閑話百景:グレーテル・アードラーの不敬について

「っはあ!? それ、どの分隊とですか!?」


 朝の小会議室に響きわたった声で、エーリカは思わず肩を跳ねあげた。

 次には向かいの席へ目を白黒させる。大声への驚きは過ぎ去っても、未だに状況そのものがつかみきれなかった。


 この女が――グレーテルが椅子を蹴り倒して上官へ食ってかかる現場なんて、少なくともエーリカは見たことがない。


(ど、どうしたどういうことだ? そもそもここまで反応するような話であったか……?)


 来週の大戦記念館への視察が確定したのに伴い、第四分隊は合同で警備をすることになった。議長席のヴィルへルナはそう伝えただけなのに。

 一方のヴィルヘルミナは思い当たるところがあるのか、少し目を丸くしただけで「あぁ」と小さく嘆息する。


「落ち着けグレーテル。第三分隊とだ。我々とは色々とやり方が違うから連携にも努力がいるかと思うが、不服か?」


 窘めるように目をやる。グレーテルもこれで我に返ったらしく、はっと慌てて首を振った。いつもの愛想笑いが未完成のまま貼りついている。


「あ、い、いえ。問題ありません。大変申し訳ございません、分隊長の大事なお話を遮ってしまい……」

「ならいい」


 ヴィルヘルミナは淡々と頷き、居心地悪そうなグレーテルに着席するよう促す。

 だがこれで終わりではない。鳶色の瞳が一瞬だけ鋭い光を放つ。明らかに彼女個人へと向けられた言葉は、ひとつの情であり忠告だった。


「ただし、忘れてくれるな。協働する相手が第三分隊だろうがだろうが、我々は連帯して任務達成できるよう最大限に尽力すべきだ。

 その時がいつ来てもいいよう、軍人として覚悟はしておくといい」

「……はい」


 椅子に座りながらうつむきがちに応じるグレーテル。そこからの会議はいつも通りだった。ヴィルヘルミナも、グレーテルも、その他の隊員もおそらくは。


 ただひとり、エーリカだけが会議に集中しきれないまま、向かいのグレーテルを意識し続けていた。


***


 会議はつつがなく終了し、だがエーリカの疑念と雑念は悶々ととどまるところを知らない。

 だから待機となってしばし、談話室で睡眠時間までの暇を持て余していたエーリカは、ソファからの言葉に反応してしまったのだ。


「とはいえまあ、さっきのグレーテル伍長ってばあ、いつも以上の見てられなさでしたねえ」


 ゆるゆると締まりのない笑みを浮かべるのは放蕩者ことベアテだ。もしかするとこちらの戸惑いを見抜いて糸を垂らされたのかもしれない。ならば先に待つものは大なり小なりロクでもないだろう。

 それが分かっていても、気になるものは気になる。ほぼ好奇心に負ける形で問いかけた。


「なあ、アレはいったい何だったのだ? グレーテルの奴、合同警備とやらがそんなに嫌いなのか」

「ああ、エーリカ伍長はご存知ないですかあ。合同警備っていうか、第一分隊と一緒になるのが嫌なんですよねえ。グレーテル伍長は」


 第一分隊。小隊長の右腕とも目されている第一分隊長・ハルト曹長が率いる隊だ。

 接する機会こそ多くはないが、「兵士」「軍人」を体現する分隊というイメージが強い。とにかく全員キビキビしている。異例に特例、問題児だらけの第四分隊とは対照的だった。


「もっと言えば第一分隊長が嫌いみたいですねえ。普段も極力絡むの避けてますしい、会ったら会ったですごいんですよお」

「あー、それあたし一回見たことありますよー!」


 ベアテに膝枕されていたイルムガルトが起き上がった。行儀悪くもソファの上でぴょんぴょん跳ねて、溌剌と口を開く。


「廊下で行きあってー、すごい苦ーいお顔で敬礼してー、それでおしまいでした! お世辞も言わなかったんですよー、さすがのイルちゃんもびっくりしました!」

「あらあらイルちゃん、それってとってもレアショットですよお。遠回しな嫌味飛ばしたり後で舌打ちしたりしなかっただけ大人しい方ですねえ」

「それはまた……ずいぶんなものであるな」


 よく不敬で罰されないものだ。あのグレーテルのことだから時と場合を考えてやっているのだろうが。

 なにより第一分隊長は非常に厳しいものの、取るに足らないことは相手にしないと聞く。要は罰する価値もないと思われているのかもしれない。


 そう思うとなんだか溜飲が下がるような哀れなような微妙な味わい。加えてこれまで描いてきたグレーテルの像によく分からない要素が混ざって、どうにも据わりが悪くなる。それをごまかすように腕を組み、ふんと鼻で笑ってみせた。


「しかし珍しいこともあるものだ。いつも上官には鬱陶しいくらい媚を売っているくせに、なんなのだあやつは。首尾一貫しない奴であるな」

「悪うございましたわねえ、首尾一貫しない奴で」


 背後から聞こえた苛立ちは、勢いよく後頭部を突き刺した。


 「いっ!?」と跳ねるが早いか頭を抱える。ほどなく生理的な涙も浮いてきた。じくじく痛む怒りのまま、背後の彼女へ振り返る。


「っっったいであろうが! というかおまえ聞いていたのか!」

「聞こえたのよ。ていうか頭足りなさすぎでしょうが。今日の当番忘れたの? 時と場合も考えて悪口叩けないのかしらバーカ」


 そうモップ片手に吐く毒はいつもの切れ味だ。どうやらあれで小突かれたらしい。後ろでは臆病者のタマラがおどおどホウキを握っている。


 そういえば今日の談話室の掃除当番は彼女たちだった。普段は朝食前に小隊全員で兵舎の掃除をするのだが、警備の任が入ると待機メンバーによる当番制になるのだ。

 ベアテも分かってエーリカに話を振ったのだろう。先に盛り上げておいて、グレーテル当人を話題へ引きずりこむために。


 グレーテルも口を出した時点で腹を括っていたのか撤退の様子は見られない。ソファの二人をキッと見下ろし、モップの柄を突きつける。


「あんたらも好き勝手言ってんじゃないわよ。第一分隊長のことは嫌いっていうか苦手なの。そういう上官の一人二人、いて当然でしょ」

「そうですねえ。見てて面白い上官なら目の前にいらっしゃるんですけどお」

「はっ倒すわよあんた」

「大丈夫ですよーグレーテル伍長! 今の褒め言葉ですもん! あたしもベアテさんも、グレーテル伍長が好きっていうか得意です!」

「あんたは口を閉じなさいよ煽ってんの!? あと副分隊長って呼べ!」


 そうグレーテルがモップを振り上げると、「きゃー」と片や棒読みで、片や楽しげに抱き合うベアテとイルムガルト。明らかに遊ばれている。


 相変わらず憎たらしくも堪え性がない女。いつものグレーテルだ。当たり前の事実になにか胸のつかえが取れたような心地になって、エーリカもソファに腰を降ろす。

 なによりエーリカ自身にも理解できない感情ではなかった。脳裏をよぎる記憶に蓋をして、グレーテルへと頷きを返す。


「まあ、気持ちは分からないでもないぞ。上官が云々はともかく、エーリカにも苦手な人間くらいはいる。おまえも最初はそんな感じであったしな」

「……まあ、そういうことよ。引き合いに出されたのは癪だけど。ていうかあんたら全員私を軽んじすぎでしょうが、上官よ先任よ敬いなさいよ」


 実に不服そうに息をついてモップを下ろすグレーテル。どうやら怒りを鎮めたようだが、それでも空気を読まないのがこの二人だ。イルムガルトを膝に乗せ、ベアテがゆるりと首を傾げる。


「あらあらグレーテル伍長、全員はさすがに早漏すぎますよお」

「あん?」

「だってだってー、まだ皆さんにお話聞いたわけじゃないですもん! ねータマラさん!」

「え……っ?」


 無邪気かつ遠慮のない呼びかけに、タマラは一拍遅れて顔を上げた。


 グレーテルの背後でびくびく気配を殺す努力も無駄だったらしい。ますます身を縮めて縋るようにホウキを握るが、その程度では破茶滅茶上等の二人組から逃げられない。見るも哀れな怯えっぷりで謝罪を繰り返すだけだ。


「タマラさんは、グレーテル伍長のことどういう感じに思ってるんですかー?」

「あっ、えっと、その……す、すみませ、ごめんなさい!」

「大丈夫ですよお、何言ってもグレーテル伍長は多分すぐ忘れてくれるでしょうし。慣れてそうですからねえこういうの」

「当然みたいに悪口前提なのは何なのよ?」


 グレーテルが嘆息する。さほど激昂しないのは結果が見えているからなのか。

 背に隠れるタマラへ呆れたような横目をやりながら、ひとり堂々と胸を張る。口端は小さく吊り上がっていた。


「だいたいね、こんだけ私が世話焼いてるのよ。こいつも私以外とろくに会話できないのに、苦手だの嫌いだのなる要素がないじゃない。ねえタマラ?」

「え、」


 心底虚を突かれたような返答。降りたったのはひび割れた沈黙だった。


 それを取り戻そうとするかのように、タマラの唇からは「ひ、あ、その、ちが、えぅ」と言葉にならない何かが続く。先の返事よりもこちらの方が致命的だ。

 勝ち誇りかけていたグレーテルの笑みが凍りつく。きりきりと錆びた動きで振り返る。


「あの、ねえ、まさか本当? えっマジで???」

「ひっ!? ご、ごめんなさい! ごめんなさいぃ!」

「いやごめんなさいじゃないわよちゃんと説明しなさいよねえ!!!! タマ、ねえちょっとこらタマラーーーー!!!??」


 ホウキを抱えたままタマラが談話室を飛び出す。グレーテルの手は届かない。

 開きっぱなしの扉をほぼ放心状態で見つめる肩に、エーリカはなるたけ優しく手を置いた。


「まあ、なんだ。一方的な情が伝わらないのはつらいものであるな、うむ。謝るのであればエーリカも付き合うぞ」

「ほっときなさいよ!!」


 裏返りかけた反駁にもどことなくキレがない。どうやら相当ショックらしく、そのまま「何が悪かったのよ、やっぱちょっと厳しく当たりすぎたのかしら……?」などとぶつぶつ独りごちはじめた。

 部下に対して居丈高に接する一方で、こうして自省する潔さも持ち合わせている。この二面性こそがグレーテルだ。


 だから第一分隊長への不敬と他の上官への媚との間にある不均衡も、つまりは同じことなのだろう。

 そう自分を納得させて、エーリカは同僚にかける言葉を探すのだった。

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