭上の空へも落ちていきそうな感覚に襲われて、決まって尻もちをつく。上と下が繋がって、挟まれた世界に足をつけているだけのわたしはどこへいってしまうのだろう。これは一種の恐怖であるはずなのに、それでも何故か水たまりを覗いてしまう。
眩暈が収まってから立ち上がりお尻をはたく。道端に目を遣ると白い花が咲いている。それを一輪摘むと、花びらは一色ではなく、貝殻の裏のように、見方によって色が変わることがわかった。嬉しくなって指でつまんだ茎を回す。桃色や黄緑、青などの色が淡く光りながら、一瞬現れては違う色へと変わっていく。
わたしは先程の雨粒に、お土産としてこの花びらをあげようと思った。花びらを一枚引き抜いて二本の指でつまむ。やや内側に丸まっている部分はしっとりと指の腹に合って気持ちがいい。乾き始めているいろいろの中でまだ雨を吸い込み保ち続けている。指から離して水たまりへ落とすと、それは船のようにぷかぷか浮きどちらへともなく揺られていく。そして水面に映るもう一枚の花びらが、風の吹いた時に剥がれ、沈んで行くのがわたしにはわかった。
手元の花にはまだ花びらがついていたので、通学路の途中にある水たまりに行きつくたび、わたしはそれを一枚ずつ空へ贈った。六つ目の水たまりに花びらを落とした時、水たまりの奥にオレンジ色のカーブミラーを見つけ、顔を上げるとこっちにも一つ。ゆがんだ電柱と、曲がり角の先、その向こうの青空が映る。わたしは近くの花壇によじ登り、そこから腕を伸ばし、カーブミラーの中の空へも花びらを贈る。最後の一枚だ。カーブミラーに手が届かなかったため、花壇からジャンプをして鏡に花びらを押し付ける。
その時覗き込んだ鏡の奥に見えたのだ。弧の曲がったへんてこな虹。ちょうどリュックの重みが肩から消える一瞬だった。わたしはどきりとし、よろめきながら道路に着地して空を見上げた。振りかえっても前を向いてもどこにも虹は見つからない。もう一度花壇に登り跳んでみる。けれど今度は、跳んでいる間に何が見えるのかもよくわからない。数回繰り返しもう一度と花壇に足を掛けた時、学校のことを思い出した。カーブミラーを見上げても、下からでは電柱と空しか見えない。先程の花びらは鏡面の水滴にぴったりと吸いつき、落ちもせず、向こうとこちらのあいまに浮かんでいる。なんだかそこだけ時間が止まっているようだ。心臓から遅れて血が巡り、頬がずきずきと熱を帯びる。
わたしはとりあえずその場所を離れる。学校へ向かう緩やかな坂道を登ると空に少しずつ近づいていくようだった。歩くたびに見えてくる坂の向こうの空に、あの虹が現れるような気がして、背を伸ばしながら、少し早歩きで坂を登る。
坂道を登りきったところで、街の景色が広がる。虹は見つからない。街の向こうの空にはまだ灰色の雲が足踏みをしていた。わたしの街の上は晴れ。建物の屋上にも道のあちこちにも水たまりがある。水たまりの中の空には,お日さまが出ていてきらきらとまぶしい。フェンスに手を掛け、うんと背伸びをして坂を見下ろした。ちょうどここからぐるりと曲がり始める下り坂を終えると学校に着く。学校は,フェンスのあいまから出ているわたしの運動靴の先に踏まれている。そこへ向かって歩いているわたしと同じくらいの人たちも、鞄の中で時折音を立てるちび鉛筆のように小さいなあと思った。
チャイムが鳴る。朝の会の10分前の合図だ。そろそろいかなくちゃ、そう思ってもう一度顔をあげ、わたしはまた頬が熱くなった。
花びらくらいに小さくて、かすかな虹のかけらが浮かんでいる。とまっていると思っていた時間の中で、虹だけが風や空に溶けていくのを感じた。瞬きをすれば次にはもう見えないかもしれない。その前に。片手でフェンスを掴み空に向かって手を伸ばす。背伸びをする。そっと人差し指と親指を閉じていく。二本の指が触れた、そう思った途端、虹のかけらはさらりと色を消してしまった。目を凝らしても広がるのは雨あがりの空で,わたしにはもう虹は見えなくなってしまった。
広がる街と空の明るさに軽い眩暈を覚える。息を吐き、フェンスを掴んだまま尻もちをつく。アスファルトはもう乾いていた。見上げた空へ落ちていってしまいそうだ。指と指を合わせると、腹の部分で二本が繋がりその間を血が通い出すのがわかった。そして、虹の感触が指先からしっとりと染み込んできた。
2011.07.24 (2018.08改稿)
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