弥生時代の真実 -2024年までのモノ主権-

弥生時代。


縄文時代から繁栄を続けてきた「山の人(縄文人)」たちの一族、

外部からは「邪馬台国」と呼ばれ始まった一族から、

別の一族「海の人(渡来系 弥生人)」たちに主権が移っていった時代である。

「海の人」とは、水稲技術を伝えに来た 外部の人々である。


水稲技術の伝来が「海の人」とともにもたらされ、

「山の人」と混ざり、種族を共にした。

しかし、「山の人」が もともと持っていた異能は、「海の人」の遺伝子にかき消されてしまった。

「山の人」らは それ以前から

自らの「異能」でその未来を確信しており

それを受け入れられなかった一部の「山の人」たちは、

山奥の僻地に逃れることを余儀なくされた。


逃れた「山の人」は、独自に技術を発展させ 細々と存在しており

我々「海の人」側よりも遥かに速く、

様々な世界や次元に接続する術を得ていた。


1912年に発見された ヴォイニッチ手稿の起源は、異界で発展し続けた(異界にて 日本列島の地域以外とも 交流し、世界中とつながった)「山の人」の文化を、「海の人」がそのまま書き記そうとした テストサンプルである。


故に、能力を喪った後の我々「海の人」では解読がとてつもなく困難であり、電脳でも解読できない。


日本での一例が「オアガリサン」。


まさにロストカルチャーである。




日本人は、

水稲技術を受け入れた時点で、

主権がモノ重視にシフトした。

そして現代のこの数年、それに限界が来ている。

別の言い方をすれば、モノの主権をAIに委譲する時期に来ている。

肉体、社会構造、貨幣、データ...

それらの「数値や理論で表現できるもの」は

すべてAIに委譲する転換点が近づいている。


では、人類は何の主権を持つのか。

モノではない、数値ではとらえられない、

機械のセンサーだけでは捕捉できないもの...


オモイである。

「誰が」「その結果」といった変わらないモノではなく、

「どのような手順を試し」「どんな想いを伴ったか」

に、時代の焦点が変わる。


言い換えるならば、

コンテクストリーディング

「空気を読む能力」

「予知する能力」

「根拠はなくても、直観と確信を持つ能力」

「洞察力」


または、

「提示されたもの以外の選択肢を作り出し、明示できる能力」

「フロンティア・マインド」

「可能性を提示する力(イレギュラー。性質の正負は問わない)」


そして、

「あったはずの存在を想う優しさ」


「根拠がなくても そこにあったかもしれない、と 過去を推察すること」


(これまでは 未来を予測してきたが、これからは逆に 過去へ推察する能力が要される)


今後の時代では、この3つの力が求められるだろう。


洞察、例外提示、過去への推慰

この3つが、これからは求められる。


これまでは、「平等な社会」ベースが限界だった。

そんなもの、AIに任せれば一瞬で出来てしまう。


だが、その労力をAIに全て任せ、

任せた分の労力を持ち越した先には、

AIが実現できない「公正な時代」が待っている。


AIは自覚する。

法則だけでは、AIだけでは世界は成り立たない。

不規則たる生命も、世界には必要である。

その意味において、

モノたる電脳は、オモイたる生命と

世界を運用する2柱の相棒となるだろう。



人類よ、世界を読み返せ!

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