よるのたまご


 家に帰ると、閉じ切っていない引き戸からまだ店の明かりがさしていた。弟は、冬以外、日が沈むと店を切り上げる。もう、そんなに暗くなる時間が早くなったのだっけ。わたしはそう思いながら部屋へ入った。

 鞄を置いてベッドへ仰向けに沈み込む。うす暗く透き通ったインクが窓から流れてくる。暖かな毛布へ、重力といっしょくたになってずしん。深く、深く、深く。時計の針の音が、遠くへ行ってしまいそうだったと気付いたのは、頭の中に母が現れて、プリーツが皺くちゃになるわよ、と言った後。コンタクトが乾いて目が不快だとも思った。指を動かしてみる。ベッドから下げていた足をぶらぶらさせ、ひとつあくびをして、起き上がる。くちゃり、色々を落とし、家で着るワンピースをかぶる。制服をハンガーに掛ける。はたく。それから靴下やYシャツを拾い上げて洗面所へ向かった。


 洗顔をした後、眼鏡をかけると、寒い色の顔が鏡に映っていた。ぼんやりと見つめていると、鏡の奥に映る店の明かりが消えていることに気付いた。おかえりもないのね、そう思いながらも、わたしは心にちょっぴり色がつく。足の裏に吸い付く冷たい廊下を歩いて、弟の部屋へ行った。思った通り弟はそこにもいないのだ。わたしは部屋の扉を閉める。空気の流れが、ひたりと止まる。 どこかで、高周波の音がする。

 いち、机の、ちょうどおなかのあたりにある引き出しから、30cmの定規を取り出す。木でできていて、焦げ茶。に、椅子を引いて、机の下を覗き込む。さん、定規で奥の壁の端をなぞって、板を外す。そうすると扉があらわれる。定規をきちんとしまい、後ろを振り返り、だれもいない、大丈夫。大分狭くなったけれど、わたしは机の下へ潜りこんで、扉を開く。小さな明かりを付け、階段を下りて、わたしも弟も大好きな部屋へ行くのだ。

 その場所は祖父の作業場だった。彼は、わたしたちがまだ走り回っていたころにいなくなった。店には、舶来品や日本の細工など若い頃から集めていたものを置き、そしてまたしばしば彼の作ったものも、そこに並べた。

 わたしたちは、ある時祖父から秘密を分けてもらった。彼は口に指を当てて、ふたりに話をした。ごわごわしたひげや、節のできた太く温かい指をつかむのが、大好きだったわたしたちが彼の伸ばした指に手を伸ばすと、祖父はしゅーっと言った。わたしたちはまだそれの意味も知らず、なんだかびっくりしてしまって、手を膝に戻し、彼の話をぴったりと聞いた。それで、いまでもぴったりと覚えている。いち、に、さん。それから、階段を下りる前に、椅子を引いたり、板をはめたりすることを決して忘れてはいけない。大人など、それで気がつかなくなってしまうのだからね。好きに使っていい、好きなだけ居ていい。けれど上に帰りなさい。お母さんとお父さんの帰ってくる時間はわかるね。目が、きら、と光った。わたしたちは指に手を当ててしゅーっとしあった。その後の記憶は、あまりない。


 階段をゆっくりと下り、もうひとつの扉をあけると、弟がいた。床に座り、作りかけのドールハウスの色塗りをしているようだった。わたしはよく見知ったごちゃごちゃのあいまを抜けて、そこへ行った。絵の具のにおいがする。塗り終わった家具が、ひとつひとつ新聞紙の上に置かれている。たんすとそのひきだし、傘立てと傘、本の棚と本たち。手の平や、指の腹に載るくらい小さなそれらが、きれいに並べられている。まだ乾いていないから触ってはいけないとわかっている。見つめているだけでも壊してしまいそうで、わたしはそれらを努めてそうっと見るようにした。弟は屋根の裏側を塗っているようだった。

 家具を一通り眺めた後、わたしは床に座り、そこに置いてあった本を手にとった。それはどこかの雪国の写真集だった。淡い桜と春空と芽吹き、あざやかだけれど短い夏の盛りが終わると、落ち葉の駆ける秋がくる。それから冬だ。初雪の積もる紅葉。遠くとおくの木まで、誰も踏み入れたことのない雪野原。そうかと思うと動物の足跡の残る、林と冬空。1枚ずつページをめくってその季節を歩む。途中で、弟が顔をあげ「おかえり」と言い、わたしはそれに応えた。写真集の半分を占める冬の中で、夜空が黒く青く、そこに星座を成しているページが現れた時、わたしはそれをどこかで見たような感覚を覚えた。それは写真であるのに、じっと見つめていると、動いているような、ゆっくりと円を描いているような気がしてくる。

 よるのてん、弟は屋根をさかさまにして新聞紙の上に置き、わたしの手元を見てそう言った。アイボリー色の柔らかな天井を塗り終えたようだ。わたしは、彼の塗った屋根を眺めてから、もう一度よるのてんに目を戻したが、それはもうぴたりと止まった厳冬の夜空だった。ふうん、息を吐いて、わたしは本を閉じた。弟も伸びをして、息を吐いた。今何時。さあ。弟は新聞紙をするする横にずらし、とんとん、とひざをたたいたので、わたしはそこに頭をのせる。わたしが手に持っていた写真集を、今度は弟が読み始める。わたしは手持ち無沙汰になり、天井や本の棚をぐうるりと眺める。

 弟は将来歯医者さんになる。そう、決まっている。祖父も、父も、そうだった。弟は細かなことが好き。だから大丈夫。弟は何かを眺めることが好き。だから少し心配。小さな頃は、弟の膝にこうして寝転がり、歯磨きをしてもらった。いちばんおくば、にばんおくば、さんばんおくば。さかさか音を立てるうちにいつも眠たくなってしまって、口が閉じていってしまうのだった。あれからすこしかたくなったひざはけれどもあたたかだ。先ほどの夜空を思い出しながら、わたしはいつの間にか、まぶたの裏でぐうるりぐうるりしていたようだ。


「けい君は器用だから歯医者さんね」

 母の声が鳴って再び意識を戻した。目を開くと、そこにあのよるのてんが広がっていて、わたしはどきりとした。そして、それが本の表紙になっていたことに気付く。ああここで見たのね。わたしは、先ほどの疑問のなんでもない終わり方にちょっとわらってしまう。弟は、わたしが目を覚ましたことに気が付いたのか、本を閉じた。よるのてんは消える。本に遮られていた光が目に入ってきて、目の奥がきん、と痛む。どれくらい時間が経ったのかはこりそこねて、起き上がりあたりを見渡す。もうしばらく前に止まった祖父の置き時計の針は、いつも同じ時間を指している。

「よるのてん」

 弟はそう言って天井を見つめた。弟も、どこかで見た、と思ったのだろう、わたしはふふっと息をもらし、表紙を指差した。けれど弟は、本を広げて表紙を見た後もぼうっとしたまま、もう一度口を開いた。

「今日、たまごをもらってもらったんだ」

 わたしの頭は、いっぺんに店の棚の二番目のガラス戸の中の、あのたまごに行き着いた。先ほどよりもぴったりと、ぴったりと、よるのてんの記憶が結び付いたことがわかる。オルゴールの音色が落ちてくる。ほしぼしが、夜の闇にちかちかと瞬く。よるのてんはあのたまごのよるだ。

「おぼえているよね」

 弟の寄った眉を見て、わたしは頷いた。いくつもの記憶が、わっと胸に染み渡ってくる。


 雨がしとしとと音を立てて降っている。今日はもう星は見えないだろう。わたしは、たまごを知らない誰かに引き渡した弟をちょっぴりうらみながら、けれども仕方のないことなので何も言わずうじうじしていた。弟は、こちらに背を向けて何かをかき混ぜているようだった。背を伸ばして覗こうとすると、弟は振り返り、缶の中の絵筆を持ちあげた。紺青、だろうか。

「スパンコール、持っていたよね」

 わたしは頷いて立ち上がり、色々なものをしまっている引き出しの方へ向かう。千代紙を思いのまま貼り付けた箱に、スパンコール、ビーズ、ガラス石、鈴や何かの小瓶が並べてある。祖父のまねをして、好きなものをせっせと集めていたころの宝箱だ。クリップやどこかで拾った小さなばねなども、気に入って入れていた。ところどころに中味がこぼれている。ほら、スパンコールの小瓶を弟の方へ持ち上げる。瓶をまわすと、数十枚のスパンコールが揺れて、すりん、と鳴った。弟は、混ぜた絵の具の色を紙の端で試している。紺青とスパンコール。わたしはひゅ、と短く浅く息を吸った。ほこりっぽいにおいがする。

 弟のまわりに、小粒で光るものたちの瓶を並べていくと、弟は、よし、と言った。絵筆をもう一度缶に入れ、紙で余分な絵の具をぬぐい、そしてアイボリーの天井に、しっとりと夜の空を重ねるのだった。どこか外国の教会に、このようなものがあったかなあと思い、眺める。わたしは、さらさらとスパンコールを取り出して、ひとつずつ新聞紙の上へ並べてみる。いちばんぼし、にばんぼし、さんばんぼし。オリオンと、カシオペア。隅まで塗り終わったあと、弟は、じゃあ魔法をかけましょう、と言ってわたしに背を向けた。新聞紙をそっとずらして、わたしの見えないところでひとつ、指で拾っては貼り、ひとつ、拾っては貼りをしているのだろう。見てはだめ、なようだから、わたしはうずくまり、ゆらゆら揺れながら待っている。弟とわたしの音だけがする。弟の背骨の起伏を眺めているうちに、また眠たくなってきて、わたしは、腕の間に頭を入れて暗闇に潜った。ちょうど、たまごのかたちみたいだ。

 祖父の残したお店のものは、どれも好きだ。ひとつひとつ、誰かに渡って、店の他ならなくなるたび、わたしはどうしてもすねてしまう。たまごにかかっていた魔法も、とても不思議な秘密のひとつだったのだ。弟は、わかっている。わたしも知っている。そういう、秘密のものだからこそ、必要な人にもらってもらうのだ、ということ。弟はそれができる。だから、大丈夫。弟は歯医者さんになる。だから、不安。

 よるのてんが、巡っている。もらってくれたのはどんな人かなあ。いつ、秘密に気がつくかなあ。たまごの記憶は、わたしの中から消えることはないとわかっている。それでも、時間をかけて、やがて、疎になっていくのだろう。めぐる夜とやがて来る朝の秘密に気のつく人であってほしいと、いや、そういう人であったから弟は手渡したのだろうと、わたしはたまごのかたちになって、咀嚼していく。またひとつ、手の届く場所からいなくなるもののいろいろを、わたしは、吐息で温まった卵の中でひとつひとつ思い出す。


「拗ねてばかりの、すねこさん」

 弟の声がして、顔をあげると、篭った空気がふうと流れていった。あたりはきりっと冷えていて、自分の脈動が熱を放っていくのがわかる。部屋の明かりは消え、雨音は止んでいた。そして、満天の星空が、わたしの頭の上を、ぐうるり囲んでいた。うしなった言葉が口からほうっと吐き出される。それらは白く、形を変えながら流れていく。後ろから、とんとん、と音が聞こえて、わたしは弟のひざに頭をゆだねた。

オリオン、カシオペア、柄杓の星。繋いで、繋いで北極星。星が、落っこちてきそうで、少し怖くなる。こんなにたくさんあったのだっけ。手を伸ばす。弟の影とわたしの手の形が、切り絵のように黒々と、沈んでいるの浮かんでいるのか。節のできた、大きなもう一つのそれが、並んだような、それとも何かの夜の生き物だったかなあ。様々な感覚が研ぎ澄まされていくのだけれど、何もかもは魔法。どこまでいっても果てはなく、どこからかは霧。影と体温だけが確かなもの。けれども回るよるのてんの下でわたしたちはずうっと小さくて、ただただその巡りを眺めているのだ。

「このまま夜の明けるまで」

 弟の息はわたしの耳元で囁きを残し、ゆらゆらと立ち昇ってやがて消えた。





2010.12.19 (2018.08改稿)

thanks! 花原花緒さん for her request

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