第323話 能面(1)視線

 舞台の真ん中で、足をダンッと踏み下ろす。響く音は演者によって不思議と違い、榊の音は、力強くてまとまった感じだ。

 そこで榊は扇を持っていた手を下ろし、テープを止めた。休憩にするらしい。

 垣内は覗いていた窓からソッと顔を引っ込めた。

 次の舞台でシテ――主役を射止めたのは榊だが、垣内は不満だった。噂だが、先生の孫が榊の事が好きで、迷うくらいならと榊を押したと聞いている。そんな事で自分が落ちたのかと思うと、腹立たしい。

 榊がトイレにでも行くのか、稽古場を出た。

 魔が差したのだろう。垣内は無人になった稽古場に入り込んで、飲みかけの御茶のペットボトルに、少量の薬物を入れた。そして、急いで稽古場を出て行く。

 しばらくして戻って来た榊は、お茶を手に取り、一気に飲んだ。

 苦しみ出したのは、その直後だった。

 その姿を緊張しつつ眺めて入るタイミングを計っていた垣内は、ふと、面を見て、ギクリとした。女の面と、目が合ったような気がしたからだった。


 蒸し鶏のサラダを食べて、冴子姉が言った。

「本当、柔らかい。60度がいいのね」

 御崎冴子。姉御肌のさっぱりとした気性の兄嫁だ。母子家庭で育つが母親は既に亡く、この秋、兄と結婚した。

「タンパク質は熱で急激に固まるから、そのくらいでじわっと熱を入れると固くならないよ」

 御崎 怜、大学2年生。高校入学直前、突然、霊が見え、会話ができる体質になった上、神殺し、神喰い、神生み等の新体質までもが加わった、霊能師である。面倒臭い事はなるべく避け、安全な毎日を送りたいのに、危ない、どうかすれば死にそうな目に、何度も遭っている。

「料理も、科学なんだな」

 兄が面白そうに言う。

 御崎 司。頭脳明晰でスポーツも得意。クールなハンサムで、弟から見てもカッコいい、ひと回り年上の頼れる自慢の兄である。両親が事故死してからは親代わりとして僕を育ててくれ、感謝してもしきれない。警察庁キャリアで、警視だ。11月から、警備部理事官になった。

 兄と冴子姉が結婚したのはこの秋で、新婚さんだ。それなのに3人で暮らすというのはどうも僕が邪魔なのではないかと思うのだが、兄も冴子姉も保護者として同居は当然と思っているらしく、この先は転勤があるだろうが、それ以外での別居は許可しないと言っている。

 ただ、家事の分担は変わった。

 掃除と洗濯は冴子姉、基本的に平日の食事は冴子姉で、休日は僕。今日は冴子姉の日だが、蒸し鶏がわからないと言うので、一緒に作った。

 焼きうどん、ひじき、蒸し鶏のサラダ、豆腐とあげとねぎの味噌汁。

 どうも冴子姉は、炊事が一番苦手らしい。男飯的なものばかりを食べて来たらしく、肉野菜炒め、インスタントラーメン、カレー、やっこ、カツ丼、うどん、そば、スパゲティ、その辺りをローテーションしていたらしく、それ以外は、バイト先の賄いとスーパーの総菜という食生活だったようだ。なので、料理本を見ながら料理に取り組んでいる最中で、今度は魚の捌き方を教える事になっている。

「明日、仕事なんだって?」

「うん。大学の能楽研究会からの依頼でね。稽古場でおかしな事が起こるらしくて」

「そうか。気を付けて行って来いよ」

「うん。横浜の方だから、お菓子か豚まんを買って来ようかな。どっちにしよう?」

「豚まんがいい!」

「わかった、豚まんね」

 夕食は和やかに過ぎて行った。



 



 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る