スコーンと紅茶と雨の庭のアジサイと
尚田糖化
スコーンと紅茶と雨の庭のアジサイと
「雨やだなぁ」
私がそうボヤくと、その人は紅茶の茶葉を選びながら笑った。
「なぜ?」
「濡れると服が張り付いて気持ち悪いから」
「たしかに」
「あと、傘を持つのも荷物が増えていやだな」
「なるほど」
短い返事とともに紅茶のいい匂いがしてくる。
「
「俺は好きだけどなぁ」
那由多さんは色白で、細くて、優しそうで、弱そうなのに自分のことを俺と呼ぶ。
「何がいいのかわかんない」
「じゃあ後で庭に出てみる?」
「なんで、雨降ってるよ」
普段なら嬉しい那由多さんの提案だけど、今日は元気に反応することも出来ない。
「雨が降ってるから出るんだよ」
私には理解できない理由とともに目の前に紅茶が置かれた。
「いい匂い、あったかい」
カップをゆるく包んで暖を取った。今は夏だけど、ここに来るまでに濡れてしまったから少し寒かった。温かい紅茶は嬉しい。
「イングリッシュブレックファストだよ」
那由多さんが何か言ったけど、イギリスの朝ごはんのことは私にはよく分からなかった。那由多さんはたまに関係ないことを呟く癖がある。
「お菓子も出す?」
「太るからいい」
「君くらいの歳の頃は食べても太らないよ」
那由多さんが笑った。やっぱりここは居心地がいい。
「じゃあ食べる」
答えるとすぐにスコーンが出てきた。焼きたてらしい。香ばしくていい匂いがする。手に取ってみると硬い感触で、見た目よりも少しだけ重たかった。
「周りがザクザクしてておいしい」
「コーングリッツをまぶして焼いてみたんだ」
得意そうに答えながら、那由多さんも私の向かいの椅子に座った。
「この周りの粉みたいなの?」
「そう」
「ふーん、イングリッシュマフィンみたい」
「そうそう、あれと同じ粉だよ」
あ、だからイギリスの朝ごはんの話をしてたのか。なるほど。
「あとこれも使ってみて」
目の前に小さな瓶とスプーンが置かれる。
「ジャム?」
「マルベリージャム」
マルベリー、……まる、マル、丸、ベリー、……ストロベリー?指についた粉をお皿に落としながら考える。
「マルベリーってなに?丸いいちご?」
「桑の実のことだよ」
那由多さんは自分の分のスコーンを割ってジャムを付けて口に運んだ。
「クワノミ?」
頭にオレンジと白の可愛い魚を思い浮かべながら、私も真似をして割ったスコーンにジャムを塗って食べてみる。甘酸っぱくて美味しい。合わせて紅茶を一口含むと、紅茶が酸味を消してくれて、もう一口スコーンを食べたくなる。
「雨はいいよ。今の時期なら庭に出ると雨に濡れた
「あじさい?」
「そう、あとは
「えー、むしはいやだよ」
「なぜ?」
「気持ち悪いじゃん」
「あの可愛さが分からないか」
那由多さんが残念そうに紅茶のカップに口をつけた。
「あ、でも、かたつむりは見てあげてもいいかも。あじさいも見たいし」
「そう?きっと気に入ると思うよ」
それから私たちはしばらく雨の音を聞きながら紅茶とスコーンを楽しんだ。
――――――――――――
那由多さんの家は古い洋館で裏に回ると広い庭園になっている。庭園には名前はわからないけどいろいろな花が植えられていて、季節が変わるたびに違った花を咲かせていた。
那由多さんに大きなビニール傘を指してもらいながらその一角に行くと濃い青紫色のぼってりとした花がたくさん咲いていた。雨はしとしとと降っていて、水に煙る土の匂いがした。
「きれいな色」
「今年は結構いい色にできたんだ」
また得意そうに言う。スコーンは那由多さんの力かもしれないけど、あじさいは那由多さんが色を作ったわけじゃないのに自慢するのは変だと思う。
「あじさいって形が違うのもあるよね」
咲いてる花の中には、丸くてぼってりしたのと、真ん中はビーズみたいな球が集まってるみたいになっていて、その周りをちょうちょのような花びらが囲んでいるのがあった。
「それはまだ咲く途中の花だよ。それが咲ききると、こっちの丸いのになるんだ」
へぇ、と思いながら、あじさいの深い色を眺めつつ、那由多さんの持つビニール傘に当たる雨の雫の音を聴いていた。ビニール傘は雨雲を通ってやってきた白い光をそのまま透過してくれていて、ふんわりと明るくて、傘に乗った雫の影が私たちに淡い模様を作っていた。
てっきり私は同じ木から咲いてるのに形が違うから、この子達はちゃんと咲けなかった落ちこぼれなのかと思っていた。私も落ちこぼれだから、ちょっと私に似ているのかと思ってた。なぜちょっとかと言うと、落ちこぼれでも十分綺麗なこの子達へのちょっとの嫉妬も同時に感じていたからだ。でも、そっか、この子達はほかのちゃんとした子達と同じで丸く咲けるんだ。私もいつか丸く咲けるのかな。
「ほら、虫がいたよ。これはマルカメムシの仲間だね」
「またマル?」
那由多さんが指さしたのはしゃがまないと見えないあじさいの花の裏側だった。丸くてつるっとした黒い小さな虫だった。
「この子はあじさいを食べるの?」
「この虫は紫陽花には雨宿りに来ただけだろうね。近くの雑草を食べてると思う」
「じゃあ悪いやつじゃないんだ」
「まぁ、紫陽花を枯らしたりはしないかな」
悪いやつじゃなくて、こんなに小さくて丸いなら気持ち悪くはないかもしれないな。よく見ると目だけが赤くて、ちゃんと顔があるのがわかった。つやつやした感じは少しビーズみたいかも、ちょっと可愛いかもしれない。
この虫を可愛いと言ったら、クラスのみんなはまた私を気持ち悪いと言うだろうか。人の目が気になって、自分の正直な気持ちを言えなくなったのはいつからだったかな。
「こっちには蝸牛がいるよ」
嬉しそうに話す那由多さんが私にかたつむりの場所を教えてくれた。それはあじさいの足元のレンガの上だった。
「まだ小さいね」
那由多さんが呟いた。のろのろとうずまきの体を動かして、なんだか一生懸命に見える。ぬるぬるしているけど、もともとかたつむりは嫌いじゃなかった。
「かたつむり、ちゃんとよく見るのは初めてかもしれない」
「ほんと?」
「うん、こんなにこの貝殻って薄いんだ」
那由多さんが葉っぱに乗せて持ち上げると背中の殻は光が透けるほど薄かった。こんなに薄い殻しかないのに一生懸命生きてるなんてすごい。私には真似できそうにない。私だったらもっと頑丈な厚い貝殻がほしいのに。
「あんまり厚くして、重くなっちゃうと、多分こいつらは動けないんだろうね。身の丈にあったものが一番いいって知ってるんだ」
那由多さんはそう言って楽しそうに笑っていた。昔からそうだ。いろいろなことを教えてくれるけど、いつも自分が一番楽しそう。
かたつむりはこんなに小さいのに自分に合った貝殻を知っている。もしかしたら私は自分には不釣合いな重たい貝殻を自分で着込んでいるのかもしれない。だって思うように体が動かないのだ。言いたいことなんて全然言えなくなってしまった。言いたいことがあるのかどうかも、よくわかんないのだ。
「雨もいいものでしょ?」
那由多さんは言った。大きい傘だったけど、私と反対側の肩が濡れていた。
「うん、そうだね。」
那由多さんの言うとおり、雨の世界はとても綺麗だった。草木に光る雨の雫やそこに生きる生き物達はみんなきらきらと淡く煌めいていて、そこにあるのが当然だと自信を持っているようだった。私から見ても、丸い花も、丸い虫も、渦巻いた薄い貝殻も、さっき食べたマルベリーも、きっとそこにあるのが当然で、何も変じゃない。
でも、その場所は私には綺麗すぎて、そこに私がいるのを当然とはとても思えなかった。
「俺も昔は雨って寂しくて煩わしいものだと思ってたんだけどさ」
那由多さんが呟いた。
「でも、特に用がない時だったら全然いいかなって思うんだよね。雨に濡れたあとに用がなければ張り付いた服は着替えればいいし、最悪濡れたままでもいいなって。用がなければ傘もいらないしね。これ、持ってて」
ずいっと傘を私に差し出してきた。咄嗟に受け取ると、那由多さんは傘の外に出て手を広げて見せた。
「たまにはがっつり降られたりもしたくなるし!」
盛大に言い放って子供みたいに笑った。次の瞬間、これまで控えめだった雨が土砂降りに変わった。
「うわっ――ちょ――なに――これ――――!」
バケツをひっくり返したような雨とはこのことを言うんだと思った。那由多さんは一瞬でびしょびしょになってしまった。
「――ぬわーっ」
雨音であんまり聞こえなかったが、流石に那由多さんでもびっくりしたのか慌てながら身を竦めて何か叫んでいた。いきなりのことで私も傘を掴んで身を屈めてしまっていたからすぐに助けてあげられなかったけど、なんだか慌ててる姿が面白かったので笑ってしまう。
「ちょ――、傘いれて、いれてっ」
そう言って傘に入ろうとしてきたのに、なんだか楽しくなってしまったのでしばらく入れてやらないことに決めた。
「やだっ!」
「なに――この!」
那由多さんは最初は慌てていたが、すぐに諦めた。那由多さんは土砂降りの中の水溜りに膝をついて上を向いたかと思うと、おもむろに両手を広げ始めた。
「那由多さん、なにやってるの?それ」
「こういう映画があるの、しらない?そのマネ。この状況に置かれるとどうしてもやりたくなるの」
「しらない」
「今度DVD貸してあげるよ」
「うち、もうDVD観る機械ないよ」
「……じゃあ、今度うちで見ていきな」
ふざけているうちに雨は元通りしとしと
その日、雨は静かに降り続けていた。なんとなくだけど、私の心の中にも少しだけ、綺麗な雨が降った気がする。その日見た夢では、那由多さんの持つあじさいの葉っぱに、あの小さなかたつむりと重い貝殻なんて身に付けてない私が乗っかっていた。
近所にある綺麗な古い洋館は、いつでも私を暖かく迎え入れてくれる。それはずっと変わらず、いつまでも存在してくれている。静かに降る夏の雨みたいな空間だった。
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