思い出の場所ならここにしたい。
ましましま
第1話 明るい髪のひと
太陽が沈みかけて、仕事終わりの会社員たちがスーツ姿で本の前を通り過ぎていく。
夕方になっても、まだ猛暑の続く七月、学校から直接アルバイト先の書店に通っているが、その間の15分ほど自転車をこぐだけでも汗をかく。さらに今日は体育祭の準備で遅くなって、焦ってエスカレーターをかけ上ってきた。クーラーの効いた建物の中を涼しく感じたのは自動扉が開いた瞬間だけで、店の裏で支度しながら、史葉はまだじっとりと汗をかいていた。
「あ、川野さん、今来た?」
準備と言っても、私服にエプロンを付けるだけなので、ここに更衣室というものはない。ただ事務室兼倉庫のような狭い裏部屋の奥にロッカーがあるだけなので、事務室に入ってきた店長と鉢合わせになった。
「あ、はい。ちょっと高校の行事ごとで遅くなっちゃって…、ぎりぎりになってすみません」
「そうなの。まあ、ゆっくり準備してていいよ。今日はまず在庫整理してもらうから。」
「あ、了解です。」
小刻みにぺこぺこ会釈しながら、史葉は店長の顔をそっと思い浮かべた。店長は低身長・小太りで、ボールのような人だ。史葉のような女子高生の心を、なんともくすぐる見た目である。
「相変わらずかわいいおじさんだな…」
「川野さん何か言った?」
「いえ、なんでもないです。」
思わず声に考えが出ていたとわかってはにかんで誤魔化す。後ろ手にエプロンの紐をくくる。
「あ、店長。」
「ん、何?」
机に向かって何やらメモをとる手を止めて、店長が顔を上げる。笑っていなくても笑っているようなたれ目が、史葉を見上げた。
「今日在庫整理結構かかります?」
「うんー、でもまあそんなに…あ、川野さん、レジしたくないから裏にいようとしてるでしょ」
「あー、バレました?えへへ」
「えへへじゃないよ。残念だね、在庫整理は高沢くんと一緒だし、もう彼取り掛かってくれてるから、すぐ終わるよ。」
「がーん。じゃあ私品出しとか…」
「だめだよ、せっかく教えてもらってレジできるんだから。高沢くんが教えてくれたでしょ」
「うーん、でもやっぱレジって喋らないとなんで苦手なんですよね」
「じゃあ喋り方も教えてあげようか!」
噂をすればだ。表の店の方から高沢くんの声が響いた。そしてそこから、高身長黒髪の、爽やかな顔が覗く。高沢くんというのは、史葉にとってバイトの先輩にあたる。決して悪くないルックスとよく通る体育会系らしい声が、若手舞台俳優のような雰囲気を醸し出す、ザ・好青年という感じの大学生だ。
「…いいです。」
史葉はわざと低い声とジト目で返したが、高沢くんはお構いなしに笑いかけた。
「あら、そ?」
「あれ、高沢くん在庫の方終わっちゃった?」
店長が尋ねると、高沢くんは長い指をぱちんと鳴らした。
「もっちろんです!」
「おお~早いね~」
店長が関心した声を出す。
「え、まじすか。え、私レジですか?」
「だよ。まあ、俺に史葉の手伝いなんていらないからね!」
「失礼な、私だって在庫整理とかできますよ。レジが苦手なだけです。」
「まあまあ、仕事ちゃんとしてくれればいいから。」
そこまでにこにこ聞いていた店長の一言で、無駄話は終了だった。
そもそも店長も裏で仕事があったので、出勤してから雑談をしていただけの史葉はちょっと肩身が狭くなった。急いで表へ出る。
「あ、パートの田中さん、そろそろ上がりだから、史葉代わってあげて、レジ。」
「は~い」
出て行きがけ、店長の言葉にゆるい返事を返す。
去年の冬からここの本屋でアルバイトを始めて半年だが、人見知りの史葉は未だにレジに立つのが嫌だった。さびれた商業施設の三階にある本屋だが、ワンフロアまるまる店舗であること、専門書の品揃えが充実していること、何より同じ建物の中にジムやら英会話教室やらができて少し活気を取り戻したせいで、本屋に来る客は少なくなかった。そして何より史葉が嫌なのは、風変わりなおじさんの客が多いことだ。正直専門用語で本について尋ねられてもまだわからないことだらけだし、本に関しては「数学」とか「インターネット」とか、大きなくくりで言ってもらわないと、史葉にはさっぱりだった。さらに史葉が見る限りそういう人たちは時間に追われていて、理解力のない史葉にイラつく様子を露骨に見せるのもしばしばだった。
「あーあ、ずっと暇でいいんですけどね…」
「一人でしゃべってんな。」
「げ、高沢くん、仕事してください…」
この日はレジに立ってぼーっとして、棚整理のために前を通りかかる高沢くんとまた無駄話をするくらいには暇だった。
「史葉今日何もしてなくない?」
「うーん、お客さんはいるんですけどね、誰も買わないんだなあこれが。」
史葉は肩をすくめて言った。
「うーん確かに」
「私、本当に立ってるだけですね」
「史葉、立ってるだけですね」
そして、こういう無駄話をしていると、客がレジへとやって来る。
「あ、失礼しました、レジどうぞ」
後ろに客が来たので、高沢くんが会釈をして去っていく。
高沢くんが退くとそこに見えた人物に、史葉ははっとした。
「あ、どうぞ、お伺いいたします」
「…おねがいします」
消え入りそうな声でそう言いながら、客の女性はカウンターに本を置いた。
淡い色の表紙の文庫本だった。
史葉は一気に心臓の脈を打つ音が大きくなるのを聞きながら、間違えないように慎重にレジを打った。
「ありがとうございました。」
「…どうも」
女性は買った本を受け取ると、おつりを財布に入れながら、エスカレーターに乗って下の階へ降りて行った。
レジの目の前が下りのエスカレーターなので、史葉はその背中を見つめた。
「…またあのひとだ」
背中の壁の時計を振り返ると、時刻は午後9時半を回っていた。
■
「史葉仕事した~?」
「しましたよ、ちゃんと。ちらほらレジです。」
「いつも通りだな!」
「いつも通りっす。」
ロッカーで高沢くんと帰りの準備をしながら、史葉はさっきの女性の背中を思い浮かべていた。今日閉店までいたのは、史葉と高沢くんと店長だった。毎週月曜日は、いつもそうだ。
「だって皆見るだけで買わないじゃないですかー」
「まあ、史葉のいる日はお客さんあんま買ってかないよね。」
「え゛、どういうこと。」
「冗談だよ、月曜はあんま買ってく人いなくない?ってこと!」
「あー、そういう…びっくりさせないでくださいよー」
「ごめんごめん」
「でも私、毎週月曜に決まって見るお客さんいますよ。」
「へえ?どんなおじさん?」
「違います。若い女のひとです、めっちゃ髪色明るいひと、知りませんか?」
「んー、知らんな。うち女のお客さんも一定数いるからね~」
「まあそうですけど…」
「てか、そんなに覚えるほど明るい髪のひといるか?赤髪?」
「いや…、派手髪とは違くて…高沢くんに説明すんの疲れるんでいいです。」
「あはは酷いな。」
そう言いながら、高沢くんは、休憩用のパイプ椅子に腰かけた。
「で?なんで史葉はその人覚えたの?」
「んー…高沢くん、早瀬川寿々って知ってます?」
「ん、誰?アイドル?」
「違いますよ…、品出しのとき見ません?作家さんです、なんかほら、いろいろ賞とってる人なんです」
「ふーん?」
「あのお客さん、毎回買うんですよ、早瀬川寿々の小説。」
「史葉もその作家好きなの」
「え?いえ、私は。」
今日あの人が買った本のタイトルは何だっけ…と、史葉は、あのお客さんの手元を思い浮かべた。白くてきれいな手が、本の表紙をなぞっていた。
「あの人が買うの毎回一緒の作家さんだなあって。それで作家さんの名前覚えたんです。」
「ふーん。話しかけりゃいいじゃん。この人好きなんですかーって。」
「え、やですよ。そんな一店員が話しかけてきたら向こうもびびるでしょ。」
「そ?俺はたまにシフトを聞かれる。」
「それはまた別ですよ。高沢くんのファンのひとでしょ。」
「えー、イケメンは困るねええ。」
「知りません。自分でそう言うこと言う人どうかと思いますけど。」
わざとらしく後頭部を掻きながらくしゃっと笑う高沢くんを横目に、史葉はぴしゃっとロッカーの扉を閉めた。
「わたし帰ります。」
「ん、じゃあ俺も。」
二人で店の裏から出ると、店長がちょうどレジの整理を済ませたところだった。
「おつかれさまでーす」
「お疲れ~」
「お疲れさまでしたー」
ぺこぺこと会釈してすれ違う。店長は高沢くんと史葉を見て、毎週いつもどおり、にやにやと二人を見送る。
「今日も仲良く帰るんだよ~」
「はあ~い」
のんびり返事をする高沢くんに、史葉は頬を膨らませて、歩く足を速めた。
「え、ちょ、史葉どうしたの」
「前から思ってましたけど店長って…」
「ん?」
店長って、私と高沢くんの仲を誤解してますよね。
言いかけてやめた。高沢くんはバイトの先輩で、仕事のできるイケメンで、自分たちが恋人同士に見られていると史葉の方から言い出すのは、なんとなく嫌だった。
「…何かいいました?」
「いや、何か言ったのは史葉でしょ!」
「知りまてん。」
「誤魔化すな~。あ、史葉新作出たの知ってる?飲んで帰ろうよ。」
「いやですよ!帰ります!」
再三バイト終わりに誘われる喫茶店を今週もまた断って、史葉は自転車置き場にずんずん歩いた。
「なんだよ~じゃあ来週行こ~」
電車で帰るはずの高沢くんも、今週もまたいつものように、自転車置き場までついてきた。
バイト終わりの午後10時、昼間のもわっとした熱気を、暗闇が包んでいた。
高沢くんと別れ、史葉は自転車のペダルをぐっと踏み込んだ。こんな季節でも、夜になって自転車に乗っていると、うっすら風を感じて涼しかった。
高沢くんの隣に歩いているときよりよっぽど爽快な気分と頭で、史葉はあの女性客の姿を思い浮べていた。
彼女の髪は、高校生の史葉があまり見たことのない、きれいな明るい色に染まっていた。金髪でもないし、銀でもないし、何色と言っていいのかわからない、不思議で、明度が高くて、目立っていて、とにかく綺麗な色だった。
彼女を毎週見かけると気付いたのは、実はたった一か月ほど前のことだった。彼女がいつからうちの書店に通うようになったのかは知らなかったが、とにかく急に、彼女を認識するようになったのだ。髪色に惹かれたのは確かだったが、彼女の髪色でその存在に気付いたのか、いつも同じ作家の本を買う客だから覚えてしまったのかは、正直記憶が定かではなかった。
思い出の場所ならここにしたい。 ましましま @ababa-runn
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