夜明けの黄金銃

げんさい

第1話 ある酒場から

1.

 下卑た笑い声と罵声の中で、瞬間、鋭い発砲音とグラスが割れて飛び散る音とが響く。直後、観客からは歓声が、賭けに負けた人間からは諦め混じりのため息が、反対に勝った人間からは雄叫びが、それぞれまた一斉に湧き出た。ならず者どもが集まる街はずれの酒場。まだ太陽も高いというのに大の男どもが集まって、下らないゲームに熱狂していた。

 近頃この辺りで流行している早撃ちゲームである。使用する道具は拳銃一丁、大きさの違ういくつかのグラスと度数の高いアルコール。魔法の使用は禁止されている。参加者はまずグラス一杯の酒を飲む、飲み干すと同時に後ろ手にグラスを投げる。グラスが床に落ちる前に銃で撃てれば成功である。二回目以降はだんだんグラスが小さくなるのが慣例で、弾を外すまで酒とグラスと銃弾を無駄にして遊ぶ、下らない流行であった。

 参加人数は決まりがない。一人だったら射撃を外すか本人が辞退するまで、二人以上なら最後の一人になるまで勝負する。いずれにしても勝てば自分がはじめに賭けた金に応じた賞金が手に入るので、金に困った馬鹿者も安易に参加する。その場にいた他の客は観客になってもいいし、ゲームの結末を予想して賭けを楽しんでもいい。無視して自分の酒を飲んでいてもいいが、ゲームが始まるととにかく騒がしくなるのであまりおすすめはしない。

 欲しかったものが金にせよ、名誉にせよ、あるいは、その両方であるにせよ、負ければ何も無くなるゲームである。敗者はみじめだが、負けるのが悪いのだから誰も憐れむものはない。そう、憐れむ他者はない、が、逆恨みする当事者はある。


「こんなことがあるか!イカサマだろう!詐欺だろう!」


突然に、汚く口髭を生やした敗者がカウンターを叩いて喚き立てた。髪もマントも埃にまみれ、酒と煙草と火薬と土の臭いをまき散らす、どこから見ても旅人であった。それも、路銀に困窮し、たまたま見つけた酒場でなけなしの金をかき集めて起死回生をはかり博打に出るという、投げやりで考えなしの愚かな旅人であった。


「俺は、はるか西、暗闇の森を抜けてここまで生き抜いてきた冒険者だぞ!北はゲ・ト・シュツィオの先、魔獣どもの海から、南はラーメの大火山まで旅をして来た男だ!あの"切り裂き・・・・デルーガ"も、この俺が突き出した!!」


観客を味方につけんと思ってか、派手な身振り手振りを加えて語る旅人に、ひとりの客が迂闊にこたえた。この客は先ほどのゲームで、旅人が勝つ方に賭けていた中年男である。一度は諦めた金であったが、もしもイカサマならば返ってくるかと思って、急に惜しくなったのであろう。


「切り裂きデルーガと言ったら、あの高額賞金首じゃないか!」

「おお、知っているか!」


得たりとばかりに中年の男に歩み寄る口髭の旅人は、胡散臭い笑顔を顔に貼り付けた。この中年男が、本当に口髭の言うことを信じているかはともかくとして、口髭が出した賞金首の名が少なからず人々の好奇心を刺激したのは事実である。"切り裂きデルーガ"――この凶悪犯の名は、凄惨な事件のあらましとともによく知られていた。

 元々腕利きの狩人であったデルーガという男は、西方の小さな田舎町の狩人であった。平和で長閑な村であったが、ある時期より付近の森に魔獣が出現するようになり、村人を悩ませた。小型の、猪によく似た魔獣であったが、小さいながらに魔獣の皮膚に並の人間の武器では歯が立たず、家畜や畑を荒らされた住民たちは困り果て、それを見かねたデルーガは、生来の魔力を修練により鉄の刃を生み出す魔法に変えて、その刃によって件の魔獣討伐に成功した。魔獣としては小物であっても退治の成功報酬は破格であった。しかも難敵に挑む高揚感たるや、当然、そこらの獣が及ぶべくもない。それからデルーガはすっかり他の獲物を狩るのをやめ、魔獣ばかりを求めるようになる。

 彼の心を満たす魔獣の出現は稀であった。しかし獣は出る。村一番の狩人であったデルーガが獣を放置したために、魔獣被害はおさまったが、獣害は増え、肉も革も不足した。はじめは魔獣討伐を賛美しデルーガに感謝していた住民たちから、退屈で実入りも少ない獣狩り・・・・・・・・・・・・・を要求されるようになり、その頃まったく増長していたデルーガは憤った。

 「魔獣の一匹二匹で得意になっちゃって」。ある時、そんなことを呟いた女がいた。その辺りでは評判の美人であったが、気が強くわがままな女で、この不用意な一言が破滅を導いた。女の声を聞いた時、不意に、デルーガの心が波立った。何故かはわからないが、猛烈に、この女の冷え切った蔑みの目を自分のものにしたくなった。

 デルーガは、欲望のままに女を斬った。魔獣を討った魔法である。女は恐怖の顔で死んだ。それがデルーガの心をとらえた。

 それからデルーガは、より背徳的で、より緊張感を伴う刺激を求めて、町の女を襲うようになった。決まって美人であった。ある時などは妊婦を殺害し、その腹を切り裂き、取り出した赤ん坊をも切り刻むほどの悪行をやってのけた。騒ぎに気付いた家の者も、駆け付けた役人も、すべて自慢の刃で喉や腹を切り裂いて逃亡し、そうして、その首に高額の賞金がかけられたという。


「奴は、魔獣の邪気に当てられ、正気を失い、そしてあの事件は起きたのだ……」


口髭の旅人は、人々を脅かすように語った。己を誇示するための物語は、凶悪犯の罪業を強調することで更なる成功を呼ぶものと信じたのであろう、過剰に芝居がかっていた。己の下手な芝居に陶酔した様子の口髭の旅人は、賞金首デルーガに憐憫の情を抱いているかの表情を見せた。あの男も元は善良な男であったのだと。しかし魔獣のためにああなってしまったのだと。自分は哀れにも狂ってしまった・・・・・・・・・・・男に引導を渡してやるために彼を捕らえたのだと。そう、それは正義の行いであり、断じて賞金目当ての私欲のための行動ではない、自分は清廉潔白の勇士なのだ、と、埃まみれの髭男はそんなようなことを言いたいらしい。 

 客の中には、口髭の旅人の話に聞き入る者もないではなかった。"切り裂き"デルーガの名を出したのは確かに効果があったのだ。こうして話を聞いてみれば、使い込まれた腰の拳銃も、汚れたマントも、穴のあいたテンガロンハットも、節くれだった手指も、すべてが強者の装備品に見えてくる。実際、そういう男だと見えたから、口髭の旅人の勝利に幾らか賭けた人間もいたのである。それほど熱心に話を聞いてはいなかった者たちすらが、いつの間にか、なるほど、こんな奴に負けるだろうか、という疑問を抱くようになっていた。

 彼らの視線は、自然、ゲームの勝者たる者に集まった。その機を口髭は逃さない。旅の垢にまみれた汚い指が、今はその垢もまるで勲章のように誇らしげに、相手を指さした。


「この男は!卑怯にも、神聖なる男同士の勝負に魔法を使ったのに相違ない!」


客の中にはあからさまに眉をしかめた者もいたが、無論旅人の目には入らなかった。酒場の早撃ちゲームは、純粋に銃の腕を競うためのものであり、酒の強さを試すためのものであり、度胸を誇るためのものである。このゲームで魔法を使うのは違反行為であり、恥ずべき卑怯者の行為だと、わかりきっていることを大騒ぎして旅人は責めた。

 "卑怯なる勝者"は、旅人の話にも同調する声にもこたえず、ぼんやりしている。口髭の自慢話は聞き流して放置していたのだが、さすがに旅塵まみれの罵声に指をさされて煩わしく思ったらしい。彼はカウンターに座ったまま、目線だけを上げて相手を見つめた。その瞳は黄味がかった緑色で、ヘーゼルグリーンとでも称すべきであろうか。新緑のきらめきを宿した瞳は驚く程に澄んでいる。まるで、少年のそれであった。

 瞳だけではない。このヘーゼルグリーンの瞳の持ち主は、カウンターに座っていてもそれとわかる小柄な体躯といい、その体に似合いの顎の小さな顔つきといい、口髭の旅人に比べてあまりに華奢であった。金褐色の髪はゆるやかな癖があり、いたずらっぽい雰囲気を作り上げている。カウンターに置かれた山高帽も、腰の回転式拳銃リボルバーも、本当に彼の持ち物なのか疑わしい程であった。それでも手指の骨ばった感じは、男らしいとは言えないまでも大人のそれであり、年頃はどう見ても十代の、せいぜいが二十代前半であろう。なるほど、外見だけを見比べれば、この青年が勝つとは万に一つも思えない。

 だから、旅人は勝負を持ち掛けたのである。店内を見回して、場所に似合わぬ青二才が座っているのを発見し、からかってやろうと思ったのであった。ついでに淋しい懐をあっためてやろうと卑小な頭で考えた。案の定、多くの観客が旅人の勝利に賭けて、これでは賭けが成立しないのではないかとニンマリするほどであったのだ。

 ところが、万に一つも勝てる見込みがないような青年の方に金を賭けた者も決して少なくはなかった。

 彼らは知っていたのである。この、一見するとまだ酒の味も知らない子どものような青年が、凄腕のガンマンだということを、知っていた。この青年は少し前からこの土地に住んでいる。自分ひとりで早撃ちを披露したりはしなかったが、売られた喧嘩は買う性質で、今度のようにプライドばかり先行した旅人がこの青年にゲームを持ち掛け、返り討ちにあうこともしばしばであった。この青年は、住人たちにとっては親しい"金の生る木"なのである。そう考えると、一番の卑怯者は客の住人たちの方かもしれない。

 無論、そんなことを口髭の旅人は知らない。こんな子どもが魔法もイカサマもなしに自分に勝てるわけがない、なのに、何を落ち着き払っているのだ、という顔をして青年を睨みつけている。

 旅人は、平気な顔で黙したままの青年に汚れた髭を震わせた。自分を見上げるヘーゼルグリーンの瞳が、無機質な宝石のように見える。こんな女のような顔をしたチビが、俺をなめやがって!そういう気持ちが、イライラと男のプライドを刺激しているらしかった。

 いや、イライラしていると思っているのは男だけかもしれない。この時点では自覚できていなかったが、実は男は恐怖していたのであった。青年の視線に、つい先刻の早撃ちで砕けたグラスの音が耳によみがえるようである。大仰に喚きたて、不正(と、この男は信じていた)を暴こうとしてはみたが、この小柄な男の早撃ちは確かに恐怖すべきものであった。ゲームでは客や店主にバレないように魔法を使ったのに違いないが、このまま撃ち合いになって相手が本気の魔法を使いでもしたら、あるいは……そんな恐れが、ヘーゼルグリーンの瞳に反射して渦巻くようであった。

 しかし、己が怯えている、それを易々と受け入れられる程、旅人の度量は大きくはなかった。心の動揺を相手に、いや、己自身にすら悟らせまいと必死に威張っているつもりだが、ヘーゼルグリーンの瞳はまったく無感動に口髭を見上げてくるのである。澄み切った瞳にすべて見透かされているようで、男はまた髭をブルブル震わせた。

 旅人には無感動で無機質に見えるヘーゼルグリーンの瞳の奥で、青年は呆れかえっていた。まったく、この不釣り合いのプライドだけで居丈高に人生を過ごしてきたのだろう中年男が、旅塵に汚れ切った顔に恥辱と怒りと恐怖の絵具を塗り足して、己の敗北を受け入れられずに喚き散らしているのは醜いことこの上がなかった。

 これ以上、耳障りな侮辱を投げられるのも業腹である。青年は冷たく相手を見上げていた視線をカウンターの上に戻すと、大儀そうに吐息して、緩慢な動作で立ち上がった。山高帽に手を伸ばし、髪を撫でつけながら丁寧にかぶると、奇妙なほどに似合う。それを見た一部の女からそっとため息が漏れた。

 青年は帽子の下から日に焼けた旅人の顔を窺い見た。再び向けられたヘーゼルグリーンの瞳の、今度は強気な眼光に、つい、口髭の旅人が身構える。


「まだ、何か?」


その声は、やはり少年のような掠れたアルトであった。一切の気負いのない気軽な調子だが、余裕と自信に満ちている。相手がホルスターに収めた銃に既に手をかけているのを見ないふりで、青年は薄く笑った。

 青年の一挙手一投足が、旅人の恐怖を加速させた。夜の冷たい風が隙間から首筋を撫でたときのように背筋が震え、旅人は覚えず、右手で銃を引き抜いた。店内に銃声が響く。

 一瞬後、恐怖の顔のまま、旅人は膝をつき、やがて前のめりに倒れた。その頃には青年は、既に旅人の眉間を撃ちぬいた自分の銃をホルスターに戻していた。あまりの早業に観客は息をのんで黙っている。青年はゆっくりと相手に歩み寄り、薄汚れた右手から銃を奪い取ってカウンターに置いた。


「はい、親父さん」


店主は落ち着いた様子で旅人の銃を取ると、前後左右から眺め、眉を寄せた。


「これは……」


店主の様子に、他の客も集まってきて、口髭の旅人の銃を眺めるが、異常は見つけられない。


「おい、どうしたんだ。その銃、どっかおかしいのかい」

「そんなのどこにでもあるリボルバーじゃないか」


口々にそんなことを言った。その声をまったく無視して、店主が銃を分解する。青年もカウンターに片肘をついて、ニヤニヤとその様子を眺めていた。


「なんという恥知らずめ!」


店主は呆れ顔で死体を一瞥し、唾でも吐き掛けそうな表情で呟いた。不思議そうにしている客に向かって、手元の銃の撃鉄付近を示す。


「魔法を使わん者にはわかりづらいだろうが、ここに魔力補助がかかっている。この銃と弾が本来持つ性能よりも速く、威力ある射撃にするためだ」

「つまり、自分がイカサマじゃねぇか!しかもイカサマを金で買ってたわけかよ!」


客のひとりが軽蔑しきった声で叫んだ。己の能力でイカサマをしたならともかく、そこらの店で売っている魔法武器を買っただけで得意になっていたのだと判明したのだから、無理もない。しかもそれで負けて、更に相手こそイカサマだと喚きたてるとは、人間として最低だとあちこちから罵声が飛んだ。

  魔法世界である。だが、誰もが有用な能力を持つわけではない。生きるために、魔法道具を買うことも、それを使うことも恥ではない。だが、だからこそ、魔法禁止のゲームというのが一方で盛り上がるのだ。それはこの汚れた旅人も知っていたはずである。


「金に困っているなら、まずこっちを売ればそれなりになったろうに」


呆れ顔でそう言う者もあった。余程困窮していて、こんなやけっぱちの卑怯をしてしまったのだと憐れむようでもあった。総じて、何らかの魔力補助のついた魔法武器は値が張りやすい。通常よりも威力に優れ、時には持ち主の生来の魔力では御しきれない魔法の使用を可能にするなど利点は多いが、多い分の値段になるのである。この銃はそこまで強力な魔法がかかっているでもないが、それでも宿代と食事代ぐらいにはなったろう。


「デルーガの話も嘘じゃないか」

「今度新聞屋にきいてみようや。あの"切り裂き"の手配書は、まだ載ってますかって」


口々に罵る声が聞こえる中、あらぬ疑いが晴れて満足した青年は悠々と賞金をポケットにねじ込んで、それからふと思い立ったように、それをまた引っ張り出してカウンターに戻した。


「あいつが銃を抜いたのが悪いんだけど……」

「構わん。持っていけ。ここの床はどうせ、ならず者の血だらけだ」

「死体はどうする。葬儀屋だって仕事だぜ」


ここはロクデナシの町である。毎日どこかでこんな喧嘩があるし、迂闊に森に入って魔獣にやられる例もある。この町で食うに困ったら葬儀屋になればいい、そんな冗談を言うやつもいた。ここはそういう町であった。死体の扱いも雑である。いちいちこんな旅人の縁者を探したりはしないし、とは言え放置もできないから、こういうときはさっさと業者に頼んで墓地に葬ってもらうのが一番だ。

 流れ者の多いこの町で、人がひとりふたり死んだところで世の中に大きな影響もないし、この町の治安がこれ以上悪くなることもない、というのが、どうやらお上の考えらしかった。だから最初から役人もいない。ここは開拓者の町なのである。国は自由な新地開拓を認めたが、決して多くの援助は行わなかった。月に一度ぐらいは隣町から役人が視察に来るが、その時に多少変な輩を見かけても、余程のことでなければ問題にならない。これで目をつむってくださいよ、と、いくらか握らせておけば万事解決の、だから、この町はロクデナシばかりで愛しい町だよと男たちは酒を飲んで笑っている。


「これだけ酒代として置いていくよ。あと足りない分は、その"切り裂き撃ち"の銃を売っ払って作ってくれ」


葬儀屋を頼むに十分すぎる額を受け取った店主は、黙って頷くと、カウンターにグラスを置いてウィスキーを注いだ。今度こそ凄みのかけらもない無邪気な笑顔で青年は店主を見上げると、これも黙ってカウンターに座りなおす。瞬間、わっと客が青年を取り囲み、一斉に囃し立て始めた。一方で死体を見下して文句を言う者、自分の酒をとりに行く者、女を誘って二階に上がろうとする者、それぞれの思うままの時間が再開される。

 酔っぱらって肩を叩いたりしてくる他の客をてきとうにあしらいながら、青年がグラスを傾けた時である。酒場に、やたらにでかい男の声が響いた。


「なんだぁ、嬢ちゃん!道にでも迷ったか?」


男は酒場の常連で、二軒先の雑貨屋を経営しているトントールという。声も外見も下品だが面倒見のいい男で、そういう男の声であったから、皆、首を伸ばして声のした方を振り返った。

 トントールは死体の始末をつけるために葬儀屋を呼んできてやろうという道徳心で出口に向かっていた。若い頃は自慢にしていた金髪ブロンドもすっかり薄くなり、自分の店で仕入れた派手なハンチング帽を被って頭を守っている。恋女房はあまりそれを好まないらしいが、一番の気に入りであった。その帽子を一度脱いで、つるりと頭を撫でまわしたトントールは、困った風で店内に助けを求めた。

 トントールの肥満した体に隠れていた「チビ」が、トントールが振り返ったことで初めて店内の他の客からもよく見えた。栗色の長い髪をおさげに編み込んで、細かな花柄のワンピースを着ている少女。そばかすだらけの顔にブラウンの瞳。


「どこの農場で鶏の卵を拾っていらっしゃるお嬢さんかな?」


客のひとりがそんなことを言ったが、少女はまるで無視して三歩だけ店内に入ってきた。深呼吸してゆっくりと周囲を見渡すと、震える声で叫ぶ。


「お願いします!どなたか、姉さんを助けてください!取り返してください!」


その声は、汚らしい口髭の芝居など問題にならぬほどに、切迫していた。


2.

 伝説の大魔法国家「星の国ゲーツァ・タルト」が滅亡した時を紀元とした後星暦で1734年、即ち、王国歴241年、世界は未だ星の国の魔法にかかったままでいる。各地には彼の国に由来する儀式・遺跡・伝説が残り、今日の魔法も元を辿れば彼の国にたどり着くという。古くから続く祭祀や慣習に関する物事は古い言語で呼称され、古代の人々の言霊は今でも息づいている。そして、まだ己の魔法能力も知らない幼い子どもたちも、いずれ彼の国が久しき眠りより目覚め、世界が再び荘厳なる星の輝きを取り戻すのだと夢物語に聞いて育つ。"アルト"―即ち、魔力結晶―を神から授かった八人の戦士が集結し、封印された国をよみがえらせるのだという"八つ星パ・バルツァ伝説"である。史上最も優れた魔法使いである"八つ星"は人々の夢であり、その夢に近い者、つまり魔法に秀でた者たちが国を作り、その子孫たちが治めてきた、それが、この地の人

々の歴史であった。

 アミリア大陸の九割近くを統治するエドクセン王国のはじまりは、戦火に包まれていた。フィリツ家初代トライン・フィリツの時代は、戦乱の時代であった。トライン・フィリツとイーデロ・フィリツの二代にわたり戦い抜いた時代があったらばこそ、エドクセン王国は政権を維持できたのである。

 その先代・先々代の事業を引き継ぎ、現在の広大な領土と安定した政権の獲得を果たしたのが三代目タンリツェン・フィリツである。この男は各地の争乱を平定すると、後星暦1113年、エドクセンを王都としたエドクセン王国の建国を宣言し、この年を以て元年とするエドクセン王国歴の使用も始まった。

 それから二百余年が経過した。現国王リトレ・フィリツはフィリツ家の十四代目に当たる。長く続いた泰平に慣れきって堕落した血統は、今や神輿の上の権力者の顔に建前の化粧をすることも知らなかった。後世に"王国の寿命を縮めた最大の功労者"と評されるこの王は、金と権力と美女とに耽溺し、青春を使い切った。眼前に迫る老いに頭を悩ませるふりをして、最近新たに迎えた若い側室の膝枕で眠るのが日課の老人である。

 この男にも兄弟はあった。その中からこの男が世継ぎに選ばれたのは優れた指導者になることを期待されてのことではない。この男は、フィリツ家代々の当主と比肩しても優れていると言っていい、強大な魔力を有して誕生した。その"偉大なる"魔力をどう使うかはともかくとして、そこだけを評価されたのである。

 とにかく魔力が多い、それだけでよかった。長く続いた魔法国家としての歴史が、魔力量こそが権力の象徴であるという伝統を築き上げ、実際に王がいかに政治的に無能であろうとも機能するだけの国家システムが確立されていたことが、ひとまずの平穏をもたらした。

 しかし、いくらかの人々は気が付いていた。エドクセン王国という大樹の目が眩むほどの荘厳な枝ぶりの陰で、その根が、その内部が、徐々に枯れつつあることを。華麗な紅葉は盛りを過ぎ、間もなく枯葉に覆われるであろう。次の春にまた大樹が芽吹く保証はない。そう感じる人間が少ないながらも確実に存在していたのである。

 エドクセン王国という大樹には、この頃、嵐も近づいていた。激しい雨風に晒されて、果たしてこの木は無事でいられるであろうか……秘かに案ずる人々は、各々に考えた。最後まで己を幹として枝葉を支えようとする者、もはや手の打ちようがないと斧を用意する者、それぞれに運命は動き出していたのだが、この時点ではまだ当事者の内にも、己が何を成すのか見えていない者もあった。

 酒場の青年は、まさしくそのひとりであった。

 都は、その名を建国に際し、八つ星パ・バルツァの筆頭と伝説される"空星"の戦士から借り受け"アスキア"と変更されている。その王都アスキアより東南の町、クルトペリオ、それが、この町の名である。やはり星の国ゲーツァ・タルト時代の言葉で"人工の宝"を意味している。

 魔力が少ないために都を追われるように旅立ち、新地を開拓しながら外へ外へと向かっていった人々が作ったこの町を、青年は気に入っていた。ヘーゼルグリーンの瞳を持った小さなガンマン、人々は彼をその外見から"キッド"と呼ぶ。ある者は親しみを込め、ある者は揶揄を込め、誰からともなくキッドとなった。女のような外見を"キティ"などとからかう者もあったが、なるほど身軽でしなやかな足取りは猫のようでもある。ただし、この仔猫は鋭い牙と爪を持った獅子の仔で、キティと侮った者の眉間には、一度ならず恐ろしい精度で弾丸がぶち込まれたことがある。

 キッドの本名はわからない。年齢は二十歳を過ぎているというが、それを証明するものもない。彼は無法者アウトローであり、だからこの町に流れ着いた。この町は、そういうところであった。様々な理由で世間から外れた者、そういう者を愛する者が集まってできた、明るく楽しく、危険な熱気に満ちた町であった。すぐとなりには王国の支配がきっちり行き届いた町があったが、その権力も街道沿いに捨てられてしまうらしい。この町には酒と博打と音楽があり、歌って踊って死ねれば本望な、ごろつきどもの住まう町、それがクルトペリオであった。

 キッドはここで生きていた。ここに流れ着く前の過去のことはすべて忘れて、いずれここで死ぬのもいいと思っていた。この酒場で、いつもの勝負に負けて、誰かに罵られて死ぬこともあるかもしれないとすら思い、それも悪くないとさえ、この青年は考えていたのである。

 だが、運命は少女を連れてきた。

 この運命は、キッドの運命の中ではまだまだ小さな欠片に過ぎない。だが、この少女がきっかけで彼の運命は目を覚ました。歴史が為すべきことを為させるためか、それとも、青年自身が心底でそれを望んでいたのか、わからない。いずれにせよ、それはまだ先のことであったが、確実に彼の運命は走り出したのである。

 己がそのような役目を運命に背負わされたとは知らず、栗色の髪をしたそばかす顔の少女は明らかに怯えた様子で立ち尽くしていた。やっと出てきた言葉が「姉さんを取り返して」で、それだけ叫ぶと、また震えて黙ってしまう。


(無理もない)


キッドも、大半の客もそう思った。

 見たところ近くの農村の娘である。年頃は十かそこらであろう。純粋そうな大きなブラウンの瞳には、いつもは広い空とかわいらしい草花、愛する家族と動物たちをうつしているのにちがいない。比して、この外れ者の吹き溜まりのような酒場に見える光景はどうであろう。店内の客どもは、少女がこれまで見たこともない種類の生き物だった。汚く伸ばした髭にビールの泡をつけた者。一見は紳士風だが、カードとコインを愛している者。女もいたが、濃い化粧に胸元もあらわな衣装で男にしなだれかかっている。ここらで流行でも、早撃ちのゲームを少女は知らない。彼女には、床に散らばったままのグラスの欠片は乱闘のあとと見え、しかも床には今撃たれたばかりらしい死体が転がったままで、もうこの店内に人殺しがいることは確定しているのであった。

 あわれに思った雑貨屋のトントールが身を屈めて顔を覗き込んだが、それにも驚いて身を強張らせる。「てめーじゃだめだろ」とトントールをからかう声が客のひとりから投げられた。


「ぼんやり立ってても、どうにもならないわよ」


ひとりの女が少女に歩み寄った。娼婦のルルーナである。長い髪の艶っぽい三十路女で、二人の子どもがいるから、大分優しげであった。


「あんた、名前は?」

「アルフィナ……」


女の柔らかそうな肌と落ち着いた声に少し安心したのか、小さな声だが少女は答えた。


「まぁ!八つ星パ・バルツァの花星の名ね!すてきね!」


ルルーナは大袈裟にほめた。八つ星パ・バルツァ伝説にあやかって、同じ名をつける者は多い。アルフィナもそのひとつで、八つ星のひとり、"花咲く星"という意味の通称を縮めたものと伝わっている。


「父さんか母さんがつけてくれたの?」


「あの……これは……」少女の声が上擦った。大きなブラウンの瞳から、涙がみるみる溢れてくる。


「姉さんが考えてくれたって、おばあちゃん言ってた。やさしくて、大好きな姉さんなの……。なのに、あんな、こわい猿みたいなのを連れて……あの男……!」


眼前の店主すら気がつかない程度に、カウンターのキッドが目を細めた。


「"あの男"?男が姉さんをさらっていってしまったの」


"こわい猿みたいなの"という部分をルルーナは聞き逃した。ほとんどの客も、それについて何も感じていない。キッドだけがその言葉に、肩越しに見える少女への関心を強めた。少女自身も自分の言ったことをそう大したことだとは思っていない様子である。


「そう……そうです。ひとりで来たの。痩せっぽちで、出っ歯で、いやな感じの男の人でした……」


少女は、おそろしい記憶を必死に思い返し、時々身震いするほどに怯えながら、ゆっくりと語り出した。

 アルフィナと名乗るそばかすの少女は、曰く、北東の村に姉と祖父母との四人で暮らしていたそうである。母親はアルフィナを産んですぐに亡くなり、父親はさらに北へ行った町に出稼ぎに出ていて、年に一度も戻ってこない。それでも家族は、たまに届く父親からの便りを楽しみに、そして同封される僅かな生活費を頼りに、少しの家畜と小さな畑とを守りながら、ささやかに幸せに暮らしていた。

 その暖かな生活が奪われたのは、月の冴え冴えとした晩のことであったという。その晩、家族はいつも通り食卓の蝋燭にだけ火をともし、星の神に祈りを捧げて、和やかに談笑しながら夕飯を食べていた。

 風の強い夜であった。ふと、家の戸を叩く音がした。こんな時間に家族を訪う者などめったになかったから、はじめ、家族は皆、風で枝でも飛ばされてきたのだろうと思い込んだ。すぐにそれが誤りであったと気がついたとき、戸を蹴破って上がり込んで来た侵入者は、不機嫌そうに唇をめくれ上がらせて歯ぎしりをしていた。


「その男の人は、"ノックしてやったのに無視するとは、失礼だ"とか、なんとか、そんなことを怒鳴っていました」


侵入者の男は髭のない顎を撫でまわしながら値踏みするように室内を見回していた。明るい茶色の頭髪は少し長めにきれいに切り揃えられており、風で乱れたのが気になるのか、前髪をうしろにかきあげる素振りは気取っていた。背は高くなかった。眉毛が薄く、嫌な感じのする顔であった。


「おじいさんが怒って、入り口の方で怒鳴りあいが始まって……。ドアが壊れたとか、元々ボロだったとか。ぜんぶは聞き取れなかったけれど、男の人が、ずいぶん無茶を言っているような気はしていました」


訳が分からず、とにかく恐ろしくて、アルフィナはとなりに座っていた姉の腕に縋りついた。五つ年長の姉も表情を強張らせながら、妹の頭を胸に抱きしめてやった。侵入者のいやらしい目が、そのとき、すぅっと滑って姉妹を見た。ニタリと笑った顔の薄気味の悪さ!アルフィナは背筋に走った震えに、思わず、姉の胸に体を押し付けた。

 侵入者はすぐに視線を祖父へ戻すと、ポケットから一枚の紙きれを取り出して、またニタニタと笑いながら祖父へ突き出した。紙切れを受け取った祖父の顔がみるみる青ざめていくのを楽しむように、侵入者はゆっくりとしゃべっているのがわかった。囁き声はよく聞こえなかったが、いよいよ嫌な予感で女たちは身を寄せ合っていた。


『そんなばかな!』祖父が叫んだ。侵入者はニタリを最上級にした。


「なんの話なのかよくわからないけれど、お父さんが借金を作ったようなことを言っていたんです。でも、そんなことをするはずないのに!おじいちゃんも、そういって、それに返せるようなお金も、うちにはないし……。そうしたら、なら、外の馬や鶏を売れと言うんです。それは、あたしたちにも聞こえるように叫んでいたの。貧相だが、なぁ、二束三文にはなるだろうって。まったく足りないが、まずはそのぐらいはやってみせろって」


アルフィナが子どもなりにわかったことを思い出せる限りでそこまで話した時点で、ほとんどの者は半ば興味を失った顔をしていた。あからさまにあくびをした者もある。「つまり、なんだ、お嬢さん」雑貨屋のトントールが、少女を怖がらせないように精一杯気遣わし気に語りかけた。


「畑や動物の代わりに、姉さんが連れて行かれてしまったんだな?」


アルフィナが驚いたように顔を上げた。それから、また涙を零しながら頷いた。


「あたしたちだって抵抗したんです。おじいちゃんは昔……」

「あぁ!うるせぇ!やめろ、やめろ!」


突然、男の叫び声がして、少女はビクリと肩を跳ねさせた。


「借金肩代わりに娘連れてくなんざ、ありふれた話じゃねぇか!あーあ!どんな面白い話かと思ったら……」


カウンターの隅で飲んでいた男である。ルルーナがキッとその男を振り返った。


「ちょっと、あんたねぇ!」

「なんだよ。みんなだって退屈してんだろう?お前さんだって、そういう風に売られてそんな商売やってるんだろ」

「あたしのことなんか関係ないだろ。小さな女の子が困っているんだよ!」

「それこそ、どうだっていいね。姉さんを助けて、だってよ。助けても何も、払えと言われた金がなかったんなら、しょうがないだろ。こんなガキの話じゃ本当にどっちが悪いんだかわかりゃしねぇが、そういう話は役人にするべきだ」


ルルーナはちょっと黙った。実際、そうすべきだと誰もが思っていたからである。その"ちょっと"の間に、アルフィナは涙を拭いて、もう一度息を吸い込んだ。


「行きました、お役人さんのところには!ちゃんと、隣町の役所です!」


カウンターの男に聞こえるように、負けないようにと叫んだ。隣町であることを強調したのは、この町に役所がない代わりに、隣町の役人が勤勉であるという噂を少女も知っていたからである。叫んだ直後、また涙が溢れた。


「行きました……。でも、断られてしまったから……!あたしみたいな、子どもの言うこと、信じられないって……」


「ほらな」嘲るような顔を、男は見せた。


「誰も信じやしねぇよ。信じたって動いてなんかくれるもんか。てめぇみたいな……」


コトリ。そのとき微かだが確かな音がした。瞬間、喋りかけで歪んだ男の唇が不意に引き攣って動かなくなった。酔っぱらって、だらしなく赤らんでいた顔が、突然金縛りにでもあったように緊張して震えている。ルルーナとアルフィナはほとんど同時に男の視線を追った。トントールと他の者も、同様に、見た。

 キッドが、つい先刻、髭面の旅人を撃ち殺した青年が、グラスを置いた音であった。女のように美しく、少年のように澄んだ瞳が、帽子の下から男を見ている。

 衆目の中、キッドは黙っておもむろに立ち上がった。コツ。コツ。ゆったりと靴音を響かせて男に歩み寄る。足元の死体を一瞥もしないが、この場にいる者はアルフィナ以外全員、この子どものような背の青年が、この死体を作ったことを知っている。芸術的なまでの早撃ちの技術を持っていることを知っている。

 カウンターの男はゴクリと唾をのんだ。ほんの六歩、キッドは歩いたに過ぎない。だが僅か六回の靴音は、男の恐怖を増幅させるに十分すぎる効果があったようである。となりに立ったヘーゼル・グリーンの瞳に見下ろされた瞬間、男は何かに蹴飛ばされたように立ち上がった。


「な、なんだよ!」


立ち上がれば無論、男の方がキッドよりも頭一つ分は大きい。自分が見下ろす位置になることで、男がやっと絞り出したことばが、情けなくもそれであった。キッドは少し目を細めてため息を吐いた。男はまだ次のことばが出てこない。

 キッドは首をまわして、アルフィナの顔を見た。事情はよくわからないなりに店の中の空気を感じ取って黙っていた少女は、少し怯えながらも不思議そうに青年を見返してまばたきしている。キッドはまたすぐ男に向き直ると、


「腕のいい床屋を知っているんだ。紹介しようか」


薄く笑って、そんなことを言った。


「なにを……?」

「汚い髭が絡まっちゃって、うまく喋れないんだろ?」


カッと音がしそうなほど一気に男の顔に血が上る。この青年の、小首を傾げたこの笑顔の、なんと腹立たしく挑発的なことか。

 しかしギリギリで男は耐えた。男はただの運の悪いギャンブラーで、やっと稼いだ小金で酒を飲むことと、その酒で得た勢いで弱者に絡むか愚痴を言うことしか能のない臆病者である。喧嘩の経験はあるが、ほとんど勝たない。腰のダガーは実家を出るときに拝借してきたもので、その柄に手をかけるまでは反射で体が動いたが、この卑怯者には珍しく理性がそれを抑えた。

 視界の奥に転がっている、旅人の死体。同じ轍を踏むわけにはいかないとグッとこらえた、これが男の能力の限界であったろう。おかげで彼は命拾いをした。

 すわ、と息をのんだ人々も、ひとつ胸をなでおろす。間近で黙っていた店主も安堵した。ここでまた死体が増えるのは勘弁願いたい。だが、それにしても。店主は年老いて伸びた眉毛の下からキッドの存外に整った横顔をうかがい見た。それにしても、あの凄みはなんだ。先刻といい、今といい、大の男がああまで怯えるほどの、あのヘーゼルグリーンの瞳が発するプレッシャーはどういうわけだ。その目だけで人を射殺せそうなほどの鋭さで、不気味に穏やかで、それは朝陽が昇る直前の、世界の緊張感に似ていた。

 相手に争う意思がなくなったことを認めて、キッドは微笑した。


「おっさん、今度は青ざめているぜ。酔いがさめた?いいことだ。あんたは話の大事をすっかり聞き逃していた。勇気ある少女の姿を少しも見ちゃいなかった。ぜんぶ酒のせいってなら、もう飲むのはやめなよ、坊や・・


坊やに坊やと呼ばれる屈辱を、男は理解しきれずに小さく髭を震わせるばかりで突っ立っている。その様子を見て、キッドは無邪気に白い歯を見せた。


「これは没収」


酒を奪われ、反対の手で肩を叩かれて、男は力なく椅子に座り込んだ。そこへ店主がグラスに入ったミルクを出したものだから、どっと笑いが起きる。男は口惜しさと恥ずかしさに「チクショウ!」呟いてはみたが、なんだかすっかり気をそがれ、ミルクを黙って飲み干した。拍手して囃す者がいた。ミルクの甘さが髭に残った。

 キッドが、少女を振り返った。


「きみもミルク?それとも、あたたかなティーの方がいいかい?」


アルフィナは目を見開きながら、小さく首を横に振った。不思議そうに首をかしげる青年はいたずら好きの少年のようであったが、とてもカウンターに近づく気にはなれなかった。

 少女の目線が泳ぐのを見て、あぁ、と、キッドは肩を竦めた。心優しき農村の娘には、ここは恐ろしい場所であろうことを思い出したのである。キッドには居心地のいい空間も彼女には真夜中に森へ入るように不安であったろうし、気のいい仲間も鬼か何かに見えるであろうし、なんといっても、そういえばそこに死体があるのだ。


「まぁ、嫌と言うなら無理強いはできないけれどね」


独り言のように呟きながら、キッドはカウンターの椅子に座りなおす。それもわざわざ死体の一番近くに、である。店主がそれと察して、すぐに新しいグラスを用意して酒を注いだ。癖なのか、首を傾けた微笑で店主に挨拶を返すと、キッドは少女を振り返りもせずに続けた。


「残念だ。勇気ある少女だと言ったけれど取り消すよ。覚悟のない、ただの女の子だった」

「覚悟ならあります!」


アルフィナは反射的に叫んだ。叫んでしまってから、肩を跳ねせて、あからさまに不安げに眉を寄せた。だが、後ずさりそうになる足を叱咤して、目をぎゅっと閉じた。ここで引き下がってどうするのだ。幼い小さな体にありったけの覚悟を詰め込んで、ここへ来たのである。

 キッドが今度は首だけまわして、肩越しにアルフィナを見た。

 アルフィナが目を開いた。スカートの裾を両手で握りしめて、わずかに呼吸を荒げながら、大きな瞳でキッドを見返した。

 店中が黙ってふたりを見つめている。退屈な身の上話を聞かされているという消極的な空気は薄まっていた。キッドが言った「話の大事」が何かを知りたがる者。キッド程の腕利きが少女に興味を示したことが気になる者。アルフィナと名乗る少女に同情する者。単純に純な少女が珍しくて見ている者。特にすることがないのでぼんやり見ている者。理由はなんであれ、態度がどうであれ、店中の注目が集まっている。

 アルフィナは、妙に親し気に喋るガンマンを観察した。この青年もアルフィナから見れば大人の男だが、他の客たちと比べるとずいぶん若いように見えた。自分を怒鳴りつけた男も、その近くの男も、恐ろしくてよく見てはいないけれど床に倒れているのも、みんな髭を生やしていて、首も腕ももっとずっと太くて、声もガラガラと低くてうるさい。身震いがするほどにおそろしい。

 それに比べて、この人はずいぶん清潔感があって爽やかだと少女は思った。まず髭を生やしていない。もみあげもサッパリしていて、威圧感を与える男くささはどこにも見つけられない。体つきも他の男どもよりずっと華奢で、顔は小さく顎も細い。整った目鼻立ちに、やや薄い唇は、これは意図せずそう見える形なのかもしれないが、少し微笑んで見えた。ハスキーなアルトで語り掛ける口調は朗らかで、少しも恐ろしさは感じない、はずなのだが……。


(さっきのは、なんだったのだろう?)


怒鳴り出したカウンターの男を黙らせた、あの時の空気。あの時の場の緊張。あれは一体なんであったのか?


(よく、見えなかったけれど……)


あの時、カウンターで怒鳴っていた男は怯えた様子であった。周囲の人々も、この若者をというよりはカウンターの男を案じているように見えたし、この若者は、自分が思うよりもずっと危険な男なのではあるまいか?

 青年の腰にはガンベルトが巻かれている。銃は右と左に一丁ずつ。アルフィナに銃の良し悪しはわからないが、銃を所持しているのだから銃を撃つのだろうと漠然と思った。何を撃つための銃なのか。人を撃つための銃かしら。

 しばらく黙っていたキッドは、無論、アルフィナの視線が銃に行ったことに気がついている。無邪気な少女である。そんなにじっと他人の銃を見つめては、無礼者だと撃ち殺されても文句は言えない。ここはそういう場所なのだが、彼女の世界はそうではあるまい。「レディ」掠れたアルトが優しく呼びかけて、アルフィナは、はっと目線を相手の顔に戻した。


「ひとつ、きみの話を聞く前に話しておこう。この足元の死体。これを撃ったのはおれだよ」

「えっ?」

「きみの来る、ほんの少し前のことさ」


ブラウンの大きな瞳が更に大きく開かれた。驚愕に小さく口もあけて、少女はとなりのルルーナを見やった。


「本当よ」


ルルーナは少し躊躇を見せながら頷いた。


「でも、当然なんだよ。イカサマをしたのは向こうなんだから。勝負をしていたの、キッドとあの旅の野郎は。あいつはズルして、そのくせ負けて、無様にキッドを撃とうとした最低のクズ野郎さ」


少女は一生懸命に考えた。理由はどうあれ、この優し気に微笑んでいる青年は人殺し。信じられないけれど他の誰も反論しない。そう、銃を持っている男だもの。人を撃つことはあるはずだ。人を撃つための銃。あの左右の銃は、誰かを撃つための銃……。

 アルフィナは、短い時間であったが真剣に考えていた。自分がどこに来たのかを思い出していた。姉を奪われた。助けを乞うために、役人に断られた後、この酒場に来ることを選んだのは彼女である。祖父母に頼まれたのではなく、少女が自ら、ここに来たのだ、それは何故か。

 ゆっくりと深呼吸をして、少女はまた、ブラウンの瞳をキッドに戻した。


「……そう」


キッドがヘーゼルグリーンの瞳を満足げに細めて頷いた。


「この銃は、人を撃つための銃」


キッドは左手で銃を一丁抜くと、器用に指で回転させて気を惹いてから銃口をアルフィナに向けた。


「きみに必要な力だろう」


アルフィナは真剣な面持ちで銃を見つめた。拳銃というものを少女はこの時はじめてまじめに見たが、思っていたよりずっと小さい。その事実が、少女に何かを決意させたように人々には見えた。

 一呼吸を置いて、アルフィナは一歩、踏み出した。そのまま淀みなくキッドのすぐ後ろまで歩み寄り、改めてキッドの銃と、足元の死体とを見比べた。床に流れた血は、今やすっかり黒く変色して床にしみている。よく見ると、床も壁も、そんなシミがあちこちにあった。


「人を撃つだけじゃ、足りないの」


ブラウンの瞳が悲し気にキッドを見つめた。その答えを予期していたキッドは、相変わらず微笑みながら、銃をホルスターに戻した。


「魔法もなんにもかかっていない、ただの拳銃だけど、おれなら魔獣だって撃てる。きみの言う"猿みたいの"は、そういう類のものなんだろう?」


アルフィナは小さく、だがしっかりと頷いた。トントールが息をのんだ。店内にさざなみのように声が流れた。ただのチンピラではない、魔獣が絡む話となると、哀れな少女のお涙頂戴話とは誰も言えないのだ。魔獣が人に連れられて人を襲うなど聞いたことのない話である。


「今度は邪魔をしない。話をしてくれるね?」


意を決した少女が、キッドのとなりに腰を下ろした。


3.

 少女が落ち着いて椅子に腰かけたころ、雑貨屋のトントールは今度こそ葬儀屋を頼みに外へ出た。葬儀屋はこの酒場の目の前にある。すぐに黒い装束の小柄な老人がやってきて、近くにいた数人の男にあれこれと指示を出すと、さっさと死体を運んでいなくなった。この酒場の誰も、死んだ男がどこをどのように旅してきたのか、なぜ故郷を捨ててこんなところに来たのか、いくらも知らない。そうやって人が死んでいくことを思って、少女は少し悲しくなった。


「そんな顔をするもんじゃない、この街で」


店主がホットミルクを差し出した。アルフィナは店主の顔を困ったように見返した。


「でも、かわいそうです」

「自業自得だ。あれは、そういう旅をしてきた男なんだろうよ」

「死ぬために旅をしてきたみたいな言い方」

「だって、そうだと思うよ」


キッドである。


「死にたくないなら、あんななりしてこんなところ来たらだめなのさ。勇気と覚悟のないやつの銃なんて役に立たないよ」

「だからって必ず死ななきゃいけないことはないでしょ?」

「どうかな」


この人は、ひどく優しい口調で厳しいことを言う人。穏やかで、どこか遠く距離を感じる微笑だとアルフィナは思った。どうもこれ以上は問答にならない。子ども心にそう察して、アルフィナはもう一度だけ、死体の運ばれていった先に視線を投げた。もう出入口の扉は閉まっていた。

 アルフィナは向き直って、またキッドの顔を見た。キッドもヘーゼルグリーンの瞳を気持ち細めてアルフィナのそばかす顔を見返した。


「あの人、大きな猿みたいのを連れていたんです」

「侵入者の野郎?」


アルフィナは小さな顎を上下した。


「抵抗したんです、あたしたちだって。お金も動物たちもとられるわけいかないもの。おじいちゃんがいれば負けっこないって、あたしたちも最初はがんばったんです」

「おじいさんをずいぶん信頼している」

「おじいちゃんが負けるわけない」


誰かに言い聞かせるように、小さいが強い口調であった。


「おじいちゃん、昔お城で働いていた兵隊さんだったんです」


へぇ、と、少し驚くような顔をキッドが見せた。驚くと同時に、ほんのわずかばかり考えを巡らせて納得した、というような顔かもしれない。ただの借金取りのチンピラが魔獣など連れ歩けるはずはない。アルフィナにはわからない事情が裏にあるはずで、もしかすると、祖父の兵隊時代まで遡って事件は起こっている可能性もあった。


「城で何をしていた?」

「さぁ…。昔のことはあまり話さないから……」


その辺りの事情はアルフィナから探るのは難しそうだ。キッドは話題を魔獣に戻した。


「そのおじいさんがかなわないぐらいの猿っていうのは」

「あの、猿かどうかもわからないんだけれど……」

「いいよ。わかることだけ」


余程恐ろしかったのだろう。それを思い出して人に聞かせるだけでも小さな肩が微かに震えた。少女の勇気がすり減りそうでルルーナは案じたが、アルフィナはキッドをまっすぐに見返している。


「とにかく真っ黒で大きくて、夜だったのもあってよく見えなかったけれど、ときどき後ろの足で立ち上がったのが見えました。手で家具を掴んだり壊したりしていて……」

「うわ。そりゃあ化け猿だ」


客のひとりが青ざめて言った。


「大きいってどのぐらい?」

「立ち上がった時は…おじさん」


目の前の店主をチラリと見上げた。店主の身長は成人男性として小さくない程度はある。少なくともキッドよりは高い。


「あなたぐらいはあったと思います。二匹いました。はじめは見えなかったけれど、あの人が姉さんの腕をつかもうとして、みんなでぶったから、あの人が怒って"おい!出番だ!"って」

「それで猿が入ってきた?」


キッドの問いかけにアルフィナが頷いた。


(さて、そんなことがあるかな……)


キッドは一口、酒を飲んだ。

 アルフィナの言うことが本当ならば、魔獣は男が指示するまで付近で待機していたということになる。無差別に生物を襲う凶暴性を以て知られている魔獣が、人間の指示に従って行動し、攻撃対象の判断をも人間に任せるとは、聞いたことがない。

 魔獣がなんなのかは誰も知らないが、魔法とともに在る生物だという点では、人間を含むこの世界のどの生物ともかわらない。犬や馬と同様に人の助けになるのではないかと方法を探している研究者もあるらしいが、キッドはよく知らない。

 魔獣に近い種として精霊がいる。区別は曖昧で、実際は同じなのではないかという学者もいたが、それについてもキッドは興味がなかった。いずれも他の生物に比して魔力が高く、そのために魔獣は凶暴性が高まり精霊は知性が高まったのだとする説もあるが、確たる証拠はない。

 いずれにせよ人間より旧い歴史を持つ可能性のある、ほとんど神に近い生物であることは疑いがない。現にいずれも神として祀られた例もあるとキッドも昔、聞いた覚えがあった。


(そんな神がかりのものを人間が好き勝手できるとは思えないが……)


魔獣は荒ぶる神であり、鎮めるか討ち果たすものであった。政府も魔獣討伐には前向きで公儀討伐隊もあるし、民間でも魔獣討伐には報酬を出す場合が多い。それだけ実際の被害があるのだ。それを飼いならす?信じがたいことではあるが、少女が嘘をついているとは思えない。

 あるいはアルフィナの勘違いではあるまいか。少女はかなり怯えている様子である。本人も言う通り夜のことで視界も悪かったろう。薄ぼんやりと見えた影を恐れるあまりに人外の化け物と思い込んでいることはないか。

 周囲の大人たちのそんな表情に自信をなくしたのだろう。アルフィナが泣きそうなため息をついた。


「あぁ……。やっぱり信じられませんよね。あたしも自分で訳がわからないの。でもあれは人間じゃないんです。意味の分からない呻き声をあげて、人を襲うなんて……。首輪をつけられているのも見えました。人間だったら、そんなことないでしょ?」


出されたカップを両手で握りしめた。


「そんなの……信じてもらえないのはわかってます。だけど!だけど姉さんがさらわれてしまったのは本当なの!お願いします!本当に少しだけれどお礼もしますから……」

「あぁ。大丈夫。落ち着いて」


少女の切実な様子に気圧されて、キッドが片手を挙げて宥めた。まだ正式に姉の救出を引き受けてはいなかったが、断りづらくなったな、と思う。


「魔獣についてはもっと調べなくっちゃならない。人間に使われるなんて聞いたことがないし、おれひとりで手に負えたものかわからない」

「そう、ですよね。でも姉さんが……遅くなったら……」

「その下衆野郎はさ、姉さんを連れて行くときに何か言ったかい?どこぞに売り飛ばしてやろうとか、いくら持ってこないとどうとか」

「言いました!すぐに"例の物"をって」

「ふぅん……」


金ではない。何者かわからないが、魔物を使役するなどという技術を持った相手の目的が貧乏百姓のはした金とは思えなかった。あるいはそれを売れば破格の褒美があるのだろう。父親の借金などというのは話のきっかけに過ぎず、真の目的は別にあるというわけである。


(魔獣使役のからくりは単純に首輪にあるのだろうけれど。そんな魔法を使えるやつが狙う物…)


口ぶりから察するに、アルフィナは詳細は何も知らされていないに違いない。やはり祖父が怪しいが、恐らくこの少女は祖父が何かを隠しているとは思ってもみないだろう。

 キッドにとって、この頼みを引き受けて得があるかはまるでわからない。魔獣相手となれば危険も大いに増すであろう。だが、何気ない調子でキッドは笑った。


「姉さんは、まだ大丈夫」


最低限、命だけだが……。一心に姉を案じているアルフィナのブラウンの瞳の純粋さを見れば、これ以上悲しませるような真似はできかねた。

 キッドが視線をあげると、ルルーナが心配顔でアルフィナとキッドとを見比べていた。この娼婦は、この町で生まれ育ったにも関わらず優しく穏やかな女である。キッドは金褐色の髪を手櫛でいじって少し考えた。

 あるいは姉の方は何か知っているのかもしれない。それとも単純にチンピラ野郎の好みだったか知らないが、アルフィナと祖父母を置いて姉だけを連れ去ったというには、何か理由がありそうだった。待たせている間にひどい拷問をされなければいいが……。


「ところで、きみ、ひとりでここに?」

「ううん。三人で隣町まで来たの。でも、おじいちゃんのケガがひどくて、おばあちゃんと隣町の宿に。ここまでは来られなくて……」

「あぁ。がんばったね、それは」


こんな少女がひとりぽっちでこんな町に来たのかと思うと、それはキッドのような者でも憐れみを誘われた。この細い両足では街道を踏破できない。馬車を頼んだか、馬を借りたのか、いずれにせよ大冒険であったろう。祖父母が幼い孫娘を送り出す心情も切なかったろう。本当なら隣町の役人が仕事をしていれば、少女はこんな恐ろしい酒場に足を運ぶ必要などなかったのだ。

 いや、役人が仕事をしなくても、どうして彼女はここへ来たのか?今更、キッドはその疑問に気がついた。


「隣の町では、誰も本当に助けてくれなかったの?」


ずっと同じ疑問を抱えていたらしいルルーナが訊ねた。


「役所のおじさんが、ここへ行けって言ったんです。もう誰を頼ったらいいのかわからなくて困っているときだったから、その人の言う通りにしてみようって思って」

「この酒場へ?隣町の品のいいレストランじゃなくて?」


アルフィナははっきりと頷いた。


「この町の、葬儀屋さんの前の酒場に、この人がいるからって。この人はいなくっても、きっと誰か助けてくれるって」


ポケットを探って、小さく折りたたまれた紙片をアルフィナは取り出した。手配書らしい。開いて皆に見せながら、アルフィナは続ける。


「今いないみたいですけど、でも、キッドさんや皆さんが相談に乗ってくれたから。ありがとうございます。でも、本当ならこの人がいれば……」


キッドがみっつ瞬きをした。ルルーナが手配書を覗き込んだ。


「あら。いるわよ、この賞金首」

「え?」


平然と言うルルーナにびっくりして、アルフィナは素っ頓狂な声を出した。ルルーナは別に気にする風もなく、手配書を見つめながら繰り返した。


「いるわよ。今、まさに、ここに」


アルフィナが目をパチクリと瞬かせている。

 手配書はアルフィナも無論確認してある。"役所のおじさん"は手配されている人物について"賞金稼ぎが追う価値もない程の安い賞金"と言っただけで他は何も教えてくれなかったが、こうして紙に書いてあるのだからとアルフィナも追及はしなかった。この時、純粋なアルフィナは少しの疑いもなく白髭の男を信じていた。賞金首だろうとなんだろうと、危険な町だろうとどこだろうと、家族を助けてくれるのならば会いに行かなければと決心していた。必死に探した馬車の持ち主は"お嬢さんが行くような町じゃないよ"と繰り返し注意してくれたが、アルフィナは引かなかった。恐ろしかったが勇気を失くさないようにと、縋るような思いで手配書を確認したのだ。


「ここにいるって、この"払暁のガンマン"って人ですか?」

「えぇ。別名"ノーバディ・キッド"ね。恥ずかしい名前よね」

「ど、どの人ですか?あの、お願いします!どなたですか?」


店内をぐるり見回したが、誰も名乗り出ない。ニヤニヤと笑うばかりで、それらしい人物は見当たらなかった。

 アルフィナは手配書の内容を思い出して似ている人間を探そうとした。手配されているのは男で、名前も歳もわからない。背は高く、肩幅広く、かなり大柄な人物。黄金色の髪と瞳、そして同じく金の銃が夜明けの空のようであることから"払暁"と仮称されているということであった。

 ひとり、ボサボサの金髪を帽子に隠した無精ひげの男が窓際に座っている。目はブラウンに見えたが背は高そうだ。目が合った。


「あなたですか?」


すかさずアルフィナは問うた。男は笑って手を振る。


「残念。俺は確かに似合わず"キッド"だが"花咲か小僧ブルーミング・キッド"ってあだ名」

「酒を飲みすぎていっつも鼻が真っ赤に咲いてる」


同じテーブルの男が下品に笑いながら解説をした。


「それじゃ、あなた?それとも、そっちの?違う?」


色の濃淡を問わず金髪の者、体格のいい者、銃を持っているいかにも強そうな者、アルフィナは一生懸命であったが、どの男も首を横に振るばかりである。いよいよ必死の顔になってきたとき、ルルーナがうしろからアルフィナの肩をつかんで体を半回転させた。


「ちがう、ちがう。いるでしょう、キッドさんなら」

「えぇっ?でも……」


アルフィナの反応に店内は実に愉快そうに笑い声をあげた。それはそうだ、やっぱりだ、信じないよなぁ、親しみのこもった揶揄の声が次々に聞こえてくる。

 少女は目を疑った。彼女の目の前でカウンターに座っているのは、どう考えても小柄で、華奢で、確かに"坊やキッド"であろうけれども、髪は金褐色、銃は有り触れた銀色でグリップも金色は見当たらず、瞳はヘーゼルグリーンの……。

 つまりキッドである。

 驚きのあまり二の句を注げないでいるアルフィナに、小さく苦笑して、キッドが口を開いた。


「レディ。きみの窓口担当の男は、頭はきれいに禿げあがっていて、鼻の低い立派な白髭の爺さんだった?」


アルフィナは不思議そうな目をしたまま小さくうなずいた。


「クリミットの爺さんだ。生きていたとは思わなかった」


キッドが口の中で「なんてことだ」と呟いた。


「どうやら断れなくなった。オーケー、レディ。きみの姉さんはきっと助ける。礼はいらない。ハゲじじいからふんだくる・・・・・から」

「それじゃ、本当にあなたが"払暁の"……?」

「一部の人間が言ってるだけだよ。おれは……でも、そうだな、ノーバディ・キッドは無茶苦茶だけど悪くない。おれは名無しだからね、誰もいないノーバディのと同じことさ」


言いながら、キッドは帽子をかぶり直して立ち上がった。


「明日、東の広場においで。"水瓶座"がきみを歓迎するよ」


言って、お道化た様子でウインクした。そのキッドの笑顔に、瞬間、アルフィナは自分の全身に小さな雷が落ちたように思った。異常な予感が全身の神経を駆け巡る、その電気信号を脳が認識したような感覚であった。何かはわからない。だが、何かが起こる予感が、唐突に少女の心を支配した。


「待っ……」


アルフィナは右手を小さく伸ばしたが、キッドはひとりで酒場を出て行ってしまった。


「水瓶座?今あいつ水瓶座って言ったか?」

「水瓶座が来るのか?おい、見に行こうぜ」


男たちが騒ぎだした。アルフィナにはなんのことだがわからなかったが、誰にも訊ねる気分にはなれなかった。少女はじっと、名無しの青年が出て行った扉を見つめていた。

 ルルーナが、そんなアルフィナの様子を見て心配したのだろう。優しく肩を抱いて話しかけた。


「大丈夫よ。あいつ、賞金首ったって女には優しいのよ」


アルフィナはルルーナの声に答えられなかった。

 何が起こったのであろうか。アルフィナ自身にも理解ができていなかったが、何故か、突然、アルフィナはキッドという青年に、言いようのない不安を覚えた。青年が、ただ初対面の他人であるという以上に未知で、底知れぬ危うさを孕んでいるように思われたのである。

 もはやキッドが悪人かどうかなど、どうだってよくなっていた。悪人どころか、もっと厄介なものにちがいない。先刻、キッドと同じ扉から運び出された死体が脳裏をよぎった。カウンターで怒鳴っていた男はまだ隅っこでミルクの入ったグラスを眺めている。あの青年は、これまでにきっと何人も撃っているのだと、この時点でアルフィナは納得していた。

 だが同時に、彼ほど愛すべき人もいないように思われた。ヘーゼルグリーンの瞳はひどく澄んでいて、それがどういうわけか、ひどく悲しく思い出される。彼は何か切ないものを抱えているのではないかしら。何故かそんな気がする……。

 自分は、何かとんでもないものと関わってしまったのではないだろうか?キッドが出て行った扉の向こう、姉を助けるための道が、ひどく重大なことにつながっていくような奇妙な予感に、少女は暫し動けずにいた。

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