猫と自動人形

 すす臭い倫敦ロンドンの下町、しかしその日は珍しく澄んだ空気の夜だった。月は丸く磨かれた金貨の如く、瓦斯ガス灯も不要なほどに明るい。

 老人が独り、通りに面した扉から顔を出した。自動人形師の彼は、拡大鏡を片眼につけたまま、あたりを見渡した。名をアーチボルド・ゴードンというが、周りは皆<教授>と呼んでいた。買物は通いの助手にやらせ、自身はほとんど外出することがない。彼が今宵に限って地下の工房から這い出てきたのはそれなりの理由があった。

 同居人が消えていたのである。茶色の痩せた、耳に噛み取られたような傷のある、猫。飼う飼われる関係というよりはやはり同居人と呼ぶべきだろう。もとは野良で、いつの間にか地下の工房に住みついていた。蒸気の機械がいつも動いている教授の工房は暖かく居心地がよいらしかった。餌は教授の役目、彼は鼠の退治という自然なる協定が彼らの間に結ばれていた。

 猫が夜に動き回るのに何の不思議もないけれども、死ぬ間際姿を消すという。そう老猫としよりではなかったが、気にかかった。

 しゅうしゅうと音を立てて通り過ぎる簡易型自動警官が動いているくらいのもので、辻馬車の御者も暇そうにしている。静かな夜だ。

 教授は通りを曲がり広場に出る。不思議なものを見た。

 鮮やかな赤い服を着た少女。裏通りに巣くう浮浪者たちとは違う、仕立てのいい服だということが夜目にもわかる。倫敦ロンドンは決して治安のいい街とは言えなかった。夜にこんな子供がうろつくのは危険だった。

 教授の同居人、プライドの高いあの猫が素直に胸に抱かれていた。少女は教授に気づくと、ひそやかに微笑わらった。

 二言三言言葉を交わすと、少女は猫を教授に返した。猫は爪を立てて、すぐさま道路に降り立ち、逃げた。ぷんと消毒の匂いが教授の鼻をかすめた。

 声をかけると、少女は口に人差し指を当て、そのままくるりと背を向けて歩いていった。子供らしい線の細いブロンドが夜風に揺れていた。

 まるで幻のようだった。


 三日後に墓地で少女の弔いの鐘が鳴った。

 病気がわかってから、少女は外へ出たことがなかった。満月の夜に、一度だけ少女は家を抜け出して独り街を歩いた。

 そこで教授に出会ったのだ。


 それが天啓であったかもしれない。教授は工房にこもると、一心不乱に自動人形を作った。問題は彼の腕が良すぎることだった。

 人形は少女と瓜二つだった。一年に一回、教授はボディを作り直した。まるで人形が成長したかのように。誰もが目を奪われるほどの出来栄えだった。

 美しい自動人形は倫敦ロンドン中の噂になった。好事家たちが驚くような高値を提示したが、教授は絶対に売ろうとはしなかった。一度少女の父親が、裕福な商家の男だったが、恐ろしい剣幕で押し掛けてきたことがあった。娘を侮辱されたように感じたから。しかし彼はどうしても娘の似姿を壊すことが出来なかった。父親は大きなハンマーを握りしめて泣いた。


 人形を作り始めてから数年の月日がたち、教授も体調を崩した。メンテナンスできる者が誰もいなくなり、自動人形も動きを止めた。


 教授の工房はまだそのままになっていた筈だ。今後もしも訪れる機会があるならば、そこに今も座している美しい自動人形を拝んでみるのも一興だろう。その膝には茶色の猫が陣取っていて、胡乱うろんな目を向けるだろう――猫には猫の仁義があるのだから。





                    終

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