Part.4 一家団欒
ここの風呂は驚く程にでかい。大人四人が広々と自由に使っても尚余るだろう。
その広さに一体どれだけの水が無駄に使われているのだろうかと思うと水の料金も馬鹿にならなそうだなと一人思い耽る。しかしブリックスは流石だ。俺が身なりの汚さを気にしていたのを察して先に風呂に入れる気遣いや相手が一体何を思っているかを察する洞察力は役人としても優秀なのであろうと思わされた。……いや、彼自身も俺のことを臭いとは思っていたのだろうが不浄な俺に風呂を貸せる器量は凄い。
数日風呂に入れなかったと言うだけあって軽く身体を擦っただけで驚く程に垢や汚れが出た。入念に肌が赤くすり切れそうな程に身体を洗い、ようやく風呂に浸かった。浴槽から出た後で一応のため、もう一度身体を洗い風呂を出た。
脱衣所には俺が着ていた服は無くなっており、その代わりに主張の激し過ぎない如何にも高価そうなベストと首元に華美な装飾と宝石をあしらったローブ、それに加えて動きやすそうなズボンと『先ほどまで着ていた服は洗っておく。今は僕の下がりを着てくれ』と丁寧に書かれた一枚の紙と共に置かれていた。
下がりを着てくれと言われても……下着は流石に履きたくない。肌着を着ずに服を着るか、人の肌着を着てから服を着るか……とても大きな決断である。
所謂外着のお下がりは古着として服を売っていることもよくあるので抵抗は薄いが肌着となると話は別である。何が大切かと言うと、色々と自分の尊厳や価値観の問題であるが先程まで見ず知らずの仲であった初老の男性が着ていた肌着という点が問題なのだ。いや、他人の肌着だという点が問題なのだ。
あまり言葉にしたくないが、下着の下の字とはつまり下に触れているわけで、他人の下に触れた下着を俺が着て、俺の下にも触れるのかと思うと申し訳ないが抵抗も嫌悪感もある。至って自然な反応だと思うが気にしない人は気にしないだろう。
俺は気にする。
風呂から上がって汗も引き始めた頃にようやく意を決して行動に出た。置かれていた衣服を着て食堂へと戻る途中、鏡を見て小汚く無い自分の姿に安心する。
歩いてきた道を辿って玄関まで戻るとブリックスがソファに腰掛け待っていた。
「あの、衣服の気遣いありがとうございます」
「あぁ、かまわんよ。どうせ僕はもう着れないからね」
そう言って腹を軽く叩くと自嘲気味笑った。
「なんならいくつか君に服を含めた日用品もあげるよ」
「いえ! そこまでして戴くわけには」
「いやいや、もしかしたら君とは長い付き合いになるかも知れないからな」
そう言ってソファから立ち上がるとソテルの二歩前を歩きながら食堂へと向かう。
「まぁあとは個人的な感性の話だが今の君の様な色男に着てもらえるなら服達もデザイナーもきっと喜んでくれるだろうからな」
ブリックスは歯を見せてにかっと笑っている。その屈託無い笑顔に気が緩んだ。
「何から何まで……ありがとうございます」
「これで資格ナシとは言われないな。面接も満点だ」
カラカラと笑うブリックスにソテルは気恥ずかしさを感じた。
「点数までご存じでしたか」
「もちろん。あいつは僕になんでも話すからな。ここだけの話、本当なら点数を上げられないはずだったのだが印象がとても良かったから自分で資格に気付いてもう一度来て欲しくて点数をしっかりとつけたんだそうだよ」
「見た目の印象も大切ですね」
そう言って笑うソテルには汚らしかった浮浪者らしき面影は無い。元々整っていた顔に付いてしまった汚れやくすみは洗い流され元の綺麗な顔になり、少しこけてはいるが健全な人の形を成している。
燃えるようなカーディナルレッドの短髪に色白の肌、そしてブロンザイトの様な茶色がかった橙色の瞳。今のソテルは美男であった。
きっと今なら間違いなく教員試験に合格するだろう。
「これからは身なりにも気をつけるようにします」
「そうしたまえよ。まぁ話はこれくらいにして食事にしようか」
そういって扉を開けた先には一度に十人程が席を共に出来そうな食卓に所狭しと料理が並べられている。部屋の隅にはアリステラとよく似た髪色の美しい女性が神妙な雰囲気を携えた表情でピクリとも動かずにその場で立っている。
アリステラは既に着席して目を閉じて何か祈りを捧げている様子だった。
「アリシア、座りなさい」
「はい、旦那様」
ブリックスにアリシアと呼ばれた女性はブリックスの対面側を歩く。しかし対面は避けて一つずれた席に腰掛ける。
「ソテル君も好きなところに腰掛けなさい」
「は、はい」
先程の気さくな態度とは打って変わって荘厳で厳格そうな雰囲気を作り上げた彼にソテルは息を呑んだ。娘にしても貴族教育課程を二年飛び級する程の才女だ、恐らくこの家の本来の姿はこうした厳格な貴族なのだろう。
着席を促された手前、席に着かずにジッと立っているのも失礼だろうと必死に会食での上座と下座の関係を思い出そうと必死に頭を巡らせる。
張り詰める緊張の中、固くなりながら席に着くとブリックスの合図で食事が始まった。食事は静寂に包まれていた。と言うより誰も何も言葉を発しない。ソテルの経験してきた食事とはガヤガヤとうるさいものばかりで、上司との会食の時でさえお互いのおべっかや本音を語り合うなど多少の会話はあった。
しかしこんなにも静かな食事もあるのだなと思っているとカチャリ、と食器の鳴る音がした。その瞬間アリシアは申し訳なさそうにブリックスを見やり「申し訳ありませんと」言った。その様子を見て、ただでさえ緊張で味がわからなかった料理が更に味を失った。あまりの緊張に食事処では無いとオロオロし始めた頃に異変が起こった。アリステラが俯いて震えている。
「ステラ、どうかしたか?」
「いえ、申し訳ありません」
娘にすら厳しいその態度に更なる戦慄を覚える。もし食器をならしてしまったらと思うと手が震えて「カチャ」と音を鳴らしてしまうのではないだろうか。……ん?今、音が鳴った……?
「…………………………」
ブリックスはジッと黙ってこちらを見ている。俺はその射貫くような視線が恐ろしく思えてどうにかご機嫌を取ろうとニヘラと笑うとアリステラが更に震えだした。
(え、何? アリステラは何をそんなに怯えているの? 俺これからそんな恐ろしいことされるの? え? え? やだ、凄く怖い)
まるで乙女のように怯えてしまうとアリステラが急に吹き出した。
「もうだめ! ごめんなさいお父様! あっはっは!」
「ごめんなさい旦那様、私もギブアップです!」
そう言って女性二人は笑い出した。アリステラに至っては品悪く足をバタバタとさせている。
「え? ……え?」
俺を射貫かんばかりに見つめるブリックスと状況が飲み込めず固まる俺。先に体制を崩したのはブリックスだった。
「いやぁ、すまんね! ちょっとしたサプライズだよ!」
そう言ってブリックスは食事が始まる前まで抱いていた柔らかな表情を取り戻して食事を再開していた。呆気に取られていた俺は状況を把握しきれずに固まっている。
「いやぁ本当に済まなかった。二人もありがとうな」
「いえいえ」
三人は和やかに会話をしながら食事を再開している。
「どうしたのソテル君? ほら、冷めないうちに食べて?」
そう言ってアリシアは小首をかしげながら食事を促す。どうしたもこうしたもない。一体先ほどの静寂は何だったのだろうか。ようやく我に返った俺は状況を説明してもらおうとブリックスを見る。
「あの、どういうことですか?」
「ん? あぁ、これは失礼したね。もしかしたら僕達家族を貴族かなんかかと思っているかも知れないと思ってね。ちょっとばかり悪戯してしまったよ。済まんね?」
「いやそれについては特には……あの、貴族だと思われたくない理由でも?」
「あぁ、そっちか。まぁ僕自身は元々奴隷に近くてね。若い頃はその関係でオディロンの労働力として買われていたんだよ」
ブリックスの何気ない言葉に返す言葉を失う。
「奴隷の身分から脱して故郷であるエンデルに戻った時にはそれは酷い状態でね、必死に勉強と肉体労働をし続けて今のエンデルを作りあげて今に至る。そのエンデルの為に身を粉にして頑張ったことを讃えてこの屋敷をもらったというわけだ」
「なるほど」
「そんなわけだから僕には莫大な財産がある訳でもないしお給料も収入も特別高かったりするわけじゃ無い。だから僕は貴族なんて名のれる程の者ではないし、気構えて欲しくも無い。だからあえてこうして悪戯をしてみたんだけど……気を悪くしたなら済まないね」
「いえそんな! 確かに驚きはしましたけど、俺は別に気にしてませんので」
「そうかい? それならよかったよ」
そう言って笑うとブリックスは食事の手を止めて俺に向き直った。
「改めて、ようこそ我が家へ。僕はブリックス。このエンデルの町長、ブリックス=ヴァン・アスールライトだ。よろしく、ソテル君」
自身がこの町の町長だというこの告白も俺を驚かそうとしていたのか、何か反応を期待した様子でこちらを見ている。しかし何も驚かない俺を見るなりつまらなそうに溜め息を吐いた。
「そんな気がしていました。町の役人で学長の友人で屋敷や調度品を戴く程に住民からの信頼の厚い人物……貴方はきっとここ数年でエンデルを変えたと言われる英雄譚の町長ですよね」
「何だ気付いていたのか。少し残念だな」
俺がまだオディロンにいた頃にエンデルから人を引き抜く算段を軍部が考えているという噂話を聞いたことがある。
その人物はエンデルの名物町長で稀代の政治家であり実業家だと聞く。先代、先々代の町長は貴族や大国に媚びを売るため町人を奴隷として売りつけて町の経済を維持していたらしいが当代に替わってからは奴隷として売られる町人など一人もおらず町人の殆どが算術の行える商人となったらしい。
子供達を将来有望な人間にするために教育機関の設立に力を入れており成功もしている。エンデルに住む人間の殆どが幸せに暮らせているのはこの町長の功績が大きく、その人物は街の住人から厚く信頼されている大変な人格者で、夢見人のように理想を掲げ続け大馬鹿者だと思われながらも実現して見せたその背中に夢を感じる町人は少なくなく、明日への希望持って日々を暮らすことが出来ている。
もはや聖人とも言えるその姿は弱きを助け、人の本質を見抜き、人情に厚く、朗らかである。そうして生まれた信頼関係が現在のエンデルの産業を生み一代で大きく町を変えさせた。
また、エンデル革命軍のリーダーであり、先代の忌まわしき町長を討ち、町が変わる切っ掛けを自ら作り上げた行動力のある力ある人でもある。
自分の聞いた話を諳んじるとブリックスは照れくさそうにしながらも胸を張った。
今にして思えば学校試験の面接官が言っていたのはブリックスのことなのだろう。
すぐ近くにいる変革者の姿にある意味で尊敬の念が潰えない。
「そうとも、僕がその英雄譚に出てくる元エンデル革命軍のリーダーだ。……しかし、その話には大きな嘘が混じっているな。僕は先代の町長を殺してなんかいないし今でもこの町で働いているよ」
「そうなのですか? しかし、それでは先代と町人ではどのように折り合いを?」
「うぅむ……そもそもの話だが、彼は嬉々として奴隷を売っていたわけでは無くてな。どちらかと言うと僕と同じくどうにかして町を変えようと思っていたようだが、可哀想なことに突然町長の座を押しつけられたものだから経済政策も何も出来ないまま玉座に座らされてしまい采配を振らされていたんだよ」
ブリックスはその後も話を続けた。
聞けば噂話に出てくる先代町長とは先々代町長の実子に当たる人物なんだそうな。
先々代の町長は息子を甘やかし、自身も甘い蜜を啜るために嬉々として町人に犠牲を強いてきたらしい。ブリックス本人もその被害者であり、今でこそ許しているものの当時は大層憎んでいたそうだ。
そんな先々代の町長は突如として息子に町長の座を明け渡すと彼は町の為に必死になった。しかし甘やかされて育った彼に何かを成す事は出来ず、町の維持のために泣く泣く親の真似をせざるを得ない状況になってしまったのだという。
「僕はね、彼と大変仲が良かった。切っ掛けは些細なことだったが親友だと思っている。そんな彼を助けたくて僕も彼と一緒に頑張って町を立て直そうとした。まずは彼に経営のノウハウを学ばせようと必死に色んな事を教え込んだが……その後遺症というか負荷というか、可哀想なことにその詰め込み教育の影響だと思うんだが見た目が少しばかり老いて見えるようになってしまってね……僕よりも若いのに可哀想に」
ブリックスよりも若く見た目が老いてしまった人物。その人物像を聞いて一人だけ思い当たる人物がいることに気がついた。
「もしかして、学長が前任の町長……なんですか?」
噂に聞き及んでいた人物とはかけ離れたイメージの学長が渦中のその人だとは俄に信じられない。しかしブリックスの方を見ると静かに首を縦に振っていた。
「まぁなに、人間何があるか解らないからな。英雄譚のようにして語られているのも他の国々に観光要素として使えるんじゃないかと言うあいつの提案でな、実際には革命軍はおろかそれらしい集団すら存在しなかったよ」
「なるほど、学長はブリックス氏から学んだ事を早速実践したわけですね」
ブリックスはただ微笑みを浮かべて姿勢を直した。
「さて、話を戻すよ。君に依頼したい事があると言ったのは覚えているね?」
「はい。勉学に於いては役立てる自信もありますので雑用でも秘書でも何なりと」
「では聞くが……君は戦闘は得意かね?」
ブリックスの問いかけを直ぐに理解した。エンデルを初めとする自衛手段を持たない国や町は金を払うことで一時的な契約によって自衛力を賄うことがある。所謂傭兵と呼ばれる者達を雇うわけだが、素性の知れない彼らにはあまり良い噂を聞かない為町長として困っていたのだろう。そこで帝国出身の俺の話を聞いて扱いやすそうな傭兵を手にしたいと言った所だろうか。考えるよりも確かめた方が早い。
「傭兵、と言う事でしょうか? それとも自警団へのスカウトですか?」
「いや違うよ。そんな血生臭い現場に君のような青年を向かわせるわけにいかない」
「それでは一体何故戦闘など――」
「ソテル君、君は戦闘は得意かね?」
聞き直すことを許さない様に言葉を重ねられ正直に答えるほか無くなる。
「……はい。率直に言えば得意です。実力は如何ほどか解りませんが軍学校卒業時点では戦闘試験を次席で卒業しました。加えて軍属時に実戦経験も積んでいます」
「対魔物征伐と言う事で良いのかね?」
「はい。概ね魔物征伐戦に参加させてもらっていましたので。軍属時の対人剣技演習戦でのスコアレートも高かったと記憶しています」
「それは頼もしいな。して……形式は?」
「ディロムとゼムを、専らゼムを使っていましたが卒業時で両型次席でした」
俺は剣術を二流派使える。まずはオディロンで使われる基本の型であるディロム剣術。そしてもう一つが力の無いものが使うゼム剣術。どちらも次席だがこれには訳があった。言い訳しても次席は次席だ。主席になれなかったのは本当に悔しかった。
「一応聞いておこう。君の卒業時の年齢は何歳かね?」
「十三歳です。それから先程の型に加えて我流剣術が使えます」
「やはり君が噂の超新星だったか。これは僥倖だな。剣以外では何が使えるかね?」
「槍術と拳闘術を少々、両方とも基礎型ですが……それから魔法が使えます」
「ふぅむ」
一通り質問を終えたのかブリックスは顎に手を当て考え事を始めた。逡巡して開口、どうやら俺の当面の問題は解決できそうだ。
「では早速依頼をしてもいいかな?」
依頼という言葉にブリックスの眼鏡に適ったのだと喜ぶと意気揚々と答える。
「はい! 是非お願いします」
「まぁここで話すのもなんだ、今は食事を楽しもう。残りのことは後で話すよ」
そう言ってブリックスは再び食事に戻る。いつの間にかアリシアはアリステラの隣に移動していて何か話をしていた。ブリックスもその輪に加わり三人が雑談しているのを見て和やかな雰囲気に包まれていると、いつの間にかその話の輪の中に自分も加わっていて歓談の時は瞬く間に過ぎていった。
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