3-13交わす銃口の仮面舞踏②

 特別措置小隊、第四分隊の狙撃班。本日の持ち場は礼拝堂に併設してある塔の頂上だった。


 最上階ではない。文字通りの頂上だ。小さな礼拝堂にくっついた小さな尖塔だが、それでも十数メートルはある。

 しかも屋根は急勾配を描いていて、腰を落ち着けるだけでも一苦労だった。命綱をつけていなければ早晩転がり落ちるだろう。


 こんな危険な場所にいる理由はただひとつ。ここが近辺で一番見晴らしがいいから。

 万が一にも敵にこの位置を取られないようにするため、また周囲の様子を高台から把握するために、誰かしらがここに配置されるのは必然といえた。


 とはいえ、実際にこんな事態に陥るなど、少なくともナターリエは考えていなかったわけだが。


「動かないでください!」


 ライフルのボルトを引きながら叫ぶ。標的は突如として記念館の屋根に躍り出たガスマスクの女だ。ブリーフケースらしきものを胸に抱えている。その足元から数メートルも離れていない屋根瓦には、たった今ナターリエの穿った弾痕があった。

 撃ってからの警告となってしまったが、正直仕方がないと思う。なにしろ明らかに不審者なのだから。


「あなたが何をしたのかいまいち分かりませんが、ちょっと怪しすぎるので。そこで大人しくしていただきます」

「ナターリエ、分隊長が出てきたわ。屋根に上がってくるみたいよ」


 ナターリエがガスマスク女に銃口を向ける一方で、相棒ことアネットはその背後で周囲を警戒してくれている。

 よく分からないが、ヴィルヘルミナが出てくるならば状況は切迫しているのだろう。ならばあの怪しい女を威嚇しておくのが自分の役目だ。


 彼我の差は約150メートル。先の着弾を踏まえて照準を微調整していると、じっとこちらを見上げていた女がブリーフケースを足元に置く。そして肩の小銃ライフルをナターリエに向けた。


(今だ)


 理性はそう告げる。今なら先手を取れる。ナターリエたちほどではないが不安定な足場で、位置がやや低い分あちらの方が不利だ。撃ち合いになっても勝てる。


 しかし本能の鳴らす警鐘は最高潮に達していた。。肌がピリつき産毛まで逆立つ。

 時は粘つくように流れ、しかし判断のチャンスは一度きりだ。淡々と獲物を値踏みする狼を相手にした時の感覚――それが決め手となった。


「っ、アネットちゃん伏せて!!」


 あちらの銃が啼いたのは、予想よりも一拍早いタイミングだ。構えを解いてアネットに覆い被さって正解だった。銃弾が掠めたらしく、甲高い音が頭上で2、3度弾ける。

 あのまま避けなければ、先に撃たれていたかもしれない……そんな予感がヒヤリと背筋を撫であげた。


「あっぶな……アネットちゃん、無事!?」

「まあね」


 一方でアネットは平然としたものだった。ほとんどナターリエに組み敷かれる格好になっているが、そのおかげか怪我はないらしい。ほっと安堵の息が漏れる。


「こっちばっかりが撃つわけじゃないの、分かってたつもりだけど……いざなってみるとびっくりしちゃった」


 ナターリエとて銃を撃ったのは一度二度ではない。むしろライフルには入隊前から慣れ親しんでいたし、第四分隊でも射撃は得意なほうだという自負もある。

 しかし相手から撃たれるのは初めてに近かった。自身の認識の甘さが恥ずかしいばかりだが、反省するのは後にしよう。


「とにかく撃ってくるなら敵だよね。アネットちゃん、こっちからもお返しするよ! 分隊長があの人捕まえるまで足止めくらいはしないと……」

「……いえ、ナターリエ。もうできることなんてないわ。動かず休んでましょ」

「りょうか……え、はっ!?」


 何か信じられない発言が聞こえた。


 驚きのあまり起き上がろうとして、しかしアネットに抱きつかれて動きが止まる。いや、羽交い締めにされたという方が正しいか。小動物のような童顔に小柄な体つき。振り解くのはさほど難しくない。

 しかしアネットを相手に乱暴なことはしたくなかった。絶対に。やんわりと上体を起こそうとしながら、抵抗するのは言葉ばかりだ。


「何言ってるのアネットちゃん、さすがにふざけてる場合じゃないよ!?」

「暴れないで。ふざけてないわよ、真面目も真面目の大真面目。私たちは隠れてやり過ごすわ」

「なお悪いよ! どう見ても悪い人だもんあの人! 大丈夫だよ、アネットちゃんを撃たせたりしないから、絶対わたしが……」

「そういう意味じゃないわ。私たち、もうろくに対抗できないのよ」

「それってどういう……ひゃっ!?」


 そう問いかけた拍子、踏ん張った靴底がつるりと滑るのを感じた。


 これ自体はおかしなことではない。なにせここは塔の屋根の上だ。うまい体勢を身につけなければすぐにバランスが崩れる。

 だからこそ命綱をつけているわけで、今回も見えない境界線がナターリエをここに繋ぎとめてくれるはずで。だから大丈夫だと、そんな理性は瞬きする間に霧散した。


 滑り落ちた足が、境界線を超える。


「ひっ――!?」


 落ちる。その確信が頭の中を塗りつぶしたのは一瞬だった。


 落下がぴたりと止まる。思わず閉じていた目を開くと、幼馴染はまだナターリエの身体を抱きとめたままで、いつのまにか自分の側も彼女に縋りついている。

 アネットの命綱は二人分の体重にぎちぎち音をたてて軋んでいた。塔の支柱に、命綱はひとつしか繋がれてない。


(まさか、さっきのって)


 あのガスマスクの女が狙ったのはナターリエ自身ではない。ナターリエの命綱の金具だ。


 この距離で、あの不安定な足場での立射で、スコープも使わず、相手からも銃を向けられている中、数センチもないたった一点を撃ちぬく――それがどれだけの技術と精神力に裏打ちされているか、狙撃手たるナターリエには嫌でも分かる。塔から落ちかけたときの気持ちのほうがまだマシだった。


 戦慄。思わず幼馴染へ縋る手をほどきかける。

 それを諌めるように抱きしめる力を強めながら、アネットはいつもと変わらない無表情で肩を竦めた。


「こういうわけよ。転落死一歩手前のナターリエも、それを救命しなきゃいけない私も戦力外。ここで命からがらゆっくりしてましょ」


***


 ヴィルヘルミナが屋根へ上がったのは、二度目の銃声が聞こえたすぐ後だった。


 灰色のスレートを踏みしめたあたりでガスマスク女の意識がこちらを向く。手はライフルを構え、硝煙のあがる銃口は礼拝堂へと向けられていた。

 その照準に目を向ければ、真っ青な顔でアネットにしがみつくナターリエと、屋根でうまく腰を落ち着けてこちらへ首を振るアネットがいる。ナターリエの命綱は絶たれ、腰のベルトからはワイヤーが吊り下がって揺れているだけだ。


 ナターリエの命綱を彼女が壊した。そう確信して、ぎりと奥歯が耳障りに鳴った。


「貴様、ナターリエまで……」


 この女を野放しにはできない。脅威であると同時に償わせるべきことが多すぎる。一旦は腰に収めた拳銃を再び抜き放ち、女へと突きつけた。


「名乗れ、狼藉者。正直な話手加減をする理由が見当たらない。事情聴取で話せない状態にしてしまうかもしれないからな、今のうちに身元を知らせておくといい」


 そう言葉を向けるものの、女の側はそれを聞いているのかも怪しかった。ガスマスクの向こうの双眸はよく見えない。左利きなのか、淡々と構えを解いてライフルを左肩に提げている。

 どうやら応じる気はないらしい。予想はできていたことだ、あとはやるべきことをやるだけだった。


「そうか。ならばこちらから名乗りをあげよう。私は特別措置小隊、第四分隊長――」


 安全装置を外す。距離は10メートルもなかった。上半身に狙いを定めて呼吸を鎮める。吹きつける風が凪いだ一瞬を、今のヴィルヘルミナは見逃さない。


「ヴィルヘルミナ・シュテルンブルク軍曹だ、覚えておけ!」


 咆哮と同時に引き金を引いた。


 しかし機先を制したのはガスマスク女の方だ。瞬時に身体を屈めて屋根を蹴って銃弾とすれ違い、突き進む。反動を噛み殺すヴィルヘルミナへ向かって。

 今回は逃げを打つつもりはないようだ。こちらにとっても好都合。肉弾戦で遅れをとるつもりはない。


「上等だ、来い!」


 腹に打ちこまれる拳は一歩引いて回避する。そのまま彼女の手首を引っ捕らえ、肩へと銃口を向けた。


 だが発砲したのは彼女に腕を逸らされた後だ。弾丸がひとつ明後日の方向に消えた。

 同時にガスマスク女は肘を突き出して手首の拘束を外し、勢いに任せて懐へ入ってくる。死角から何かが矢のように迫ってくるのを直感した。


「甘いっ!」


 顎への肘打ちはのけぞり腕を押し退けて受け流す。回転するような彼女の動きに合わせて肩を突き放し、同じくこちらも後退。間合いを取り直す形だ。


 ライフルを持ってこそいるが、彼女はそれを使わず接近戦に持ち込みたいらしい。遮蔽物のない屋根の上では撃ち合いも博打だ。徒手空拳に自信があるならこれもひとつの選択だろう。

 だが向こうがライフルを使わないとすると、ヴィルヘルミナの側は拳銃を使う方が有利になる。

 ライフルを取る暇を与えず、それでいて拳も届かせない間合いを保ち、彼女を仕留める――これが最適解だった。


(油断できる相手ではない……一刻も早く決着を着けなくては)


 足止めさえしていれば増援が到着するだろうが、時間稼ぎのつもりで相手をしていれば打ち倒される。そんな確信は、ヴィルヘルミナに迷いなく次弾を撃たせた。

 しかし遅い。トリガーを引いた時には、突き飛ばされ膝をついた彼女はこちらへ腕を振るっている。投げられた何か――おそらく割れた屋根瓦――が右手を打ち、やはり弾はデタラメな方向へ。


 突然の痛みと反動。ふたつに動きを止められたヴィルヘルミナよりも、飛び出すガスマスク女の方が早かった。


「ちっ、この……!!」


 ガスマスク女が間合いに踏み込んでくる。右手に握る銃把でこめかみを殴ろうとするが、彼女に手首を掴まれ防がれた。

 このままだと銃を封じられた状態での接近戦になる。左側からやってきた腹への膝打ちをかわしながら、彼女がやったように肘を突き出す。


 このまますれ違うように駆け抜ければ背後を取れる――そんな勝算を導きだし、手首が解放されんとする刹那、右腕が何かに絡め取られた。


「な……っ!?」


 不意に引っ張られる右腕、屋根の上でたたらを踏む足と思わず振り返るヴィルヘルミナ。その顔面を衝撃が襲った。


 鼻が一瞬詰まり、次には痛みの灼熱が弾ける。目を開けばほど近くにガスマスクの彼女がいた。そうと認識する間に風を掠める音が聞こえ、反射的にのけぞった。目前を茶色い影が通過する。


(なんだ、どういうことだ、私はいったい何をされた!?)


 状況が分からない。あのままならばこめかみをしたたかに打たれていただろう。そして不思議なのは、彼女の動きに振り回されるようにしてヴィルヘルミナの右腕も動くことだった。


 攻撃は止まらない。今度は胸を突き飛ばされ、しかし後退できたのはせいぜい一歩ほどだ。右腕が糸操り人形のように引っ張られ続けて自由を奪う。ようやくまともに見ることのできたそこには、黒い帯のようなものが絡みついていた。

 ガスマスク女が持つものを見てその正体を理解する。ライフル。ヴィルヘルミナを縛るのはそこから繋がっている帯……負い紐スリングだ。


(まさかこの女、最初からこの状況に持ち込むつもりで――)


 ライフルを左に提げていたのも、あのやり方で手首の拘束を外して見せたのも、銃を持つ腕を掴んできたのも。

 すべては右腕をあのスリングに滑りこませ、ヴィルヘルミナの銃を封じるため。そう確信するうちにぐっとスリングが引かれた。


 否応なく一歩踏み出した不安定な姿勢で、右わき腹に放たれた回し蹴りは防げない。芯まで貫く痛みに思わず身体を折った途端、また顔面に銃床ストックの殴打。視界がブラックアウトする。

 一瞬の完全な無防備、その代償は致命的だった。


「ぐ、あぁっ!!」


 真上からの打撃が右手を射抜く。拳銃をたまらず取り落とす。

 最大の攻撃手段を奪われ、ぐっと唇を噛むうちにも、彼女の攻勢は続いていた。


 突き放される。間をおかず引き戻されて喉をライフルの銃身で打たれる。呼吸が止まった隙を逃さず腹部に膝を入れられる。繋がれた身体は彼女の動作ひとつひとつに糸を繰られ、まともに体勢を整えることさえできない。


(悪魔……)


 明滅する視界に、その黒く無機質な顔は地獄の使いじみて映る。無慈悲が人のかたちをとったよう。なればこそ諦めるという選択肢はあり得なかった。

 シャルロッテにこの場を任されたのだ。信じてくれた彼女のため、悪鬼羅刹ごときに膝をつくわけにはいかない。


「っ、この……!」


 力いっぱいに右腕を振りかざす。ガスマスクの彼女は小柄な見た目通りに軽い。乱れない攻撃に綻びが生まれ、反撃の糸口を掴み取る。


 ヴィルヘルミナが彼女に繋がれているなら、彼女にとっても同じこと。体格の勝るヴィルヘルミナなら主導権を奪うこともできる。


(ここから形勢逆転するには、それしかない……!)


 ガスマスク女が踏み止どまる。ヴィルヘルミナもさらに力をこめてスリングを引く。そんな拮抗が続いたのは数秒で、光明が絶たれるのは一瞬だった。


 繋がりが。ほどけてゆくスリングと外された金具。勢いあまって姿勢が揺らいだうちにも彼女は距離を殺しきっている。蹴りは抗いようもなくヴィルヘルミナの腹を穿ち、たまらず一歩を退く。


 そして、断崖に迎えられた。


「ぁ――」


 漏れた声は軍人のものではなかった。もうとっくに屋根の淵近くにいたのに、目の前のことに囚われて気づけなかった……そんな愚か者は確かに軍人に相応しくないのかもしれない。


 踵はすでに奈落へ身を委ねている。爪先の抵抗はあまりに儚くあっけない。重力の誘惑にあっという間に打ち負けて、踏み外すがままに踵のあとを追ってゆき、


「――――っ!」


 残されるのは虚空だけ。

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