Part.6 刃物を人に向けてはいけません
目を覚ますと見知らぬ天井を見つめていた。昨日は布団の存在に感動しすぎて言葉通り全身を布団に包まれて眠りに就いたので天井を見るのは今が初めてなのである。
窓を見ればまだ薄ら仄暗い。しかし朝日は確かに差し込み始めていた。
ベッドから降りて着替えを済ませると下の階から物音が聞こえる。万に一つでもよからぬ客人が来たのであれば早速の大仕事になるわけだが、もし本当にそうなのだとしたら忙しい仕事だなと自嘲気味に笑った。
音を立てないように息を止め、慎重に目的の場所に近づく。するとそこには料理をしているアリシアの姿があった。物音の正体が不審者から発されていたものではない事を確認するとほっと息を吐くことが出来た。
「おはようござい――」
「きゃっ! ……あら、ソテル君もう起きたの? おはよう」
料理に集中していたところを不意に声を掛けられたアリシアは驚き、手に持っていた刃物をこちらに向けてニコニコしている。怖い。
「あ、あのすみません。ソレ、手に持っているソレ……降ろしてもらって……」
両手を挙げて降伏している俺と自分の手元を目線で二度往復し、手に持っている刃物の先が俺に向いている事に気付くと慌てて刃物を調理台に置き一息吐いて謝った。
「驚かせちゃったわね。ごめんなさいね?」
「いえ、俺も突然声かけちゃったから……」
まだ出会ってから日の浅い俺とアリシアはぎこちなく会話をする。
「……そういえばソテル君は嫌いな食べ物とかあるのかな?」
「嫌いな食べ物ですか? うぅん、これと言って特には……あっ」
「なになに? 嫌いな物あった?」
「はい、沼の魚は遠慮したいですね」
沼の魚とは俺が野生児化していた頃に一度だけ食べたことのある魚だ。その魚は店でも売られていて、よく出回っているのだからきっと美味しい魚なのだろうと捕まえてみたところまでは良かった。
いざ焼いてかぶりついてみたところ、非常に生臭く噛めば噛む程生ゴミとも粗大ゴミとも判別のつかない苦しい臭いが溢れ出し、脳だけで無く身体全体が嚥下することを拒絶する程の不味さを誇っていた。
その時は途轍もなく飢餓状態に陥っていたため無理をして飲み込もうとしたのだが、そこで俺の記憶は途切れている。目を覚ました時には既に日は落ちていて俺の周りを猪獅子が取り囲んでいた。
命からがら逃げ切ったが……あの魚だけは二度と口にしたくないと思う程に凄惨な記憶が脳裏にこびりついていた。
「あら、それは困ったわね……」
「何か問題でも?」
「いえね、今日の朝食は沼魚にしようと思ってもう作り終えてしまったのだけれど……仕方が無いわよね。何か用意するから少しだけ時間を頂戴?」
そう言って困った笑顔を浮かべるアリシアに対し申し訳なさを感じずにはいられなかった。まさかあの魚をもう一度食べなければならないのかと思うと身体が自然と震えてしまい"作り終えているのなら僕も同じもので大丈夫ですよ〟なんて口が裂けても言えなかった。
皿を見れば見事に調理された魚料理がある。皮と肉質を見て確かにあの沼魚だと確認すると、食べられないものを思い出して良かったと心の底から安堵した。しかしこの魚を食べるとは俺の舌がおかしいのかアスールライト一家の舌がおかしいのか……まぁ店にも出回っているのだから俺の舌がおかしいのだろうが…………
「そういえばアリシアさんもこの家に住み込みなんですね」
「ん? 旦那様がこの家に暮らしているんだもの、私もこの家に住むわよ」
「そう言うものですか? まぁ僕も今日からこの家で働くことになりましたので今後ともご指導よろしくお願いしますね先輩」
彼女とは仕事仲間になるだろうからコミュニケーションは円滑に図っておいた方が良いだろう。俺はなるべくフレンドリー且つ生意気にならないように軽く笑顔を向けるとアリシアは困ったように笑った。
「あらあら、何か勘違いしているのかな?」
「え?」
「んー……自己紹介するわね? 私はアリシア=ヴァン・アスールライト。旦那様の妻よ? あ、そっか! 旦那様って呼んでいたから勘違いしたのね?」
「…………ほあ?」
思わず変な声が出てしまった。一人でクスクスと笑っているアリシアを見れば落ち着きこそあるものの見目で恐らく歳の方は二十代手前か半ばくらいか……そんなアリシアはブリックスの妻だと言ったがブリックスは初老の男性に見える。と言うよりも恐らく彼は五十代半ばであり、そうなると年の差は三十歳程……いや、おかしい。歳の差以前に彼女達の間にはアリステラがいる。しかもアリステラは今年で十二歳と考えるとアリシアがアリステラを生んだ年齢は途轍もなく幼く……
そう考えるとブリックスは実はとても怪しく危険な変態オヤジなのでは無いかと不安になる。いやそもそも十代前半の少女と四十代半ばの変態オヤジの恋愛など想像も付かないししたくもない。子供がいるという事はその先のことも……
いや、もうこの事について考えるのはやめよう。これ以上関わると知りたくも無い世界を見てしまうかも知れない。俺の雇い主はドが付く程の屑だと解るとなんだか無性に悲しくなってきた。
俺の驚く姿を見て相変わらずクスクスと笑っているアリシア。きっとこれまで大変な目に遭っただろうになんと健気な事だろうか。今だってこうして朝早くに起きて朝食を作っているその直向きな姿に涙を禁じ得ない。
「えっと、何か勘違いしてるわよね?」
「いいんです! 何も言わなくても解ってますから……奥様も大変でしたね」
「あーほらやっぱりなんか勘違いしてる。ちょっと待っててね?」
そういってアリシアは後ろを向くと急に彼女の身体から青白い湯気のようなものが立ち上り始めた。五秒程青白い湯気が包まれた後に振り返るとそこには先程の若い女性とは違って小皺の目立つ綺麗目なマダムの姿があった。
「はい、これが私の本来の姿」
「…………ほあ?」
またも変な声が出る。今この目の前にいるマダムはなんと言っただろうか? これが本来の姿? いやいや人間はそんな変身なんてしませんから! 化粧にしてもここまで変わってしまうともはや魔法である。
いや、と言うよりも化粧を落とすような素振りも見せなかったしそもそも化粧では無いだろう。となると今目の前にいるマダムは俺に幻惑魔法を掛けていた? いつからだ? 初めてアリシアを見たのは昨日の会食の時である。その時すでにアリシアは若々しい姿をしていた。いつから俺は幻惑魔法に掛かっていた?
「一応言っておくけど私は魔法は使えないわよ?」
思考を読まれた!? いやそんなことよりも俺の悩む姿を見て笑うこのマダムは一体どのようにしてあの姿になっていたのだろうか。整形……では無いな。もしそうなら顔が元に戻るのはおかしいし。ならやはり化粧なのか?
うつむき加減で思案していた視線を上に戻すとマダムはまたもや後ろを向いている。すると赤黒い湯気の様なものが立ち上り始めた。先程の時と同じだ。五秒程すると湯気は止まる。こちらを向いた時、そこには最初に見たアリシアの姿があった。
「わかった?」
「いや何も解りませんよ!」
「あらあら。意外と知名度低いのかしら……まっ、細かい事はどうでもいいか! 私もそうだけど旦那様の周りには見た目がおかしな人が多いのよ。ソテル君は学長しか知らないかも知れないけれど他にも貫禄ある七十代にしか見えない三十代の大工の親方とか、どう見ても奴隷孤児にしか見えない程幼い五十代の鍛冶師とか、あと二十代で見た目が止まるように魔法を掛けた魔女もいたわね。確か旦那様が子供の頃から変わってないって言っていたから今何歳なのか解らないけどちょっと怖いわよね」
アリシアは歳の解らない魔女を恐ろしいと言ったが俺的には変幻自在に若いメイドにも家政婦なマダムにもなれる貴女の方がよっぽど怖い……
「ちなみにだけど……あのおばさんが本来の姿って言うのは冗談だから」
「冗談なんかい!」
アリシアは再びクスクスと笑う。それにしてもブリックスの周りには色物な人物ばかり集まっているようだ。ここまで来るともはや何か呪いでも掛かっているのでは無いかとすら思ってしまう。せいぜい言っても五歳若く見えるだとか十歳老けて見えるだとか、そんなものなら簡単に想像が付くし馴染みもある例えだが、実年齢との差が三十歳やら四十歳やら……実は物の怪の類いでしたと言われても納得しかねない。
「あれ、と言う事はもしかして奥様の実際の年齢は――」
「ソテルくーん。さっきは若く見てくれてたみたいだから何も言わなかったけど、女性に歳を聞こうとする時はお世辞でも若く見積もろうとしなくちゃダメよー?」
そう言い放つアリシアの表情は若く見積もれば良いだとかそんなことは言ってなくて、この際だからハッキリ言うが静かに怒りを燃やす表情に臆してしまった。怖すぎる。どのぐらい怖いかと言えば突然発狂しながら俺の私物を全て破壊して精神病棟に送られた軍属時代の同僚と同じくらい怖い。
アリシアの鋭い視線に射竦められた俺は気をつけの姿勢のまま反省の意を表そうと沈痛な面持ちで俯く。するとアリシアは静かに笑い、話し始めた。
「ステラはね、私が十六の頃に産んだのよ?」
という事はアリシアは二十八歳……なのか?
「こら、今なんか失礼な事考えてたでしょ」
「いえ! 決してそんなことありません!」
本当は考えたがまたもや射竦められてしまい正直に答えることなど出来なかった。
「ついでに旦那様と私の歳の差は二十五歳だったかな?」
という事はやはりブリックスは年の若い少女をたぶらかした変態クソ野郎の可能性が拭いきれなくなってくる。話が怪しい方向に進まない事を願おう。
三十代半ばの男と十代半ばの女の結婚自体はよく聞く話だが見た目的な歳の差による先入観のせいかどうにもブリックスが少女趣味のような気がしてならない。
……まぁ昨日の食事の席での和気藹々とした雰囲気と初対面の俺にも砕けて優しく接してくれる人間性は確かなものだと感じられはする。お互い思い合っての恋愛結婚だったことは簡単に想像が付くしそこだけは確かな事実なのだろうが……
「旦那様はね、私が小さかった頃から町の英雄でね。色んな人に助けてもらいながら知識を蓄えて色んな人の為に役立てる人間になるんだと毎日暑苦しいくらい町中に言って回っていたのよ。初めは頭のおかしい人なのかなぁ、なんて思っちゃってた」
クスクスといつもの調子で笑うアリシアは何処かアリステラと同じく少女のようなあどけなさを残した魅力のある顔で笑った。
「それでね、ようやく夢が叶って。旦那様なしではこの町は機能しないなんて言われるようになったらなったで今度は僕が死んだらどうしようか、なんて悩み始めるものだからこの人は真面目だなぁって愛しくなってしまうの。だけどね、少しだけ心配なこともあって、みんなから頼られてしまう人だから仕事が沢山あって大変なのにステラの勉強の予習復習も見てあげているからいつか倒れてしまうんじゃ無いかって心配なの。そんな時にソテル君がうちにやって来てくれたもんだから少しだけ旦那様を楽させてあげられるんじゃないか、なんて期待しちゃってるの。おばさんの勝手な独り言だから応えてくれなくて構わないけれど、もし気に掛けてあげられる余裕があったらあの人の事もお願いします」
そこまでいって深々と頭を下げたアリシアに"嫌です〟だなんて言えるはずも無く、ブレックスの事も多少は気に掛けてなければならないのかと嘆息しながらも自分を救ってくれた恩人なのだから当然だろうとも思った。
「ご期待に添えるかはわかりませんが、精一杯誠心誠意やってみます」
俺の返事にアリシアは顔を上げると優しげな笑顔で「ありがとう」と呟いた。
ブリックスからは娘を、アリシアからは夫を頼まれてしまった。これでアリステラから母をよろしく頼むと言われてしまえば見事な三角形が出来上がる。
やれやれ、これは大変だとか思いながらも嫌や気など一切感じないのはこの家族が温かだからだろう。
俺がいなくなってからのことはどうしようも出来ないが、せめてこの家にいる間は精一杯この家族を守って行こうと心に決めた。
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