第十章「1944年 東 京 ‐ウラヌス、我が友よ‐」

 日米開戦の翌年から軍務に復帰した西を待っていたのは、騎兵はすでに時代遅れであるという現実だ。

 すでに陸戦の主役は、騎兵から戦車と自動車機械化歩兵による機甲部隊の時代へ移り変わっていた。日本でも先のノモンハン事件での大敗により、欧米各国に遅れる形で戦車師団が創設され、騎兵の価値は急速に失われていった。

 時代の流れに従い、西も戦車兵への転向を余儀なくされた。

 戦車隊指揮官としての隊長教育を経て中佐に昇進し、1944年には戦車第26連隊・連隊長として満州防衛の任務に就く。


 その間に戦局も激変していた。

 日本は開戦当初こそ優位を保っていたが、1942年6月のミッドウェー海戦での敗走を転換期に、次第に防戦一方となっていった。

 1943年から1944年にかけて東南アジアの要衝を立て続けに失い、本土防衛の要である南方諸島を巡る戦いへと追い詰められてゆく。

 同年6月には、ついにB-29戦闘爆撃機による本土空襲が始まった。

 大本営司令部は〝一億玉砕〟による本土決戦を唱え、アメリカを中心とする連合軍に対し徹底抗戦の構えをみせる。


 時を同じくして、西ら戦車第26連隊にも最前線である硫黄島への転進命令が下された。

 東京から南へ1200キロに位置する硫黄島は、本土を守る最後の砦となる場所であった。

 

     ***


「久しぶりだな、ウラヌス」


 名前を呼ぶと、かつての愛馬は嬉しそうに歩み寄ってきた。

 ウラヌス号はベルリンオリンピック後に世田谷の馬事公苑に預けられ、功労馬として静かな余生を送っている。

 


 西が最前線の硫黄島から東京へ戻ったのは、もちろんウラヌス号に会うためだけではない。島で使う戦車を補充しに来たのだ。

 硫黄島へ向かう途中、西らを乗せた輸送船がアメリカの潜水艦に攻撃を受けた。すでに日本近海すら安全ではない。西らは脱出できたが船は沈み、虎の子の戦車をほとんど失ってしまった。

 戦車の無い戦車連隊など話にならない。そこで西は自ら戦車を調達するため、陸軍の輸送機で本土へ舞い戻った。

 方々を駆け回りなんとか九七式中戦車をかき集めたあと、気づけば西はかつての愛馬のもとへ足を運んでいた。



 西がウラヌス号に会うのは四年振りだが、かつての主人を忘れてはいなかったようだ。首を撫でてやると、愛馬はじゃれつくようにこちらの手を噛んでくる。

 まるで赤子ような噛み方だった。奥歯がすっかり擦り減っていて、もうそのような甘噛みしかできないのだ。


 ウラヌス号の正確な年齢は西にも分からない。

 血統書のないこの馬は、いつどこで生まれたのかさえ定かではない。彼の以前の持ち主であったイタリア将校は、第一次大戦後の混乱期にフランスから連れて来たと語っていた。血統書ほかの記録は戦争で焼失してしまったのだろう。

 それでも歯の本数などから、おおよその馬齢は推定できる。

 西が初めてウラヌス号に出会った時には推定十一歳――それから十四年後の現在は、二十五歳になる。人間に例えるならとうに百歳を越える老齢だ。


 ウラヌス号は老いた。

 体高180センチを越える雄大な巨躯も、腹はたるみ筋肉が落ちて、すっかり痩せ衰えてしまっている。

 かつては暴れ出したら手がつけられないような荒々しい馬だったが、今のウラヌス号に昔のような元気は残っていない。


 対する西も今年で四十二歳、やはり年を取った。

 馬術を離れてから運動不足のせいか太ってしまい、近頃は軍服のベルトがきつくて仕方がない。髪も薄くなり、こちらもすっかりくたびれた中年男になってしまった。


「……互いにもう、競技者の体つきではないな」


 自嘲するように呟く。

 老境のウラヌス号を前にして、西は自分が何のために愛馬のもとを訪れたのか理解した。

 

(きっと、これが最期の別れになる……)


 そんな予感があった。

 西は手綱を引いてウラヌス号を馬房から連れ出す。

 この馬事公苑は、もとは幻となった東京オリンピックの馬術会場として用意された施設だ。広大な厩舎、練習走路、耐久審査用の野外コース――ありし日の幻影を追うように苑内を歩く。


 純馬術(馬場馬術)会場である砂馬場の前で足を止める。

 わずかな引き運動でもウラヌス号の息は上がっていた。それでも愛馬は嬉しそうだった。まるで昔を懐かしむように、競技場を見渡している。

 西も一緒になって辺りに首を巡らせた。

 目を瞑り、耳を澄ませば、今にも蹄鉄の足音を響かせて競技に挑む人馬の姿が浮かび上がってくる――。

 ここには西が想いを馳せた、夢の残滓が今も息づいている。


「――オリンピックの英雄さんが、こんなところでどうしたんだい?」


 西が振り返ると、スーツを着た年配男がこちらへ歩いてくる。

 ソフト帽に片手でステッキをついた見覚えある姿に、西は驚きを隠せなかった。

 

「尾形先生……なぜここに?」


「お前さんが内地に戻ってるって噂を聞いてな。ここに来れば、会えるんじゃないかと思ったのさ」


 西の前に現れたのは、アスコツト号の元調教師である尾形景造であった。

 ベルリン大会を目指していた頃、西は尾形と馬の管理法について頻繁に手紙のやり取りをしていた。

 同じ馬に携わる人間として、互いに通じるものがあったのだろう。それからも定期的に手紙を交わしている。


「尾形先生のご活躍はこちらにも伝わってます。クリフジは凄い馬だそうですね。史上最強馬との呼び声も高いと聞いていますよ」


 クリフジ号は昨年の『東京優駿』を優勝した稀代の名牝である。出るレース全てが大楽勝という破竹の快進撃を重ね、名門・尾形厩舎において歴代最強と評されているほどだ。

 今春には『横浜記念』を勝って無敗の十一連勝を達成し、このまま連勝記録をどこまで伸ばせるかで競馬界はもちきりになっていた。

 

「クリフジは引退したよ。調整中に体調を崩しちまってな……先月、日高の牧場へ移した」


「……そうだったんですか。それは寂しいですね」


「クリフジは牝馬だからな。馬主の意向もあって、無事なうちに牧場へ返してやることにしたのさ」


 そう言いながら、尾形はどこか遠くを見るように呟く。


「それに、今はこういうご時勢だしな――」


 戦争が激化したことで多くの競馬開催が中止され、今年から競馬レースは能力検定競争として行われていた。能力のある馬は種牡馬や肌馬はだうまとして繁殖へ上げるが、それ以外は軍馬として戦争に送るということだ。

 すでに国家総動員法による成人男子への赤紙や学徒動員が行われ、本土決戦への備えとして九州・沖縄からの疎開も始まっている。


 今やオリンピックや競馬を楽しむどころか、日本の行く末がどうなるかも分からない時代だ。

 いつの間にか、この国はそんなところまで来てしまった――。

 砂馬場で日向ぼっこするウラヌス号を眺めながら、西はこれまで言えなかったことを口にした。


「尾形先生……アスコツトを託して頂いたのに、期待に応えられず申し訳ありませんでした」


 アスコツト号は数年前から行方不明となっていた。

 馬術界を引退したのち、代々木の乗馬倶楽部へ預けられたというが、その後の消息は分かっていない。

 尾形の言葉ではないが、このご時勢である。一頭の馬の行方など捜しようがない。

 ベルリンでメダルを獲れなかったこと。

 旬の時期を一緒に過ごせなかったこと。

 今はどこにいるのかも分からないこと。

 アスコツト号に対するあらゆる無念の気持ちが、堰を切ったように溢れ出していた。


「やめてくれ。お前さんが謝る必要はないだろう」


 頭を下げる西を、尾形は責めなかった。それどころか、思いもよらない言葉を投げられた。


「西さん……俺は感謝してるんだ。アスコツトが難関だった野外騎乗を無事に走り切ったと聞いて、俺は競馬で勝った時よりも嬉しかった」


 西が顔を上げると、そこには尾形の晴れ晴れとした笑顔があった。


「お前さんには、いつか礼を言いたいと思ってたんだ。西さん……アスコツトに乗ってくれて、ありがとうな」


「そんな……礼を言われることなんて、何も――」


「いいや。西さんは、ちゃんとあの馬が世界に通用するってことを証明してくれたよ。いつか日本の馬でも、世界に勝てる日がきっと来る――西さんとアスコツトは、そのための道を示してくれたんだ」


 自分よりもずっと長く馬に携わってきた名伯楽からそのように言われて、西は心が洗われる思いがした。

 それはベルリンオリンピックでメダルを逃して以来、初めてかけられた賞賛の言葉だった――。


     ***


「アメリカと勝負するなら、戦争よりも競馬であの国に勝ちたいな」――去り際に残した言葉が、実に尾形らしいと思った。

 尾形と別れたのち、西はウラヌス号を連れて馬房へ戻る。

 本土に滞在できる時間は長くない。

 西はウラヌス号の首に手を伸ばすと、そのたてがみを一房切り取った。


「これがあれば、お前の魂はいつも俺と一緒だ」


 名残惜しむように顔を寄せる愛馬を、西も愛おしむように撫でる。

 オリンピックの夢も騎兵としての誇りも失った西に残されたのは、愛馬との思い出だけだった。

 それを確かめるために、西はウラヌス号へ会いに来たのかもしれない。

 西の人生のなかで真に理解者といえる存在は、きっとこの馬だけだった。

 つまるところ西は、かつて苦楽を共にした盟友に――そしてオリンピックに青春を捧げた自らの人生に別れを告げるために、この場所へやってきたのだろう。


「さよなら、ウラヌス。我が友よ――」


 これが両者にとっての、最期の別れとなった――。

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