土の中の蝉
前嶋エナ
第1話
暑い。暑い…、座るおしりが熱い、焼けてるかもしれない、日差しが暑い。顔が溶けていく、ほら、だって首を汗が伝ったもの。暑い…
「ねぇ、夏だしエッチしようぜ。」
暑い…暑いのに何言ってるんだこの男は。私に言ってるのか?それとも独り言なのか?
「なぁ悠莉。」
名前まで呼ばれて悠莉は隣に座る薫をやっと見た。薫は熱で顔が赤い、Tシャツに汗をにじませ顔を歪めている。
「今ジュース飲もうぜっていった?」
今の薫の顔からはその台詞の方が似合う。
「ちげーよ。もう、いいや、あちぃ。」
薫が目線を戻す。悠莉も薫から視線を戻し前をぼんやりと見る。線路の向こう側には森が広がっている。田舎町の電車は遅い。ホームは小さく、薫と悠莉しかいなかった。
蝉が夏を歌い、二人の耳をつつく。もう一度薫が「あちぃ。」と呟いて、悠莉はたまらず口を開けた。
「ほんと暑いよね、夏って好きだけど暑いのは嫌…そうだね、エッチしよ。」
もう一度薫の方を向くと、やはり薫の顔は赤かった。日差しだけのせいではないだろう。
鹿児島県、日本最南端の西大山駅で交わしたその言葉の行為は、次の日悠莉の部屋で行われた。
小さなアパートにあるその一室は、やはり暑くて、熱くて、赤くて、冷蔵庫に入れた常温のお茶は、よく冷えて行為を終える二人を待っていた。
「お前らこの間二人で西大山駅までいったんだろ?」
悠莉と薫が学食を食べていると、佑樹が後ろから二人に声をかけた。
「あぁ、いつの話よ。夏休みにな、もー暇すぎてさ、最南端の駅までいってみよってなったのよ、なんもなかったけどな。なぁ、悠莉。」薫は隣でラーメンをすする悠莉を見るが、口一杯にラーメンをいれた悠莉は無言でうなずくのが精一杯である。
「二人で~?そんなところに~?いやー怪しいぜー怪しいなーいいなー夏だよなー!」
佑樹の言葉を聞いて、やっとラーメンを飲み込んだ悠莉が水の入ったグラスをつかみながら佑樹を見上げた。
「もう夏ったって九月でしょ。それにそんなんじゃないからね、独りぼっち組で最南端までいって彼氏ができますよーに!って叫んできたの!彼女がいる佑樹にはわからないだろうけどねー!この切なさ!」
言うだけ言うと水を一気に飲み干した悠莉をみて、薫が笑った。
「ま、そーゆーことが。なんもありましぇん。」
薫はすでに空のお皿がならぶ自分のトレーを前に押しやり、テーブルにつっぷした。
つまらないというような表情の佑樹がため息をつく。
「ほんとにお前らがただひたすら仲の良い友達ならいっとくけど、二人でいるからお互い良い人に出会えないんだろ。」
その言葉に薫が顔をあげて肩をすくめた。
「だってどいつもこいつもイチャイチャする相手がいるんだから、暇なのよ、俺もこいつも」こいつ、と言いながら悠莉を顎でさす。「ま、俺らが仲が良いのは否定しないけど。」
そー、仲良しー、と感情のない声で悠莉が答える。
何かを言いかけた佑樹をさえぎるようにチャイムがなった。
三人で並んで教室まで戻った。
悠莉は、やっぱり学食のラーメンってあまり美味しくないな…そんなことを思いながら隣の薫の横顔を見た。
放課後薫を誘って美味しいラーメンを食べに行こう。
そう心で思いながら、つまらない授業に耳を集中させた。
千葉で育った悠莉が鹿児島へ引っ越してきたのは六年前だ。その時は両親と共に暮らしていたのだが、一年前に父親の転勤が決まり、この町の匂いを好いた悠莉だけがここ、鹿児島県に残った。
二十才で突然始まった一人暮らしはなかなかに大変だった。お金こそ両親が送ってくれるものの、洗濯物、毎日のご飯、掃除…。
両親の反対を押しきってきめたことであったため、後から引き返すわけにもいかず、手探りでやってきた家事だったが今ではすっかり身に付いている。
トーストなんか、めちゃくちゃ美味しく焼ける。
薫るとは、大学二年生の時に出会った。
図書室で高い棚の本をとれずに四苦八苦している悠莉をみて、笑いながらその本を渡してくれたのが薫である。
出会いこそなかなかにロマンチックであったはずなのだが「ありがとう」「いーえ」そんな会話のみで終わってしまい、その後夜中に小さなラーメン屋でばったり再会し、なんともロマンにかける、ラーメン好き友達として今に至る。
「いや、ここ、当たり。」
薫がスープを飲みながらにやっと笑った。
「うん!本当美味しい!いつものところも美味しいけどね、ここやばいかも!わたしもすごい好き!」
学校が終わり、ぶらぶらと商店街で遊んでいた二人は新しくできたラーメン屋を見つけて入っていた。
「もーさ、あれよ、鹿児島ではずれのラーメンなんかないんだよな、俺二十一年ここで生きてきてまずいラーメンなんか食ったことないもん。」
鹿児島でれねーなー、そう言いながら薫は煙草に火をつける。
「あっ、また煙草…」「いいじゃん」「匂いがうつるの」
ムッとして薫を見ると、真剣な目をしてこちらを見ていた。
「このあとお前の部屋じゃ吸わないから。」
「え?」
「なんだよ。」
「…来るの?」
「違うのか。」
「何が。」
「飯誘ってくれたからそういうつもりなのかと」
「ほんと馬鹿だよね。」
「俺が?」
「…私でしょ。」
煙を長く吐いて、薫が煙草を消したので二人で席をたった。
悠莉のアパートは鹿児島の中心街にあった。
大きな商店街を抜けて、照国神社を右手に見て道なりに進む。住宅がぽつぽつとある間に小さな公園がある、その公園の奥にある小さなアパートの二階、そこが悠莉の家だった。
当たり前のように薫が鍵をあける。合鍵を渡したのはあのことがあってから二週間後だ。
薫に頼まれて渡したものだが、悠莉無しで薫が家にいたことはまだ一度もない。
「ただいまー」
「お邪魔します、でしょ」
悠莉は言いながらベランダへの戸をあける。
「もうこの時間だと少し涼しくなるね」
そうだね、と、薫がうなずいて続けた。
「夏がおわっちまうよ。」
その言葉に悠莉が答える。
「暑いの嫌だから夏の終わりが好きって昔いってなかったっけ?」
「あー、言ってたかも。」
「まぁわたしも冬が好きって言いながら、実際冬がくると寒くって嫌いって思ったりしちゃう。」
「そーね。でも」足を組み直して薫は胡座をかいた「そういうんじゃないのよ、俺は今年の夏の終わりが嫌いなんだよ。」
「なにそれ。なにか、」あるの?と続けようとすると、後ろてを引かれ視界が反転し、上には薫の顔があった。
「…お風呂はいってからがいいよ。」
「ダメ。」「なんで。」
「俺が待てないから」
薫のセックスはいつも急かしいものだった、床ですことも多く、ある時は服を脱ぐ時間さえ惜しいとでもいうように、ブラウスを引っ張られてボタンがとれたことさえあった。
「そういえばこの間悠莉の元カレ見たわ。」
事が終わり、ベランダで煙草を吸いながら薫が言った。
「あー、ここら辺に住んでるもん。」
「え、近いんだっけ?」
驚く薫をみて、悠莉が呆れる。
「ずっと言ってたじゃん、ほらあそこ、高田病院のとこ少しはいった先にあるアパート、あれ」
「あー…なんか、付き合ってて幸せそうだったときよく言ってたな…。」
「そ、ほんと覚えてないよね。」
「人の幸せを喜べるほど俺は心が広くないのよ。」
薫はわざとらしく手を胸にあてて苦しい表情をした。
「だから薫は彼女がずっとできないんだよ!」
そうかも、と、薫が笑う。
そうだよ、と、悠莉も笑う。
「あのさ、薫、薫はもうわたしのこと好きじゃない?」
「好きじゃないね。」
「そーだよね、ごめん。」
「悠莉」「ん?」
「悠莉は俺のこと好きじゃないんだよ。」
「う、ん?なに?」
薫の言葉を理解できず、思わず聞き返す。
「だからさ、悠莉は、俺のこと、好きじゃない」
「えぇ…?」
煙草を終えた薫は悠莉の正面に座って悠莉をまっすぐ見た。
「お前、あいつと別れた理由、俺だろ。」
悠莉の元カレ、恭平は、ひとつ上の学年であった。成績優秀で優しく、ユーモアもあり、いつだって悠莉の理解者でいてくれた。
ただ、バイトも忙しく学業にも真面目な恭平と会えるのは、夜中の散歩か極たまに合う休みのみであった。
そんな中で薫と出会い仲良くなり、寂しさを埋めるように悠莉は薫と遊ぶようになっていた。
二人でラーメン屋巡りをしている中で一度こんな会話をしたことがあった。
「悠莉って彼氏いるんだっけ?」
「いるよ、薫は?」
「いない…ていうか、そーか、いるのか」
「なによ」
「いやぁ、別に。」
「もしかして私に失恋した?」
「…若干ね。」
そんな会話のあとからだろうか、悠莉はさらに薫とすごすようになった。
寂しさを理由に薫からの好意にどっぷりと甘えてしまう自分に、悠莉は嫌気がさしていた。好きなのは恭平、でも一緒にいてくれるのは薫。
そしてある日、悠莉は恭平に別れを告げた。寂しさに勝てなかった。そしてなによりも、その寂しさを埋めてくれる薫を失いたくはなかった。
「なぁ悠莉。」
「違うよ。」
「いや、そうなんだよ。」
「薫なんだか今日は変だよ。」
「悠莉。」「なに?」
「悠莉は俺のことを好きじゃないんだよ。寂しいときに、時間が溢れるほどある俺に出会って、俺に甘えちゃったんだよな。」「…それは、」
「そんな自分が嫌だったから、あいつに罪悪感がつのって別れを切り出したんだろ」
「そうだよ、そうだよ…最低だよ私。」
「最低じゃない」
「最低だよ、でもね、今はわたし薫のことが」「悠莉」
まだ、薫はまっすぐ悠莉を見ていた。
「悠莉は俺のことを、好きじゃ、ないんだよ」
今日三度目の台詞をゆっくりと薫が吐いた。
「寂しいって人間を狂わせるんだよ。」
薫の言葉が空気をつたって悠莉の鼓膜をゆらす。
「寂しいときに、誰かに甘えたくなるのはしょうがないんだよ」
薫は悠莉から目を逸らさない。
「その弱いときのお前を、俺が引き留めたから」
泣いているのか薫の瞳はゆれていた。
「時間のたくさん有り余ってた俺が。優しさで悠莉を縛ったんだよ」
薫の言葉をゆっくり頭で整理しながら悠莉は泣いていた。
「わかんないよ…何が言いたいの?」
「お前はちゃんと元カレと話せ。」
「なんでよ」
「このままじゃ誰も幸せになれないからだよ。」
「なにそれ…」
「お前が本心を隠してるから、」「じゃあなんでエッチなんかしたの!?」
薫の言葉をさえぎるように悠莉がほえた。
「どうしてよ。」
「ごめん。」「やだ。」
「時間がなくなったから、」「え?」
薫は泣いているようだった。
「あー、もう、お前さ、とりあえずあの、元カレ」
「恭平?」
「そうだ、思い出した、恭平にさ、ちゃんと気持ち言えよ。」
「なんでそんな…」
「それで、好きなら、ちょっとくらい耐えろ。寂しいのとか。」
「寂しいのは寂しいんだもん…。」
「でも今、会えなくなってもっと寂しいでしょ。」
「うん…」「でも今は俺がいる。」
「うん…うん、って言ったらなんだか私本当に最低な人みたいだよ。」
「最低でもいいの。でもこれから先も最低じゃ生きていけないのよ、悠莉。」
「生きていけるよ、別に…」
「幸せに生きていってほしいでしょーよ。」
「わたしが?」「そ、俺の気持ちとしてはね」
ああ、もう。と、悠莉は顔を手でおおった。
「薫の言いたいことはわかるけど、心の奥底がよくわからないよ。」
「俺さ、」薫は顔をおおったままの悠莉の手をほどく「お前と付き合いたかったし、エッチしたかったの、だからそのままの本心を言った。それでエッチしてさ、そしたら本心がまた増えたわけよ、お前のこと幸せにしたいと思ったわけね。」
やっと顔をあげた悠莉と目が合うとそのまま薫は続けた。
「で、お前の幸せについて…、人間の幸せについてよく考えたんだよ。多分、幸福ってのは人それぞれなんだけど」薫が悠莉の手をとりつないだ「自分自身が本当に求めてる人と一緒になって、自分の存在で相手が幸せになってくれて、そのめちゃくちゃ大好きな相手に自分の存在価値をみいだしてもらうことじゃないかな、と。」
薫の台詞を聞いて悠莉はため息混じりにこたえた。
「なんか言いたいことはすごくわかるけど、それって全人類が叶うものじゃないよね。」
「そういうこと。」
「不公平だなぁ。」
「まぁな、でもさ、お前はその幸せになれるチャンスがあるわけよ。」
「…。」
「言いたいことはわかるだろ。」
悠莉はうなずくような、首を横にふるような曖昧な態度をした。
「俺がこうやって手をださなければもっと早くに幸せになれたんだろうけど…すまん。」
「もう、突然あやまらないでよ」
「うん、ごめん。」
「………もしかして、夏が終わったらこれを言おうとしてたの?」「そ。」
「だから時間がないっていったの?」
「…ん?…うん、そうだよ。」
薫はつかんでいた悠莉の手を離して、悠莉の頭をなでた。
「眠いな。」「え?」
「いやぁ、もう眠い。」
「そうだね。」
「仲良く寝ようぜ。」
「…そうだね。」
二人して笑った。
蝉の声は、もうしなかった。
「悠ちゃん、また学校さぼったでしょ…。」
「さぼったわけじゃないよ!寝坊したの!」
「もー…四年生は本当に大切な時期だって」
「そうなんだけどさぁ…あ、ジャム何がいい?いちご?ブルーベリー?」
「ブルーベリー。」
「はいよー。」
「いや、雨予報がはずれて本当よかったね。」
「ね、絶対はずれるって言ったでしょ?あいつ本当に晴れ男なんだって。」
悠莉はブルーベリーのジャムを食パンに塗りながら楽しそうにこたえた。
「俺は結構雨男なんだけどね、そうだ線香あったっけ?」「あるある。」
ひとつのお皿にはチーズトースト、もうひとつのお皿にはブルーベリージャムの塗ったトーストをテーブルにおいて悠莉がにっ、と笑う。
「蝉もそろそろ静かになるね。」
「夏も終わるからね。」
「恭ちゃん、夏の終わりって好き?」
「ん?まぁあまり考えたことはないな。」
「私はね、嫌い。」
「なんで?」
「なんとなく。」
「なんとなく、ね。」
いただきます、と、恭平が手を合わせる。
「どこだっけ?場所は。」
「西大山の駅近く。」
「昼過ぎにはつくかな。」
恭平がちらりと時計を見た。
「そうだね。」
悠莉も時計を見上げる。
一年前の夏の始めに薫が余命宣告をうけていたということを、その夏の終わりに突然亡くなった薫の両親から聞かされた。
末期だったこともあり、薫は治療をせず、普段通りに過ごすことを望んだらしい。
普段通り、親友とラーメン屋巡りをして過ごすことを。
「ね、恭ちゃん、今日帰りにさ、枕崎の方にある美味しいラーメン屋いこうよ!」
「ええ…?ラーメンかぁ、俺はうどんとかがいいんだけどな。」
「いや、ラーメンがいいの。」
「はいよ、仰せのままに。」
恭平の言葉を聞いて満足そうに悠莉が笑う。
「さ、支度できたらいこうか、薫くんのところ。」
「うん。」
「お花も買っていこう、あとは線香もってね」
「うん。あと煙草買っていく。」
「あの世で煙草は吸えんのかね。」
「どうかなぁー、禁煙でも薫は吸ってそうだよ。」
「話を聞いてるとそんな感じだな」恭平が笑う。
「恭ちゃん、今日一緒にいくっていってくれてありがとうね。」
「ん?いいよ。」
「毎年一緒にいってくれる?」
「薫くんが許すかなぁ。」
「私が許す。」
「なんだそれ。」
「いいの。」
悠莉は空になったお皿を流しに運び、ベランダの戸をあけた。
まだ暑いけど、風があって気持ちがいい。
ポケットから鍵を出す。
前のアパートで薫につくった合鍵だ。
ヒヤリとして気持ちがいい。
一年持っていたが、もう、お墓に供えてやろう、そんなことを思ってそっと鍵をポケットに戻す。
夏が、そろそろ終わろうとしている。
土の中の蝉 前嶋エナ @ooashi0720
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