第三部 けだるげエルフ ――管理人の夏はほんわか
六五一フロア 蜂蜜色のヴァーミリオン・コースト 一
「はあー。生き返るわあ……」
ビーチのデッキチェア、降り注ぐ初夏の陽射しに瞳を細めて、お嬢は蜂蜜カクテルを口に運びやした。ドライな蒸留酒と果物、蜂蜜をシェイクし、切れるくらい冷やしたショートグラスに注いだ奴。陽光に――といっても「楡の木荘」の中なんで、太陽を模した照明でやすが――、酒が黄金色に輝いてやす。
「ほんっと、久々の休暇だもんね」
「さいでやすな」
あっしも、麦酒のカップを空にして。炭酸の強い刺激が喉を滑り落ちて、そこから立ち上がる、麦の香味豊かなフレーバー。もうたまらないっすな。
「休みはいいっすなあ。たしかに」
「ここのところ、ずうっと働き通しだったものねえ」
「へい。たしかに」
ここは六五一フロア。楡の木内海と呼ばれる海を囲む、海辺のフロアで。通称「ヴァーミリオン・コースト」と呼ばれてやす。
あっしらは、大家にもらった初夏の休暇を過ごすため、アパート内旅行と洒落込んだ次第。どのフロアにも行ける亜空間通路という管理人特権の有り難みを感じるのは、こんなときですな。
海といっても実態は、ルートノードクラスの幹線水道管破裂で生じた「水たまり」。とはいえここは、楡の木荘一の規模の水たまりなんで、普通に海と呼ばれてやすな。百八十年前の水道管破裂による大規模水害を奇貨に、フロアをいくつかぶち抜いて再開発されやして、楡の木荘にその名を轟かせる高級リゾート「ヴァーミリオン・コースト」に生まれ変わったのでやす。
「ここは初めて来たけれど、噂どおり、素敵な風景……」
白砂の前に広がる海は、果てが見えない。といっても水平線も見えないっす。というのも、薄い虹色の霧がフロア全体を覆っているから。だから海の先のほうは輝く霧に隠れて見えなくなっているっす。
「幻想的でやすなあ……。キラキラと陽に輝く、虹色の霧とか」
屋内なんでそう遠くないところに「海の果て」があるはずでやすが、見えない。加えて先はかなり濃霧らしく、屋内とはいえ見通せない。さらに水道管は複数破裂していてそれぞれ別の周期で内部から水が出たり逆に吸い込まれたりするので、潮の満ち引きや激しい潮流がある。
それやこれやで操船には長年の勘が必要で、室内とはいえ冒険は難しいんでやす。漁師だろうと冒険者だろうと正直、海の果ての壁まで辿り着けた者はいないって話で。横の壁を伝っていこうとしても、途中で転覆しそうになるらしいっす。
「さあてと、ひと眠り」
背もたれを倒すと、お嬢が瞳を閉じやした。
「陽よけの傘、持ってきやしょうか」
「いいの。あったかーいお陽様を、体に感じていたいから」
「焼けやすぜ。お嬢の肌、せっかく白くてきめ細やかなのに」
「あらコボちゃん。わたくしのこと、心配してくれるの」
隣のチェアのあっしに顔を向け、面白がっている口調っすな。
「そりゃ……。エルフの肌は特別でやすからね」
「平気よ。顔は少しくらい焼けたほうが、森に暮らすエルフっぽくなるし」
お嬢も、本当は森を駆け回りたいんでやんしょうな。この間会った森林フロアのエルフ、キェルクプ族長たちのように。毎日毎日壊れた備品だの店子トラブルに翻弄されて真っ白のお嬢が、少しかわいそうに感じやした。
「それにお肌は焼けないもん。この……微妙な管理人水着のせいで」
腕を上げてふくれっ面になったりして。
「まあ……その水着は、大家指定の制服でやすから」
お嬢が着ている……というか着させられているのは、管理人指定水着。ワンピースなんでやすが、腕は肘まで、脚は膝上まで覆われている、地味ーな奴でやす。
「でもコボちゃんは普通の短い奴じゃない。下半身を覆うだけの」
「そりゃ男用でやすし。それにお嬢が上半身すっぽんぽんになったら、もう男共の大騒ぎは見えてるっす。……このフロアにはヒューマンが多いですし」
「それはそうだけどぉ。もっとこう、女性用でも夏ぅーって感じの露出する水着があるじゃない。アパートの中層階で今、流行ってる奴」
「あの流行、下層階にも波及しつつあるらしいっすな。……それは置いといて、夏といっても人工的ですがね」
楡の木荘には、四季がありやす。といっても屋内なんで、わざと空調で作り出してる奴でして。なんでも、本来の「外の気候」を忘れないために、そう設定してあるとかなんとか。
「人工でも天然でも、夏は夏でしょ」
ほっと息を吐いて。
「なら背中を焼くくらいならいいよね。……少しは海で楽しんだって気分になりたいし」
止める間もなく背中の留め具を外すと、がばっと開いてうつ伏せに。
「お嬢。それは……」
あっしは見回した。浜辺に並ぶデッキチェアに、客はまばら。飲み物やタオルを配るリゾートの係員は遠く、退屈そうに海を眺めているだけでやす。
「……ちょっとの間だけでやすよ」
「ケチねえ。……わかった」
少しだけ眉を寄せると、目を閉じた。例の水道管脈動で生じる波の音でも、聴いているのでやしょう。
あっしが気にしたのは、お嬢の裸がどうのではなく、背中の傷痕が丸見えになったから。あんまり誰かに見せたくはない部位でやす。ここだけの話、「管理人指定水着制服」って奴も、傷を隠すためのしつらえになってるって次第で。
女性らしいたおやかな曲線を見せる白い肌。とても魅力的でやすが、それより今は、この傷でやす。左右一対の無残な痕が赤黒く広がっているのは、以前と同じ。ところが、春に見たときと異なる点がある。傷のちょうど中央、春の草の双葉のように、金色の盛り上がりが生じているんでやす。
「これは……」
目を疑いやした。
――ハイエルフの羽が、再生しかかっている!
王土戦争末期、禁断の地に足を踏み入れたお嬢は、世界の秘密を知った。それが大家の怒りを買い、記憶を消されて管理人室に送られた。その折、羽をもがれたんでやす。
博士によると、羽には、ハイエルフの特異な能力の根源が隠されているんだとか。それを封じるための処置とのことで、羽の再生は、お嬢がまた世界を脅かす可能性を高めるのだと。そう、あっしは聞いてやす。
――あっしは、どうしたら……。
そもそも、世界の真実を知ったお嬢――イェルプフ王女は、極秘裏に処刑されても不思議ではなかったんでやす。それが一番簡単に秘密を守る方法だし、今後の憂いだって、なくなる。なのになぜ大家がそうせず、記憶と羽を消した上で、目の届く範囲に置いて監視する決断を下したのか。……これまで幾度も考えたんでやすが、あっしには理由がわからない。もちろん博士だって教えてくれやしない。
羽の件は、博士に報告するのが筋でやす。お嬢の観察は、あっしに課せられた重要な責務なんで。……とはいえ、そうすれば当然、博士から大家に連絡が行く。大家がどんな裁き――というか判断を下すかはわからない。今度こそ、大家が「処分」してしまうかもしれない。あっしは、命懸けでお嬢を護ると誓った身。そんな危険に晒すわけにはいかない。
動揺したあっしは、とりあえず背中にタオルをそっと掛けやした。お嬢は気がつきもしない。すうすう寝息を立てて、きっと幸せな夢でも見ているに違いありやせん。
とりあえず今日判断するのは危険。じっくり時間を掛けて、これからどうするか考えやしょう。……それに背中の芽生えだって、羽の再生とは限らない。再生するにしても、今後何百年か掛かる可能性だってある。なにせエルフは長命だし。
なら放置したまま、しばらく観察しておけばいいだけの話。いずれ大家にバレたって、「あっしは気づかなかった」と言い逃れする手もある。
そこまで考え、ほっと息を吐いたとき、背後から声がして、あっしは飛び上がりやした。
「ねえ」
子供の声でやす。振り返ると、ヒューマンの男の子。十代前半くらいでやしょうか。なかなか賢そうな目をしてやす。
「な、なんでやす。物売りなら、他の客に――」
「そうじゃないよ。おじさんたち、楡の木荘の管理人さんなんでしょ。あっちの人が言ってた」
遠く佇むリゾートの係員を指差しやす。
「なにか用でやすか。困り事なら、まずはフロア委員か営繕妖精にでも――」
「違うよ。おいら、船乗りになりたいんだ」
「船乗り?」
「ああ、この海の。だから、網元の親方に、口を利いてくれよ」
「それは……」
あっしは絶句した。あっしらを万能お助け人とでも思ってるんでやしょうか。
「あっしらの業務じゃないし。それにあっしら、今日は休暇中で」
「でも――」
「無理無理。さあ、あっちに行くでやす」
そっと押しやろうとしたそのとき、背後に起き上がる気配がありやした。
「面白そうじゃない。ねえコボちゃん、お話だけでも聞いてみようよ」
見るまでもない。水着を整えたお嬢が、微笑んでやす。もう本当に、なんでいつもいっつも、自ら厄介のタネを抱え込むんでありやしょうか。
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