どうでもいい日々

寺尾小針

1 理解


 コーヒーをまだ飲めない田辺さんは質問した。

「ボーイミーツガールがあるのにガールミーツボーイがないのはジェンダーじゃないですか」

 ひとに何かを伝え、感じとることの難しさはよくわかってきていた。そんなたいそうなことをするためには、相手の考えていることをちゃんと理解していなくてはならないのだ。

 中学生の発想は度し難い。自分にそんな時期があったとは思えないくらいには。厄介なのは「そんなことどうでもいいじゃないか」といってはいけないということだ。

 どうしてそう考えるのかときくと、少女漫画を読んでいても、少年漫画を読んでいても、男が女に恋をする。これが普通で、気に入らないらしい。

 僕は異を唱えた。少年漫画ならされど、少女漫画は乙女の恋愛をえがくものなのでなくて? 

 僕の家族構成にやや問題があったせいもあるけれど、少女漫画に関してはそこらへんの中学生より読んできている自信はあったし、経験もそこそこあった。

 しかし、田辺さんは、漫画の世界で先攻を取るのはいつも男なのだ、という。

 少し面白そうだったのでコーヒーをおごるといって誘い、もっと話を聞くことにした。田辺さんはコーヒーを飲めなかったので、ロイヤルミルクティーを飲んだ。喫茶店の中、大学生と中学生が向かい合って座っていて違和感を覚えない方が難しい。(最近はとくに。)しかし、背の低い僕と居れば、彼女の若干の大人っぽさもあわさって高校生のカップルくらいに見えたろう。

 話を聞くに、彼女は、創作物にリアリティーを求めすぎているようだった。

漫画の中で男の子に恋し男の子に恋される存在は、往々にしてメインキャラクターだけれども、現実にいわゆる恋愛においてそんなことは起こらない。恋愛感情は簡単に顕在化するけれども、そんなことも起こらない。

 彼女の分析はとりあえず認めておいて――認めなかったらで長い話が始まりそうだった――僕はちょっとした授業を始める。科目は理科、あるいはホケンだった。

 オスとメスの定義は何かということである。それは生殖細胞の大小によってなされる。生殖細胞が大きい方がメスで、小さい方がオス。

 さとい田辺さんにしてもこれは知らなかったらしい。僕は得意になる。

「でも、私の話とぜんぜん関係ないじゃないですか」と彼女はいった。

 間違いない。

「じゃあ君は何が知りたいの?」と訊く。こういう場合、話を聞いてもらいたいだけなのであって、別に知りたいことなど何一つないのである。「田辺さんの言わんとしているところは大体正しいと思うけど」

 田辺さんは黙ってしまう。黙るというよりは、言葉のとりとめが失われて、意味のないことを並び立てるといったほうが合っているかもしれない。

 とても長い時間、僕は聞きつづけた。そして、結論として彼女が持ち出してきたのが、

「男の人のこと嫌いなんだと思います。私。」

「へえ、そうなんだ。」

「先生はどう思いますか?」

「何が?」

「私が、男の人が嫌いなことについて」

「……。そういうこともあるでしょう」

 田辺さんには父親がいないのだった。そのせいで自分が男嫌いになったのだと彼女は分析した。頭のいい女の子は何かと分析しがちだ。分析することがいいことだと思い込んでいる節さえある。

ものは試しに、僕は欺瞞した。

「じゃあ先生が女嫌いなのは母親がいないからなのかもね。」

 すると「そうなんですか。いっしょですね。」と嬉しそうになる。

 女嫌いと男嫌いが一緒であるはずがないし、そもそもあの発言は偽りである。僕には母親がいるし、女好きでさえある。

 瞬間的にあまりに幼く感じられた中学生は、ご機嫌になって、丁寧に頭を下げる。

「今日は楽しかったです。ありがとうございました。先生。」

 帰り道、彼女を駅まで送りながら思ったのだけれど、田辺さんは今後たいへん苦労の多い人生をやっていくことになるだろう、彼女には是非とも志望校に受かってもらいたい。

 しかし。

 田辺さんは志望校に落ちた。そのかわり滑り止めしていた私立高校に進学した。入試当日の朝に腹痛を訴えて一日寝込んだのだった。しかし翌朝にはすっかり元気になっていて、表情はむしろ清々したようだった。彼女の母親が塾まで来て頭を下げていた。

 ひとつ気がかりなのが、その私立高校が僕の家の近くにあるということだった。いつ道端ですれ違うことになってもおかしくはない。

 本当はこんなこと言いたくないけれど、僕はコーヒーが飲めないひとの気持ちが、生のキャベツにパスタソースをかけて食べるひとのそれと同じくらいしか理解できない。そういう意味で、コーヒーを飲めないひとに僕が何かを伝えることなんてできないし、感じとることもできない。

 コーヒーを飲むと、お腹を壊すんです、と彼女はいっていた。

 これも理解できない。

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